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〈小説〉夏の中 連結版(断片1~15 完結)

(あらすじ)
暦の上では秋だというのにN市は長い残暑の中にある。N市周辺の鉄道ダイヤは頻繁に乱れていた。対策に派遣された気象病体質の鉄道管理局員は、やがて、夏が終わらない本当の理由とダイヤの乱れを戻す方法に辿り着く。終わりそうにない残暑の中、鉄道、データセンターの職員、吹奏楽部員、歌姫。それぞれの断片がつながり、答えが浮かび上がる。


1.プロローグ データセンター

N市を見下ろす山の鬱蒼とした森林の中にそのデータセンターは建設されている。
最大限に風景との調和を重んじて設計された。
遠くから森を臨むと、時にチラチラと、樹々の合間に眩しい光が見えるのは、屋上のソーラーパネルが太陽を反射しているのだ。

近づけば、壁面には多種類の植物が埋め込まれ、周囲の季節と一体化するように意図されているのがわかる。
但し、壁は、侵入を拒絶するように高い。
垂直にそびえる壁は、緑の絨毯が優雅に覆っている。壁面に植えられた植物たちは、まるで大地の生命がそのまま持ち上げられたかのように、風にそよぎ、太陽の光を浴びて輝きを放っている。
空に繋がる庭園だ。

今、センターは夏の雄々しい入道雲と蝉しぐれに覆われている。

建物の内部には、正反対の無機質な空間が存在する。
鏡のように磨かれた床と壁。
静謐な冷気が漂う。

管理室からの見下ろせる眺めは暗黒だった。
灯りを必要としない空洞に、管理室の灯りばかりが落ちている。
床の鏡面に反射して近くのサーバー群が照らされている。
サーバー群が並び続く奥の先までは見えない。

誰かがこの空間に立ち入れば、センサーで照明が作動する。
艦橋のように壁から突き出ている管理室から、右下に非常灯が見える。
その下に入口があるはずだが、扉と壁の区別はつかない。
両脇左右にも奥までズラリと何列にもサーバーがある。

情報を処理する機械の森だ。

小さなLEDが不規則に点滅している。
暗い6等星が無数に散らばる宇宙のようだ。
小学校時代に天文学者になりたかったことを思い出す。
マナベは、最適に管理された空調の部屋で、遠隔でモニターを監視すれば済むはずの業務に駐在している。
常時3名体制。本来、不必要だと思うが、法律で義務づけられている。
もうすぐ交代の時間だ。
センターから出た時に襲われるだろう灼熱の陽光と喧しい蝉の声が脳裏を過る。
今年は残暑が異様に長い。
フロントガラスに立てておいた日よけシートはきっとまた倒れてしまっているに違いない。
いくら丁寧にセットしても9割以上の確率で倒れる。
ドアを開けた時のむわりとした空気が、急に今、ここにあるように感じられた。
センターの広い駐車場にはシート屋根を張ったスペースもあるが、そこは来客用だ。

本日も異常なし、で終わるはずだったが、同僚のひとりが、唐突に声を上げた。

「マナベくん、あそこ。」

定年をひかえたベテランである。
マナベは息子のようにかわいがってもらっている。

彼の指す遠くの右奥に目をこらす。

LEDの小さな光点が、そこだけ、淡く集まっているように見えた。
あそこだけ、高い密度で情報が高速処理でもされているということだろうか?
遠すぎて、指摘されなければ気づかない程度の密度の光だった。
しかし、サーバーの稼働を示すLEDの灯りとは明らかに違う。
それに、この距離から、あのように淡く集合したように見えるということは、近づけば、テニスボールほどの体積ではないだろうか?

「行ってみますか?」
マナベが、ベテランの様子を伺ってた。
父親ほどの同僚は腕の時計を見て、逡巡した。
下の空間に入るには厳重で煩雑な手順がいる。
そろそろ交代の職員が来る。
延長勤務か、交代に任せるか。…

「あ、消えましたよ。」
マナベは言った。
テニスボール大に集合した光の粒が、払われた蚊柱のようにゆらいで霧散するのを目撃した。

管理室には、ホールを見下ろすガラス面に沿って、横に長く、優雅な流線型をしたテーブルがあり、監視ツールは全てここに組み込まれている。3脚の椅子が用意されているが、今、腰かけている者はいない。

最も年少のマナベは気を利かして、テーブルに回り込み、ツールをたたき、サーバーのステータスやネットワークトラフィック、CPU使用率、メモリ使用率など、主な項目をチェックした。

「どう?」
特に異常はみられない。
だが、自信はない。

データ処理には精密なタイムスタンプが紐づく。
正確なタイムスタンプがないと、データの整合性が崩れ、エラーやデータ損失が発生してしまう。
ここでは、全てマイクロ秒単位の精度で動いている。

サーバー稼働状況のチェックには、多くの専門知識とツール操作の知識が必要である。
自分はまだ未熟だ。

「…さあ、ぼくには…。異常ないと思いますけど…。でも、本社も監視してるはずです、何かあればアラートが鳴るはずですから。」
自分も未熟だが、ここにいるメンバーに大差はない。

「まあ、何かあれば本社から連絡あるだろう。」
その日、ベテランのそういう言葉に安堵して、一同は交代して家路についた。

コスト削減の為、N市センターの稼働を抑制する。

本社が通達してきたのは交代した職員が椅子に腰かけてすぐだった。

2.鉄道管理局員

まだ色づいていない。
だが、もうまもなくだろう?
局長の背にした窓にまだ緑の葉をした銀杏が覗いている。
「聞いてくれてるかしら?」
タブレットに目を落としながら説明していたはずが、いつのまにかこちらを観察していたらしい。
何をぼんやり見ているのか?と伺うふうに、くるりと椅子を回して、自分も部下の視線を追った。

聞いているか? というのはN市運行区の状況についてである。
N市運行区の鉄道ダイヤは混乱して、収拾がつかなくなっているという。
突き詰めればN市を襲っている異常な夏に起因しているようだ。
N市の夏は、暦が秋になった今も終わっていない。
厳しい残暑が続いているのだ。
夏の熱はレールを膨張させてしまう。
膨張による歪みは日々のメンテナンスで調整されるが、時には速度を落とした走行を余儀なくする。
夏の激しい夕立が地盤を緩ませた。
ひとたび落雷が架線に落ちれば、時に信号は故障し、運休が発生する。
長い夏で、体調を崩す乗客が増えた。
体調のすぐれない乗客の対応にかかる乗降時間は列車の発着時間を狂わせた。
車内を快適に保つためフル稼働を続けた車載エアコンは次第に故障が増えている。
ひとつのダイヤのズレは、接続する別のダイヤに影響する。
乱れたダイヤの復旧は、GPSの列車位置情報をもとにAI運行システムが半ば自動的に行ってくれるが、職員のストレスは限界に近い。

