偏質的俳句鑑賞-第二百十五回 狐火に大中小やわれは中-堀田季何『人類の午後』

狐火は魂かもしれない。
自分の魂はそんなに小さいほど卑屈ではないし、幼くもない。でも、だからといったって成熟しているわけでも、広い慈しみの心があるわけでもない。
自分の狐火は「中」くらいのものだと作者は言っている。
自分の魂も中くらいなのだろうなぁと思う。
みな自分を客観視してみるとそんなに尊大になれるものでもない。
「われ」と言っているが、これは読者が自分を当てはめる事もできる。
「狐火」という幻想的な季語だが、なぜか説得させてしまう力、共感できてしまう力がこの句にはある。詩に必要な要素とはこういう力なのだと実感させられる句だ。
次回も良ければ読んでください。

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