見出し画像

鹿児島マラソンの思い出⑥

左手の時計を確認すると、最後の関門のタイムリミットが迫っているのがわかった。激痛の足を交互に動かす、柔軟性のないただの木のようになっていた。

反対車線の行きのコースには、諦めないで走っている人がバスで回収されていく。乗った人の悔しげな顔がバスの窓から見えた。
雨が降る中、後方から救急科のサイレンが海岸沿いに鳴り響く。低体温症の人たちを運んでいるのだろう、3回目だ。

鹿児島市内の病院に行くために、サイレンが後ろから迫ってくる。波のうねりのように、端から真ん中へ、真ん中から端へ、道の中心に歩いて戻る。

指先は冷たく、感覚もなくなり、あめ玉の袋も開けられなかった。ボランティアの高校生にお願いをしてなんとか開けてもらった。

雨足が強まる中歩き続け、残り3kmのところまできた。この時点で、私は泣きそうになっていた。
ゴールへの嬉しさなのか、現状からの脱却なのかわからなかった。ただ、気持ちは高ぶりはじめていた。

動かない足を今までの以上に早く動かす。
足は限界だと悲鳴をあげていて、止まれば二度と歩けないんじゃないかと思うくらい身体には疲労がたまっていた。

そして、スタートから6時間30分後、鹿児島市役所前のゴールにたどり着いた。この瞬間、なぜか涙が溢れそうになっていた。
感情のダムが決壊したような勢いで、色々な感情が身体から水蒸気になって空へ昇華されていった。

ゴールしてから、靴につけたGPSを外しにいくと、足が痛くて曲げられない。
ボランティアの方がすかさず近づいてきて、ハサミで切って回収していく。感謝の気持ちよりも「早く帰りたい」で埋めつくされていた。心身限界だったのだ。

家に帰宅後、お風呂に入り足に冷水をかけて冷す、身体を暖めるを繰り返した。
そして、夕食後意識を無くすように夢の中に飛び立った。

翌日は、今までに経験したことのないような筋肉痛になり、歩くたびに激痛がはしった。このときは、本当に月曜日に有給をいれた過去の自分に感謝した。

数日後、足の筋肉痛がだいぶ良くなった頃、鹿児島マラソンの特集をテレビで見た。
あの雨の中を1万人以上の人が走っていたと思うと、謎のシンパシーを感じた。
加えて、ボランティアの方の優しさや配慮があったから、自分がゴール出来たのだと今更ながら気づけた。

ゴールしたときは、2度と走らないと考えていたのに、テレビを見てその気持ちが揺れてしまった。


この時に、私はマラソンにはまったのかも知れない…








この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?