たまらず、N市運行区のダイヤは減便、再編された。
減便は、地域の生活にも影響している。
減便に伴い、登校時間を遅らせた学校もあるという。

しかし、問題は、それでもダイヤは乱れ続けた、ということだった。
新しいダイヤは余裕をもって組み立てられたが、列車の発着を時間通りに運行することができなかった。

「あとどれくらいで色づくかしらね。」
局長が、目の前で銀杏が色づくのを待っているように言った。
N市問題も、秋が来れば片付く、と感じていたのかもしれない。
「16日程度だと思います。」
局長は部下に向き直った。
そして、もう一度、手元のタブレットで資料をスクロールしながら、
「アマノのそういう予想はよく当たるんだよね」
と、つぶやくように言った。

局長は、アマノの気象病体質をよく知っている。
気象病は、主に気圧の変化がよって交感神経と副交感神経のバランスを崩してしまうことで起こる。症状はいろいろだが、頭痛や関節痛、めまいやふらつき、疲労感や気分の落ち込み、睡眠障害などに見舞われる。
それは、時に、生活のリズムそのものを狂わせる。

上司は、部下がその体質をよくコントロールしていることも知っていた。

「あとは、自分で目を通しておいてちょうだい。」
我に返ったように局長が言った。
次の予定があるようだ。
「もう限界なので、早めによろしく。」

早めによろしく、と対処を任された鉄道管理局員は、局長室を辞した。

天井を隔てて高い秋空がある。

軽い頭痛を感じる。
低気圧が近い。
悠然とたなびいていた雲が、にわかに強くなった風に流される様子を想像する。

3.N市到着

白く乾いたホームに、鉄道管理局員は降りている。
通常、ここまで長い列車は少ないのだろう。
到着した5番ホームの端は、屋根がなかった。

「ご苦労様です。」
小柄な駅員が日差しの中、駆け寄ってきて挨拶した。
「お世話になります。アマノです。」
「ナナセです。」
制帽に隠れた小顔が、改めて名乗るのは明るい女性の声だった。
長い髪を制帽の中に纏めているようだ。
キリリと描いた眉の下の両目が、管理局員を観察している。
好奇心に満ちた少年のようだ。
アマノは手ひさしをして空を見上げた。
「すごい日差しですね。」
市の異常気象は報告の通りだった。

今しがた降りた列車のドアは開いたままで、中の冷気が漏れてくる。
外気の暑気と混ざる空気の渦を感じた。

「異常ですよ。」
ナナセと名乗った小柄な女はうんざりしたように同意して同じように空を見上げた。

アマノは、ポケットの懐中時計を取り出して、改めて時刻を確認する。
「12分の到着遅延でした。」
既に確認済だったらしく、ナナセが言った。

「クォーツですよね?」
アマノの手元をのぞき込む。
「GPS時計に誤差がでていると報告されていたので。」

通常、鉄道ネットワークはすべて、GPS時計で一元管理されている。
GPS衛星に搭載された原子時計からの信号だ。
しかし、現在、N市運行区は、そのネットワークに支障が出てる。

GPS信号は大気層を通過するとき、電離層の電子密度や対流圏の水蒸気量の影響を受ける。
誤差の原因はそれではないか?
水蒸気量を変化させている終わらない夏の影響が疑われたが、専門家は、それを否定していた。
影響は、あってもナノ秒だ、と専門家は断定した。
分単位のズレが、生じるはずがない。

「そうなんです。ここと市電の駅ですら、1、2分ずれるようになってきています。」

GPS時計が役に立たない以上、N市運行区のダイヤは、別の時計で管理されなければならなかった。

鉄道の時間管理の歴史は長い。
ダイヤ管理は、地域ごとの生活基盤がまだそれぞれのローカル時間だった頃に、距離の離れた地域を共通の標準時間で管理したことに始まる。
各駅は、標準時間で表された時刻表に基づき、職員が皆、同じ時刻を指す時計を所持して停発車を管理した。

運行精度は、時計技術の発達とともに向上した。

時刻表は、駅間の距離、走行速度等から計算した所要時間を基本にするが、それだけで管理しきれるものではない。
列車の走行は、強風や激しい雨、雪、霧など天候に左右されたし、放牧の羊群に線路を遮られることさえ普通だった時期が、鉄道の歴史にはある。

やがて、電信技術が発達し、電信線が敷設され、迅速な情報共有によって、そうして起こる不測の遅延にも対処できるようになったのだ。時刻表を基準にしながらも、フレキシブルに運行管理ができるようになっていった。

現在ではGPSによる各車両の位置情報を、リアルタイムに処理するITシステムが、時刻表に沿った正確な運行をサポートしている。

鉄道の運行管理は、時計と通信の技術に支えられているのだ。

しかし、N市では終わらない夏がそれらを侵食していた。

クォーツ時計はネットワークから独立して精度高く時間を測ることができる。
その為、N市運行区では、原因不明の誤差を生じているというGPS時計のネットワークの代わりに、個々に独立したクォーツ時計を使用している、とアマノは聞いていた。

「1時間毎に本社の標準時刻に合わせてます。でも、実は、クォーツ時計も正確に機能していないようなんです。」
ナナセが自分の支給クォーツを取り出してみせながら、付け加えた。

「温度係数の補正が合ってないみたいなんです。」

クォーツ時計は、内部のクォーツクリスタルの振動を利用して時刻を計測している。
その非常に安定した振動が正確な時間を刻むのだ。
但し、この振動は、温度によって微妙に変化する。
その誤差をなくすため、予めプログラムした温度係数で補正がかかっている。

その補正係数が、N市では通用しない。
そういうことのようだ。

「わたしの時計で12分遅延です。」
ナナセが正確に補足した。
「…、わたしの時計では7分ですね。」
アマノは言った。
「ちなみにGPS時計とは8分遅れの差です。」
ナナセが付け加える。

アマノの“実感”では、およそ定刻通りだった。

あと16日で銀杏が色づき始めると感じていたアマノの感覚が、N市の夏に呑み込まれはじめた。

4.吹奏楽部

また、朝練に遅刻しちゃう。

少女は背にしたフルートのカバンを背負いなおした。

旧市街の石畳を走る市電の中である。
この古い車両は、恐ろしいことに空調がない。
上げ下げ式の窓の上と下を開けて外の風を入れている。
2両編成でガタガタ走る。
中央駅の東側から順番にモダン化され、東側の市電は今や水素で走っているが、旧市街を抜けるこちらまだ、梯子のように張られた空中の電線から電気をとっている。
少女の高校は、旧市街を抜けた運河沿いにある。

せっかく、間に合うように早起きしたのに恨めしい。
この頃、ほんとにダイヤの乱れが多すぎる。
市電のダイヤは、もとからそれほど正確ではなかったけれど、最近は、ダイヤはほぼ、ない状態、に近い。10分、20分、待つことが往々にある。
調整の為、数本、運休となることもしばしばだ。

