見出し画像

喜を綴る Vol.5 ~セロリを「嫌い」と言うことの怖さ~

こんにちは、霰綴喜です。BOOKOFFで買った星野源さんのエッセイを読んでいたらいつの間にか5月になっており、更新が遅れてしまいました。今回は自分の過去を振り返る系なのであまり中身は無いですが、お時間がありましたら最後まで読んでいってください。

「野菜嫌い」を疑ってみる

小さい頃、セロリが苦手だった。初めてセロリを食べたのは4歳か6歳くらいの頃であったと思う。

 あの特有の匂いとえぐみがどうも受け付けなかった。しかし、そんな僕を目の前に両親はセロリのスティックにマヨネーズを付け、美味しそうに頬張るのであった。
セロリを克服したのはそれから数年後のことだった。出されたセロリの漬物を口にしてみたところ、これは非常に癖が少なくて食べられる。気づいた頃にはセロリへの抵抗感は無に等しかった。

 自分の中に発生する「嫌い」という感情を認めてしまうのは恐ろしいことだ。「自分にはその良さが分からない」という事実、自分の未熟さを突きつけられるからだ。

  「世界が正しくて、自分は間違っている」───これは自分の根底にある大きな感覚のひとつだ。自分は世界に合わせて矯正されるべき存在なのだ、と。
  すなわち、自分の感情は自分をあるべき状態から遠ざけているのであり、それによって偏っていく視点を正さねばならないと感じるのだ。

「好み」の不確実性

 そもそも、好き嫌いというのは非常に曖昧で変わりやすいものだ。人々は感情というものを過剰に神聖視しているように思える。自分が嫌いだと感じたものは悪いものだと信じて疑わない。逆も然りである。
  所詮は自分にとって都合の良い側面だけを抽出してありのままの姿から目を逸らしているだけに過ぎないのだ。

 もし、最初に食べたセロリが漬物だったら?
セロリを嫌いになることはなかったかもしれない。
 もし、自分がセロリに対する嫌悪感を絶対視してセロリの漬物を口にしなかったら?
セロリ嫌いを克服することはなかったかもしれない。
好き嫌いというものは、そのもの自身の性質以上にそのものと自分との出会い方に強く依存するものなのだと思う。全ては偶然性のもとに成り立ち、それは絶対性を伴うものでは無い。

  かく言う自分自身もこの「偶然」により発生した感情に揺り動かされるだけの風見鶏に過ぎないのだと思う。
  死ぬまでの道すがら、2つのルートを経験することは出来ない。通る道は1本、自分の意志で選んでいるつもりでも、実際は生まれてから現在まで受け続けてきた外的な刺激の蓄積によって「選ばされている」に過ぎない。

  では、我々が所詮は偶然性の傀儡なのであれば、こうした偶然に揺さぶられることをとことん楽しんでみてはどうだろうか。たまたま出会ったものを大切にする、これで十分じゃないのか?そこに理由を求める必要はあるのか?

  人は変わっていく。今好きなものが大嫌いになる瞬間がいつか訪れるし、今嫌いなものが大好きになる瞬間だって同様だ。しかし、人は今あるものを手放すことを怖がる生き物だ。物の好き嫌いも同じだ。だから理由を求める。少しでも確固たりうるまのにして納得しようとする。しがみつくことを正当化しようとする。
  「それ、本当に好きなの?」という問いになんの意味があるというのだ。たまたま生まれただけの感情に本当も嘘もクソもあるものか。何処まで行っても不確かなものをわざわざ疑う意味などない。もとより揺れ動くものだ。

「好き嫌い」に自分らしさを求めること

  ほんの最近まで、好きな食べ物を問われた際に答えられる人が羨ましいと思っていたことがある。
  正確には、「好き嫌い」によって自己を規定できる人を羨ましいと思っていたのだ。「目に見えてわかりやすい感情で自らを説明できれば、どれほど楽だろう」と思っていた。

  美味しいと感じられる食べ物は数多ある。しかし、その全てを「好きな食べ物」と称するのは少し違う気がする。「肉と魚と野菜と果物が好きです」と言うのはおかしな話だ。しかし、美味しいと感じる食べ物のうちの一部を「好きな食べ物」として定義すれば、「美味しいと感じるが好きでは無い食べ物」というものが生まれてしまう。これは嘘をついていることにほかならないのではないだろうか。

  あれこれ頭を悩ませていたのが嘘のように、今となってはそれがどうでも良いことだと思うようになった。好き嫌いは変わる。人は変わる。そこに自分らしさなどは存在しない。「自分はこういう人間である」と規定すること自体不可能だ。
  人間とはそもそも一貫性を持たぬものだ。人は皆、義務とか責任とか誠実性みたいな内実を伴わない言葉を使って他人に一貫性を求めようとする。他人に向けたその鋒はいつか自分に向く。そうして互いに雁字搦めのまま縺れ合っていく。 どうでもいいが、ここまで書いた自分は漫画『リィンカーネーションの花弁』における、灰都とアルバート・フィッシュの戦いの結末を思い出した。
  変化していくことを受け入れることで逃れられる苦しみは、思いの外多いのではないか、と思った。わざわざ目に見える自己規定のあり方を求めたり、他人に過度な期待を寄せたり、思い描いた通りの自分になれなかったり、そういった苦しみは。
  仮に自分らしさなどというものがあるのだとすれば、それは変化し続けるその足の運びにこそ宿るものではないだろうか。喩えるなら、「点」と「点の軌跡が描いた図形の面積」だ。「自分が今この瞬間何処にいるか」はさして大きな意味を持たないのだろう。

  今の自分が持つ「嫌い」が明日も続く保証はない。今の自分が持つ「好き」が明日も続く保証はない。それなのに、不明瞭な「嫌い」に従って栄養を捨て続けるのは勿体ないことのように思える。だから今日もセロリを食べる。薦められた音楽を聴く。「もしもこれを食べることを敬遠していたら、この栄養は得られなかっただろう」と感じる度、少し大人になったような気がする。

最後までお読みいただきありがとうございました。また次号でお会いしましょう。

普段はニコニコ動画、Youtubeなどに音楽を投稿しています。よろしくお願いします。


Youtube

ニコニコ動画

Twitter

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?