だから余裕をもって早起きしたが、市電の遅延は予想の上をいった。
本当に困る。

放課後の練習も、不定期で時間の読めない市電の為、早めに下校を促されるようになって不足がいなめない。
もうすぐ秋の学園祭だというのに。

それもこれも、異常な夏のせいだ。

市電が速度を緩め、停車した。
窓から入ってきていた風がなくなる。
早朝だというのに、今年の異常な夏はもう暑い。

「おはよう。ヒナ。」
いつものようにカエデが乗ってきて、横のつり革につかまった。
彼女は、いつも挨拶のあとに名前を呼ぶ。
目の前にはあたししかいないのに。
けれど、なんとなくうれしい。
「昨日も持って帰ったの?」
「うん。…」
昨日の放課後練習はすっかり遅くまで伸びた。
その上、帰路の市電がなかなか来なったので、持って帰ったものの、実は、一度も家では吹かなかった。
それは言えないので、やや曖昧な返事になる。
持って帰ったのは持って帰った。
嘘は言ってない。
そういうカエデは、ホルンなので楽器は持ち帰らないが、いつもマウスピースを肌身離さず、暇さえあれば、アンブシュアトレーニングをしている。
唇の位置、形、張り具合を変えて音を確認している様子に、いつも感服する。
自慢の友人だ。

大きく揺れて車両が走り出す。
チン、チン、と聞きなれた警音を鳴らして交差点を右折する。
カエデが、空いた左手で唇を撫でていた。
「痛いの?」
「ヒナは?」
冬の練習のように唇が切れることはないが、少し腫れぼったくヒリヒリしている。
「へへ。同じく。」
顎のえらの裏を押せば、悶絶する痛みもある。
練習から来る痛みを自慢しあうのは、吹奏楽部員のあるあるだ。

再び窓から風が入り始めたが、カエデの前髪はしっかりと動かない。
「さすが、前髪命少女。」
誰に見てもらいたいの?と嗤うヒナの肩をカエデが叩く。

「バスドラムの彼、大丈夫かしらね?」
バスドラムの彼は、カエデのお気に入りである。
しかし、ヒナが思うには、身体は大きいが気は小さい。

バスドラムの作るリズムは演奏の要だ。

「彼のリズム、いつもちょっと、早い気がするのよね。」
もっとゆっくり、堂々と叩いてほしい、と思うところが多い。
「先生の指揮が、そもそも少し早めなのよ。」
とカエデはかばう。
「楽譜が全てじゃない、っていつも自分で言ってるんだから、少しテンポを合わせてくれないかしら。」

カエデが言うのを聞いて、ヒナは思った。

季節の時間を指揮しているのは誰だろう?

5.歌姫

O市の聖堂で催されたイベントで披露した彼女の歌唱は、讃美歌としては官能的過ぎる、という理由で、一部の宗教家から不評だった。
聖堂の音響はすばらしく、十分、生の発声で聴衆に届く環境だったが、声帯を痛めていた彼女はマイクを使用した。
声帯の状態を公にしていなかったので、これが彼女の評価を下げることにつながってしまった。

「彼女の自然な声の響きが、電気信号に置き換えられて天上に届けられたことは遺憾である。」

言わせておけ。
歌唱は、歌い手ばかりが伝えるものではない。
音響スタッフや、会場の設定、準備、かかわる全てのものがひとつになって聴く側に届けられる。それが、聴く者の聴覚に入り、記憶や経験と混ざりあって伝わるものである。
ひとりひとりが聴く音楽体験は、全てがひとりひとり異なる。

しかし、不思議なのは、彼女はいつも、聴く人たちがひとつの塊になっていくのを感じる。
音楽は、それぞれ個人の体験とまじりあって鑑賞されているはずなのに、時々、それぞれの観賞同士が共鳴しあって大きなうねりになる。
無意識の共鳴が生まれる。
歌いながら、それに彼女自身も呑まれる。
歌う側も聴く側もいっしょくたになってしまう。

そういうときコンサートは大成功だ。

あの時の聖堂にも、そういう場のようなものが成立しかかっていたと思うが自信はない。
無意識に声帯をかばっていたかもしれない。
マイクを使わずに歌えていたら、また別の共鳴が生まれていたのではないか?

彼女も全てのプロ同様、発声法の学習やその鍛錬に人生を費やしてきた。

自身の身体を楽器として理解し、磨いてきた。

肺や横隔膜をつかって空気を吸引する。 

吸い込んだ空気を吐く流れによって声帯を震わせ、その振動を音源にして、口腔、鼻腔、喉頭腔で増幅する。

自身の声帯のサイズや弾力性、頭蓋の骨格を認識して、最大限のパフォーマンスを引き出す。
横隔膜や呼吸筋、声帯の筋肉、咽頭や喉頭の筋肉、鍛えることができるパーツは、アスリートのように鍛えてきた。

ブレスコントロール、音階練習、リガート、レゾナンス。

ベルカント、ドラマティック、リリック、カバティーナ。
基礎となる表現スタイルを繰り返し修練してきた。

バイオリン職人は、木材の密度や年輪の均一性、乾燥度合いにまで、素材にこだわる。
何十年も乾燥させた最高の木材を選んで、最高の音質と共鳴に必要な正確な寸法と形状に、一つ一つ、丁寧にパーツを削り出す。
それらを狂いなく組み立て、最後にニスで仕上げていく。

その工程とかわらない。
いや、動物の身体だ。
バランスのよい栄養摂取や感染症対策など、身体全体の健康維持が欠かせない。

生活を律さなければならない。

その意味で声帯の健康を損なったのは後悔に耐えない。

「よく鍛えられたきれいな声帯です。しばらく負担をかけないように、声を出さないようにしてください。」

声のかすれが気になり、密かに受診してポリープがみつかったが、幸い安静にしていれば、自然治癒する、とのことだった。

診断の時、既に決まっていたO市でのイベントを最後に彼女は休暇をとっていた。

それにしても、官能的すぎる、とは笑える。
音楽と結婚したようなもので、この歳になっても彼氏ひとりいない。

あれは、ほんとうに偶然だった。
その日、水分をとりたくなり、昼近くにベットを出た。
コップ片手にソファに身体を預け、何もやる気が起こらないまま、見るとなくタブレットの動画を見ていた。
ひとつの学園祭の様子に目が留まった。
音楽づくめだった自分には経験できなかった学生時代への憧れ半分。
その内、プロの審眼で、なかなかね、と感心した。

それから、指揮をしているのが彼だと気がついた。

声楽家、フジワラミツキは小高い丘の上にある林の木陰で、日傘をさしている。
眼下の田園風景に古い石積みの水路が見える。
水流が日光を反射して、銀の龍を思わせる。
凪いでいた空気がときおり思い出したようにサワサワと樹の葉を揺らす。

休暇を過ごすと決めたN市は、まだ夏の中にあった。

今年ももうすぐ学園祭がある。
彼の教える学生たちの演奏を生で聴きたい。
彼との再会は目的ではない。
彼の教える学生たちの演奏を聞きたい、という欲求に、抗えなかっただけだ。

足元の愛犬が、舌を出してすっかり暑さに閉口しているのに気がついた。
「ごめん。ごめん。」
愛犬に謝って、林の陰に沿って来た道を戻り始める。

6.操車場

ふたりは駅舎を出て、徒歩15分ほど離れた地区管理センターへ向かった。
センターは、線路や車両、管理システム全般の定期的な点検、整備を管轄している。
何本もの線路が集まってきている。
車両の車庫でもある。

強い日差しに焼かれたレールと敷石から、夏の匂いが立ち上っていた。
広い操車場を横切っている。
遮るもののない直射日光。
地面からは、熱された空気が昇ってくる。
荒野のサボテンのように電柱や信号機が、陽炎の中に立っている。
整備を待って並んでいる数台の車両は、けだるく昼寝をむさぼる巨獣のようだ。
枕木が腐らないように塗られた石炭タールの匂いは、獣臭のごとく鼻をつく。

縦横に架線が張られている。

いくつもの作業の音がする。
鉄をたたく音。
低いモーター音。
溶接するらしい音。
それらを覆い隠してしまおうとするように蝉の声。

あちこちに伸び放題の雑草が茂る。

「どうして歩いていきたいんです?」
操車上の真ん中、センターまでの中間あたりまで来て、ついに耐えかねたナナセが不平を漏らした。
アマノの前を歩いていたが振り返り、器用に後ろ向きで歩いた。
「実感しておきたいんですよ。」
本部から来た管理局員は、当然のことのように返した。
「何を」
アマノが並んだので、ナナセは正面に向き直る。
「です?」
「もちろん、夏をですよ。」
現場100回の叩き上げ刑事みたいなことを言う。
それとも、夏が珍しい北極出身?
背の高い管理局員はイタズラっぽい目で彼女を見下ろしていた。
からかわれたのか。
大して汗もかいていない涼しく顔をしている。
「…。死にますよ。こんな炎天下歩いたら。」

少しして、ちょっと言葉が過ぎたかな、と後悔した。

死んだ蝉が、ちょくちょく足もとに転がっている。
ふたりは、踏まないように避けて歩く。

「蝉の寿命って、どうなってるんでしょう?」
ナナセは、気まずい沈黙の間合いを逃れるために、先日、ふと沸いた疑問を口にしてみた。

「土の中に幼虫として、何年もいて、ようやく地上に出て、成虫になると1週間ぐらいの命で死ぬっていうじゃないですか。」
これはその時、ネットで検索した。
「でも、それだったら、今年みたいに残暑が長いと、みんなとうに死んじゃってるんじゃないか、って思いません? 暑さがつづくとその分、長生きするのかしら?」
足元のジャリジャリとした敷石が歩きにくい。
「じゃなくて、ほんとは来年、出てくるはずだった順番の蝉が、今年、今になって出てきているのかしら?」
終わらない夏の日ざしと蝉の声がふたりの上から降っていた。

「蝉も夏も、いつも通りなのに、人間だけ、早く生きてしまっているっていうことはありませんか?」
アマノが返した。

どういうことです?
と聞き返そうとしたところで、管理センターの職員が小走りに出迎えに来るのが見えた。

生き返る涼しさだった。

案内された事務室の密閉性の高い窓は、蝉の声を遠くし、代わりにエアコンの静かな稼働音を聞かせていた。
職員が差し入れてくれた冷たい麦茶はもうほとんど飲み切った。
ガラスコップから垂れた水滴がテーブルに痕跡をつくっている。
管理センター職員から、ひと通りの報告を聞き終えたところだ。
説明を終えた職員は、車で送りますよ、と準備に席を外していた。

ナナセは、歩いて帰る必要がなくなって、心底、安堵している。

「アマノさんは、どう考えておられるんですか?」
溶けた氷でおよそすっかり薄まった残りの麦茶をストローで啜る。
これまでの調査は、全部、本社に送ってあるのに、敢えて炎天下を歩いて管理センターまで来る必要はなんなのだろうか?
本部は何か現場に疑いを持っているのだろうか?

さっきの、
蝉も夏もいつも通りなのに、人間だけ早く生きている、
という言葉の意味はなんだろう?

鼻の奥に、微かに麦の香りを感じる。
アマノの視線が額あたりをひつこく見ているように感じた。

右手の指を前髪にクシャクシャ入れて、わさわさと乾かす。

本部から来た管理局員は、視線を外して壁の時計をみた。
それから、自分の懐中時計を取り出した。

ナナセも、同じように自分の時計と見比べようとして、アマノに遮られた。
上げかけた左手首をテーブルの下に戻す。

「今、何時だと思います?」

最後に時刻を確認したのはいつだったろうか?
そこからの行動を思い返してシミュレーションする。
操車場で感じた暑さを思い出す。

「14時半を少しすぎたところ。」
鉄道員として、時間感覚はいい方だ、と自信がある。

さすがです、と言って、アマノはつづけた。

「じゃあ、これは? これは、何時を指していると思います?」

アマノが指したのは、テーブルの上に落ちたストローの影だった。
天井までいっぱいの高い窓から入る日光は、ストローがささったグラスの影を薄くつくっていた。

一種の日時計だ。

日時計は見慣れないので、影からは想像がつけられない。
逆に、自分の感覚から、おそらくこれが14時半ごろの影なんだろうな、と思う。
しかし、それは影から得た答えではない。
アマノが何を言いたいのか、わからない。

何が言いたいのかしら?
ナナセは首を傾げてみせた。

センターの職員が戻ってきた。

車へ案内されながら、ナナセは、答え合わせをするように、自分の時計を盗み見た。
14時18分を指していた。

7.日時計派?クォーツ派?

「ダイヤ管理は、標準時間に統一できなければ始まらない。GPS時計でもクォーツ時計でも統一できないのだから、他にどんな時計があるだろうか?と思ったわけです。」

車の冷えた後部座席で、説明を求めるナナセにアマノは言った。

「それが、例えば、日時計、ということですか?」

あるいは腹時計。

ナナセは、自分の腹を押さえた。
確かにダイエット中だが、アマノの前で空腹のぐるぐる音を響かせた記憶はない。

「もちろん。そんなもので、鉄道のダイヤが管理できるわけがない。列車の移動スピードは、日時計や腹時計のような悠長な変化では、追いつけない。」

油が跳ねるようなパチパチとした音がして、タイヤがまだ乾ききっていないアスファルトを踏んで進むのがわかった。
照りつける太陽はアスファルトの劣化速度を速めるのか、最近は、道路のメンテナンス工事をよく見かける。
夏で疲弊しているのは鉄道ばかりではない。
生活インフラが、あちこちで傷んでいた。
車は、速度を緩める。

「日時計で時刻をとらえている社会を想像してみましょう。私たちのようなクォーツ時計で動いている社会とは比べようもなく、ゆっくりとしたリズムで生活しているはず、と思いませんか?」

太陽の位置に依存する日時計は、季節や場所によって示す時刻が変わってしまうだろう。
曇りや雨の日、夜間には使用できない。
昼の活動には使えるが、夜は代わりに星の位置で時刻を知るしかない。
そもそも精度が低いため、厳密な時間管理は難しい。
社会全体が時間に対して柔軟に、ゆったりとしたリズムで動く他ない。
太陽崇拝や自然との調和を重んじる文化が養われやすいかもしれない。

一方で、クォーツ時計は、天候や季節に左右されることもなければ、昼夜を問うこともない。
24時間、分単位、秒単位、もっと細かく刻んだ極小単位で活動管理が可能だ。
約束の時間厳守。
決められた期間単位の中での最大の成果発現を求める。
精密で高度なテクノロジー社会に繋がるには必須な要素に違いない。

そうだとすると、長く暑い夏は、自然の時間から逸脱して、時間効率を追求する今の社会への警告だろうか?

ナナセは、旅行会社が煽る南国リゾートのゆっくりとした休暇を連想した。

そういえば、夏季休暇を未取得だった。
期限はいつまでだったっけ?

暑い国では遅刻は当たり前で、約束の時間が守られることの方が少ない。月末払いの商取引も、翌月に零れることもおおらかに許されるらしい。

と、どこかで聞いた。

高温な地域では、暑さで体力が消耗しやすい。
長い休憩や昼寝の習慣を通じて身を守る必要がある。
温暖な気候は豊富な果実を恵み、総じてゆったりとしたリズムの生活を支える。

寒冷な地域では、恵みは小さい。
短い日照時間や厳しく長い冬は、限られた時間内で効率的に生産し、計画的に蓄えておく生活を促す。
工業化が早く進んだ所以かもしれない。

「Ⅿグループのデータセンターに入ることはできませんか?」
駅舎に戻り、ふたりに割り当てられた小会議室でひと休みしていると、アマノが言った。

Ⅿグループが巨額投資して昨年オープンしたデータセンターは、その美しい建築容姿から、早くもN市の新しい観光スポットになっている。
確か、ⅯグループがPR用の見学コースを提供していたはずだ。

HPを検索してみる。

データストレージ容量は65億ギガバイト。

と言われても、想像がつかない。

60万台のサーバーを収容可能。
電力容量270メガワット。
最新のロボティクスによる実質無人自動運営で、にもかかわらず従来型比較30%省エネの電力消費。
マグニチュード9.0に耐える耐震構造。

ナナセは、美術館のように美しい外観と未知の宇宙船の艦内のような内部を映す動画に少しの間、見惚れていた。

是非、行きたい。

8.データセンター到着

「おかしいですね。」
パソコンに向かっていたナナセが呟いた。
「確か、見学申込のページがあったと思うんですけど…」
そう半分独り言を言いながら画面をスクロールする。
「あ、…ひと月前から見学ツアーは休止になっているみたいですね。」
後ろから覗き込むと、データセンターの見学ツアー休止の告知がされていた。

センターの駐車スペースで車をおりたのは、それから半日経っていた。
取引関係を使ってようやく入館の許可がとれたが、時間を労した。
もう、陽は傾きかけている。
広々とした駐車スペースには日差しを防ぐシート屋根が張られていて、どこか海辺に並んだパラソルを思わせる景観だった。
駐車しているのはポツン、ポツンと数台だった。
人影はない。
駐車場に入る前のゲートも無人だった。
ようやく手に入れたQRコードの許可証をカメラにかざして通過していた。
晩夏にビーチを訪れたような寂寥感がある。
運転席のドアを閉めながら。ナナセは耳の後ろでひぐらしを聴いた。
カナカナカナ。
夏の夕方の舞台装置に紛れ込んだ気分になる。

センターは、思った以上に、美しく、壮観だった。
森の地形と一体化した敷地に悠然と溶け込んでいる。

「入口はどこでしょう?」
とりあえず足元の通路から入り口の目星をつけて建物の方に歩く。
格子状のパネルに間に砂利が敷かれ、植物が生えている。水が浸透しやすい構造になっているのだ。細かな環境配慮が伺われる。
「誰か来ますね。」
前を歩いていたアマノが言った。

中背のすこしぽっちゃりした青年が、息をきらして挨拶した。
「すみません。お迎えもせず。」
「いいえ。こちらこそ急に。」
ナナセが応えた。
「ナナセです。」
ナナセは小さな手をさしだした。
汗はポケットの中のハンカチで拭ってある。
「マナベです。お待ちしていました。」
青年の手は幼児のように丸く、冷えていた。異性を意識したのか、弱々しい。
お待ちしてたら、走ってこないよね。
と、やや強く握り返す。

マナベがセンターの中へ、案内しながら言った。

「実は、弊社もちょうど今日は、本社からひとが来ていまして…」
ナナセは、壁のような大扉がゆっくりスライドするに様子に目を奪われていた。

促されて中に入った。
もうひとつの大扉が出迎えた。
「ちょっと、お待ちください。こちらが閉まってからでないと、こちらは開かないようになっていますので。」
3人は、前後を大扉を壁にした短い大回廊の中に立つ。
入ってきた大扉がゆっくりスライドして戻る低い音を後ろに、参拝の順番を待つ信者のように神妙に沈黙した。

第2の大扉が静かにスライドを始めた。
流れてくる神聖な空気を浴びる錯覚を覚える。

クリスタルのように磨かれた広い通路を進むマナベの後姿は、宇宙服で着ぶくれしているように見えた。

案内された部屋には、深刻な面持ちの、男ばかりが4人いた。マナベの同僚と本社から来ているという社員だろう。

センター全体の機能をモニターする管理室だった。ネットワークオペレーションセンターという長い名前でHPに紹介されていたのを覚えている。
甲板を見下ろす艦橋のように、データホールの壁にやや突き出ている。
ガラス張りの一面から、遮るものなくホールを見渡せる。
優雅にデザインされた長いテーブルがあり、管理に必要な機能は全てそこに組み込まれているらしかった。無機質な、シンプルな仕様だ。

鉄道の運行管理をする駅舎の部屋は、指令室と呼ばれ、桁違いに広い。講堂のようなフロアで、騒然と職員が働いている。
それと比べると、ここは深い森の奥のように静かだ。
運行表示版のような指令室のひとつの壁を占領している巨大モニターはないばかりか、テーブルに設置された数台のモニターも、今はブラックアウトしていた。

「ご覧ください。」
50年配の痩せた長身の男が、ふたりを窓際に誘った。
この中で一番偉い。
部屋に入ってすぐに交換した名刺の肩書きは部長だった。
サワムラ、という。
ガラスに室内が映りこまないように照明が調整された。

ガラスに近づいて、ナナセはその光景を目にした。

感嘆して、当惑した。

きれい…、だけど。

データホールの照明は、非常灯を除いて全て落とされているが、サーバーの列が森の樹のように、眼下一面に並んでいるのがわかる。

異様なのは、その森に無数の小さな光が漂っていたことだ。
サーバーの稼働を示す、LED信号とはあきらかに違う。
生き物特有の、生命をうかがわせるリズムがあった。
光量を増したり引いたりしている。
ゆっくり瞬きするように、と形容してもいい。

しばらく呆然とホールを見下ろしていたナナセは、光点の散らばりが不自然に不均一であるのを感じた。
光点は、不規則に空中を漂っているようにみえていたが、慣れてみると、明らかに場所によって濃度が違い、意思を持って群生しているようにも見えた。

わたしは一体何を目撃しているの?

自分がガラスに額をくっつけるようにしてホールを見ていたのに気づいた。
助けを求めるようにアマノを振り返った。

「アマノさん?」
だが、管理局員は苦痛を堪えるように目をきつく結んでいたので驚いた。
「…、いや、ごめん。大丈夫。少し頭痛がするだけだから。」
こめかみを手のひらで圧迫している。
「おかけになりますか?」
様子に気づいたマナベが作業椅子を滑らせてきた。
意外に気が利く。
アマノは遠慮せず腰かけた。
「たぶん、夕立がくるんでしょう。暑いから、ちょうどいい。」
座りながら、脈絡のわからない照れ笑いをした。
あとから知れば、ちょうどよいどころの雨量ではなかったが、この時は、そう言っていた。
心配そうに見ていたサワムラが、
「気圧変化に弱いんですか?」
と、花粉症ですか?と聞くように尋ねた。
「ええ。気圧なのか、何なのか…。気象の変化全般に弱いんです。」
ナナセの方をむいて、
「すみません。大したことないんです。」
と付け加えたが、あまり平気なようには見えなかった。

「それより、あれは何です?」
と、アマノが尋ねた。

サワムラが眼で、マナベに説明するように指示した。

N市は本来、夏は短く、気温もあまり上がらない気候です。
それが、ご存知のように今年は、異常な猛暑です。
データセンターは情報処理に大量の電力を使っているのはよく知られていると思います。
消費した電力は熱になりますので、これを放置すればサーバーは障害を起こしてしまいます。
だから、全てのデータセンターは、適切な排熱システムも備えています。
排熱システムが適切に稼働しなければ高速なデータ処理はできません。
排熱システムにはいくつかのタイプがありますが、当センターは地下水を使用した冷却水システムを使っています。
ところが、それが、長い夏の影響で、水温が上昇したらしく、熱を逃がしきれない心配が出てきました。
もともと障害が発生した際にサービスが中断することなく維持できるように十分な冗長性を担保した設計をされているのですが、この夏はとにかく異常なんです。

夏の暑さで地下水の温度がそれほどあがるのだろうか?
と、ナナセは感じたが、そうなのかもしれない、と思って、まずは神妙に聴いた。

リスクを避けるために、トラフィックを制御してサーバーの稼働を抑制することにしました。データ処理量が多ければ多いほど、高速であればあるほど、熱が発生しますので、処理量を抑えて発熱量を減らすことにしてのです。
ですが、それが上手くいきません。
むしろ、送信されてくる、処理の必要なデータ量は増加し続けてしまっているのです。
例えば、御社の運行管理システムも、ダイヤ遅延の復旧処理などの計算が増え続けました。
処理能力を超えてデータが流れ込む状態の容量超過になりました。

「1秒間に数千兆回の計算ができる仕様のデータセンターがパンクしそうだ、という信じ難い状態になったということです。」
ナナセの曇っている表情を見て、サワムラが日常語に通訳してくれた。

要するに、宿題が多すぎて頭がパンクしたかんじね、とひとまずおく。
大変なことだ。

「わたしたちは、虫、と呼んでいます。」
マナベが言った。

虫が発生してパンクを免れているという。

9.”虫”

「具合どうです?」
ヘッドライトが森の一本道を浮かび上がらせる。
ナナセはがハンドルを握っている。
夕立が濡らした路は黒ずんで見分けにくい。
アマノは助手席を倒したまま、心配をかけてしまったね、大丈夫、半分演技だから、と言って、ぼんやりルーフをみつめていた。

あやうく急ブレーキを踏みそうになる。
体調が優れないと言って、強引に辞したのは、あれは演技だったのか。

ナナセは、濡れた路面を慎重に運転する。

ハンドルを握る手の位置を調整した。

サーバーの列の終わりがみえない巨大な空間に、無数の小さな光が舞っていた。
入館許可の取得に時間を要した理由だった。

「わたしたちは、虫、と呼んでいます。」
そう言った時の、マナベの少しかすれていた声を思い出しながら、カーブを切る。

「ヒメホタルの一種ではないか?ということです。詳しいことは言えないので、この森で採ったことにして、伝手のある大学に調べてもらいました。」
サワムラの横の青年がひきついだ。
名刺では本社のサワムラの部下だった思うが、名前は思い出せなかった。一度に複数交換する名刺は大抵、役にたたない。
何さんだっけ、とその丸眼鏡に視線を移した。
「もちろん。そんなはずがありません。データホールは、塵や汚染物質が入らないように、外部より気圧を高く維持しています。外部との空気交換は高性能なフィルターを通していますから、外からの虫の侵入なんて、ありえないんです。まして、ホタルなんて。」
丸眼鏡の下で鼻の穴が膨らんでいる。
データホールの気密性を管理するのが彼の担当なんだろうか?

「そうですね。そもそもホタルは湿地を好みますし。」
“気圧”に敏感なアマノが、フォローするよう言った。
「はい、そうです。このホールは湿度も50%で安定するように管理しています。」
「ホタルが好む夏の夜の水辺は、たぶん90%以上でしょうね。」
まじめな青年はアマノの再フォローに表情を明るくした。
他愛無く遊ばれている。

「でも、現に、いますね。こんなに、ヒメホタルが。」
可哀そうなので割って入った。
「ヒメホタル“もどぎ”、がね。」
アマノが意地悪に訂正した。

「すみません。説明を元に戻しましょう。」
と応じたのは、サワムラだ。
最初から自分が説明すればよかったというようにひと呼吸おいた後の彼の説明は、こうだった。

どこから入ってきたのか?
あるいはここで発生したのか?
わからない。
しかし、虫が何をしているかはわかった。

虫は熱を食べている。
ただの熱ではない。
高速計算で発生したサーバーの熱だけを食べている。

どこから発生したのか、皆目わからないが、それは好都合なことに、夏で水温が上がってしまい、排熱しきれなくなってしまった熱を、集まって好物のように食べてくれている。

そして、食べた熱を光に変えているらしいことがわかった。
虫は、その光で、どうやらコミュニケーションしているらしい。
求愛行動の一種らしく、光で誘惑して、交尾に成功すると、卵を産む。
雌雄いるのだ。
卵はサーバーの側面に接着する。
幼虫、さなぎ、成虫へと約1日で変態する。

眠気と戦っているように見えたのかもしれない。
「アマノさん。」
サワムラが、生徒を指す教師のように言った。
「逆に教えて欲しい。あなた方は、どうして、ここに来られたのですか?」

それは、ナナセも聞きたいところだった。

「鉄道のダイヤが混乱し続けているのは、承知しています。ですから、ここへいらしたのは、その解決の為でしょう。しかし、既に報告させて頂いているように、弊社が御社の運行管理システムに提供しているデータサービスは正常に機能しています。それなのになぜ、ここへ来られたのでしょうか?正直、わたしたちは、この奇妙な事態に当惑しています。幸い、何ら障害はおきていないとは言え、あり得ないことが起きてしまっているのは事実ですので。」
サワムラは、アマノとナナセを見比べるように、交互に視線を移しながら続けた。
自分には訊かないほしい、と、ナナセは視線で知らせる。
アマノに視線が絞られた。
それはそれで、自分の価値が俄かに下がった気がして寂しいものだった。

鉄道運行の混乱と当センターのデータ処理に因果関係のないことは信じて頂けていると思っています。ところが、今朝になってしつこくアポイントを要請されました。
われわれも、当面、障害は起きていないからと言って、この状況を原因不明のまま放っておくつもりはありません。
気づけていないだけで、どんなリスクをはらんでいるか、わかりませんし、もしかすると新しい冷却システムの開発に繋がるかもしれません。
なので、この状況を外部の方にお見せするのは、躊躇われましたが、敢えて、お見せすることにいたしました。

「何か我々の持てていない情報、あるいは仮説を、お持ちなのではないでしょうか?もし、そうであれば、是非、お聞かせいただけないでしょうか?」

ナナセも含めた全員が、ひとりだけ椅子に腰かけているアマノを見下ろしていた。

「いや、すみません。そういうものを、われわれが持っている、ということではありません。」

失望と疑いの空気が流れる。

「ただ、時間の歪みは感じています。」

歪み?と、場の空気が歪む。

「ここでデータ処理が正確に行えているということは、ここのタイムクロックは正常だということです。しかし、ここのクラウドサービスを受けている当社システムの時計とは同期しないようです。ズレっぱなしです。正確なはずの時計同士がズレていて、一方の高速データ処理が狂いなく、鉄道ダイヤの方は狂いっぱなし。なぜだろう?というのが最初でした。ここと各駅、N市地区の他の場所との違いを探せば、そこに手がかりがあるんじゃないか、と思ったんです。」
「…。それで、時間の歪み、というのは?」
「ええ。それに、わたしは、気圧や気象の変化に敏感な体質なんですが、他にのいろいろなもの体調左右される体質なんです。虫の知らせ、いえ、ヒメホタルのことじゃありません。地震が来る数秒前に、アレ?来るぞ、と感じることありませんか?あんな感覚です。夕立が来そうだ、とか。」

アマノがこう言っていた時、外は激しい夕立に見舞われていたと思う。

そういう感覚で、時間が歪んでいるのを感じるんですが、すみません、やっぱり体調がすぐれない、と言って、次の機会を約束して強引にあの場を辞してきた。

もうすぐ市街へ入る。
森を抜けると、夏はまだ暮れきらない深い藍色の空を見せていた。
夕立が洗った後の空気は、見通しがよく、街の灯りが美しかった。

10. 学園祭を聴く

秋の文化祭は夏の中だった。

講堂は、空調が働いていたが、それでもひどく蒸している。
出入り自由の左右後方の扉は開いたままで、外の光が入らないように厚いカーテンで仕切られていた。

大勢のひとが雑踏している。

ひとつの演目が終わり、出演者が入れ替わるのに合わせて、観客側も友人、家族たちが入れ替わる。
学園祭らしく、演目の途中でも、席を立って抜ける者がいる。
壁際も人で埋まっている。
空いた席へ、入れ替わりに向かう者がある。
煌々としたステージを背景にした一幕の影絵劇のようだ。

少し遠いな。
ステージ近くの前方に、ひとつの空席があるのに気がついたが、少し躊躇われる。
幾人かの座席の間を進まなければならない。

フジワラミツキは、決心して身を屈め、影絵のひとつになった。

姉か兄を観に来たのだろう。
少年が母親と並んで座っている。
少年が不思議そうに見上げてくるので、
「こんにちは。」
と小さく返した。
ジーンズ生地の抵抗を感じながら隣に腰掛ける。
もしかして、父親用にあけていたのかしら。
腰を落ち着けてしまってから思った。

そういうことでもないらしい。
少年の向こうから顔を覗かせた母親らしい女性に軽いお辞儀をされた。
音楽学校の初等部にいた頃、いつも世話をやいてくれた中等部の先輩を思い出させる雰囲気がした。
あの先輩は今はどうしているだろう。
確か高校は普通校へ進んだ。
もうこのくらいの子供がいてもおかしくないんだな。

偶然の再会を想像して、胸が暖かくなる。

パイプ椅子と楽器を抱えた学生たちがステージに現れてきた。
その時になって、サングラスをしたままだったことに気づいて、外した。
チューニングする音、楽譜をめくって整える音、姿勢を整えるギシギシという音で埋まったステージが眩しく視覚を刺激した。
キャップは、かぶったままにする。

少年が指さして、母親に注意を促していた。
フルートの生徒らしい。
わかっているわよ、というようにステージを向いたままの母親の横顔は、瞳にステージの照明が反射していた。

全ての準備が終わり、いよいよ指揮者が登場した。
部長らしい少女が、緊張した面持ちで指揮台に上る。
彼じゃないんだ。
予想外だったが、彼の姿を目にしないですんだことに、少し安堵した。

調律確認が終わった。

指揮棒を持ち直して深呼吸。

ゆるやかなオーボエの音が、流れ始める。

雑踏としていた講堂内が、不思議な程に一瞬、静寂にかわったのは、彼女の聴覚の仕事だったかもしれない。
影絵はうごている。

ホルンが伴奏する。

フルートも、クラリネットも、混ざり始める。
演奏が風景を描く。

緩やかに起伏する田園を古い水路が流れている。
古い時代からのもので、石を積んで作られていて、今やどこまで実用を果たしているのかはわからない。
見渡せる風景の遠くに、悠然と横たわる山並みがあり、水はどこかその山の、森の水源から遥々とひかれてきているらしかった。
精巧に傾斜をつけて、並々ならない努力を重ねて築かれた歴史の痕跡だ。

痛めた声帯を休めている声楽家は、いつの間にか、学生たちの演奏にすっかり引き込まれて、空想の風景を冒険していた。

演奏は未熟なところも多い。
硬さの残るアンブッシュア。
早いパッセージにようやく食らいついている指使い。
指の筋力がまだ成長期なのだろう。
持久力も不十分だ。
呼吸をコントロールしきれていないのが見て取れる。

けれど、努力の跡がすばらしい。

努力が、時折、一級のプロに劣らないハーモニーになって現れる。
学生らしい瑞々しい拙さと熟練したプロのような正確な技術が混然となっている。

早朝から、放課後、夜遅くまで、練習に練習を重ねたに違いない。
未熟さが残るとは言え、そうでなければこういう演奏にはならない。
授業中も教師の目を盗んで、イメージトレーニングをしたことだろう。
指先でトントンと。

爪が割れたことも、唇が切れたことも、2度や3度ではないはずだ。
ときには意見の食い違いで友人同士、もめたこともあったかもしれない。

当然、あったに違いない。
それが、どうだ。
指揮の一振りに、全員が一心に息を合わせようとしている。

無我夢中の学生生活が目の前で音になって、清々しく懐かしい風景を描いた。

やっぱり、来てよかったな、と声楽家フジワラミツキは思った。

11. 夕立

大きな拍手は、講堂の屋根を叩く激しい夕立と重なった。

校舎と繋がる渡り廊下に面した左ふたつの出入り口は渋滞している。
混雑を避けて、校庭に面した後方の玄関口へ向かった。

広い靴脱ぎ場に人が溜まっている。
その頭越しに曇天と大粒の雨脚が見える。

傘を広げて出ていく者は少ない。
多くは、厚い雲を拝んで、夕立が通り過ぎるのを待っている。
諦めた数人の生徒たちが渋滞方面に抜けていった。
しばらくは、まだ、止みそうにない。

夕立が思い出を誘う。

声楽家は、素晴らしかった学生たちの演奏を、目の奥で反芻しながら、自分の高校生活を振り返った。

雨脚が地面をたたく様子は音符のようだ、と、どこかで触れた表現を彼に言うと、
「世界は、みんなリズムだ。」
と、彼が笑ったのを思い出す。

やわらかい緑。
五月晴れの空に、太陽の光が透ける新緑の葉を、柔らかい、と表現する。
葉脈を流れる水分が感じられる。
柔らかい、というのは、本来、弾力を表す言葉だ。
触ってみれば、確かに、若葉は柔らかいだろう。
けれど、新緑を、やわらかい緑、というときには、もっと違う気持ちがある。
優しい気持ちや、いたわりたい気持ちや、ほほ笑みたい気持ちや、
どこかへ続いていくような開けた気持ちが含まれる。

柔らかい、というのはリズムなんだ。

そういうことが、全てリズムなんだ、と、彼は、よく言っていたっけ。

「サングラス、したほうがいんじゃない?」
いつの間にか、彼が横に立っていた。
「さっきから、噂になってるよ。」
気づくと、いくつかの視線が遠慮がちに彼女に向いていた。
「生徒たちがざわついてたよ。フジワラミツキがいる、って。」

彼が人垣を分けて先導し、持ってきた傘に彼女をいれて、校庭へ逃れた。

急にまた雨が激しくなって、ビニール傘を叩いた。
「ドラムマーチ。」
と、彼女を覗く彼の髪は既に濡れていた。

音楽準備室の窓から、まだ止まない雨を眺めている。
途中、サングラスをしてキャップをかぶり直し、うつむき加減で足早に歩いた。
彼女に気づいた様子の学生や来客はいなかったが、女友達を連れた教師は、あちこちで冷やかしにあった。

準備室は、普段は左右の両棚に楽器が収まっているが、今日は、全て持ち出されているのでガランとしている。奥の窓際に古い木製の机が、音楽教師の作業用に置かれていた。
フジワラミツキは、その机に尻を掛けて夕立を見ていた。
音楽室は旧校舎の2階端にある。
準備室はその手前だ。

プールを挟んで、さっきまでいた講堂が見える。
プールの水面が雨に暴れている。

音楽教師は、椅子を少し離れたとことにひいて、その声楽家を、まるで観賞するように見ている。

「素敵な演奏だった。」
「ありがとう。」
「途中、アレンジされてたわね?」
「うん。ちょっと生徒の技量に合わせてね。」

それだけが理由ではないだろう。
繰り返し現れる主旋律に足された編曲は、細やかで、こんなところにもこんな音を配置しているのか、と、繊細な心配りに、自分までやさしくいたわってもらえている気分になった。

「指揮しなかったね。」
と気になっていたことを尋ねる。

彼は、自分の右耳を指し、
「ここのところちょっと、調子がよくなくて。」
と、少し寂しそうにした。
「でも生徒がよくやってくれた。」
指揮棒を振るか細い指先が蘇る。
「ええ。すばらしかった。」

夏が長引いているうちに、耳の持病の症状が強くなり、今日に備えて指揮を生徒に変えて練習してきたのだという。
特に今日はよくなかったので、準備していて正解だった、と観想した。

「たぶん、この夕立のせいだったんだな。」
彼は昔から、気分も体調も天気に左右されやすい。

遠慮がちに準備室の戸が、30センチほど開いた。
「すみません。入っていいですか?」
「どうぞ。」
と、振り返って音楽教師が言う。
薄い曇りガラスがはいった引き戸は、ガラガラとガラスの揺れる音がした。
入ってきた生徒を見て、すぐにフルートの娘だとわかった。

「どうした?」
生徒は遠慮がちにミツキを見る。
「まさか、サインか?」
生徒が抱えている色紙を見て、教師は言い、困ったようにミツキを振り返る。
少女は目をつぶって色紙を差し出した。

「お願い致します。」
やっぱり、部長がもっと強くひき止めてくれたらよかったのに。
ヒナは緊張で胸がバクバクした。
フジワラミツキが来ている。しかも、自分たちの演奏を聴いて、今は顧問の音楽教師と準備室にいるらしい。
控えに使われている教室は大騒ぎになった。
声楽家本人への純粋な憧れと、自分たちの顧問とはいったいどういう仲なのか?という二つの関心で、学生たちは興奮した。
サインもらおう! 感想聞きたい!
有名人のプライベートな時間を侵すのはいかがなものか、と部長が一度制したが、みんなの冷たい視線にあって、ちょっとだけならいいかもしれない、と簡単に意見を翻した。

「すてきな演奏でした。」
と言う声音は甘露だった。
もらったサインを抱えて戻ったヒナは、当然、仲間の質問攻めにあった。

「すまんね。騒がしくて。」
生徒を見送った顧問は言った。
「ポップスターでもないのにね。」
とミツキは苦笑で返した。
鉄道会社のキャンペーンCMで、彼女の歌唱が使われてから、業界を超えてファンができた。
懐かしく、旅愁を誘うCMで、ミツキ自身、好きだった。

「いいコマーシャルだよね。」
彼が言ってくれる。
「あれが流れると、懐かしいひとに会いたいな、と思うよ。」
自分もだ。

鉄道が連れて行ってくれる、行ったたことのない場所を、懐かしく思うのは不思議だが、旅愁漂うちょっと切ないフィルムだ。
人という集団が、共通でもっている心象風景を上手くとらえているのかもしれない。

「繰り返しのスローメロディーで、懐かしいという気持ちを引き出すのは、作曲の基本的な技法だ。」
彼は、昔から唐突にこんな話をする。
「あのCMは、80 BPMで、つまり1秒当たり1.33ビート。1/4拍子だから約0.33ヘルツに換算できる。面白いよね。懐かしいひとに会いたい、という気持ちが、時間をリズムテンポで刻んで組み立てた0.33ヘルツの音の波で呼び起こされるんだ。」

音楽は時間をメロディーに転換する行為だ。

メロディーはこころだから、逆を言えばこころをメロディーに再現して時間をコントロールしてしまうのが音楽だ。

ひとときの間、別の時間へ連れて行くことができる。

夕立は、学園祭をすっぽり包むように雨脚を強くした。

12.相関と因果のパズル

サワムラから連絡があったのは、その翌々日のことだった。
データセンターでのヒメホタル”もどき”の群生は、時間の歪み、に関連している、とアマノは言ったが、ナナセは、その知覚をイメージできない。
それでも、センターの異常な光景が、やはり自分たちの問題と関連ある、とは認めている。
ない、はずが、ない。

ひょっとすると”虫”がいなくなれば、すべてが元に戻るのでは?と思うが、“虫”の駆除には、サワムラたちは、反対している。
殺虫剤散布などの化学的処理は、含まれる薬品が機器に影響を与えかねない。
粘着性の捕虫器を設置したところで駆除しきれるものではないだろう。
標本採集時は、掃除機タイプの吸引器で吸い込む方法がとられたそうだ。
しかし、これも、作業には細心の注意が必要だ。サーバーへの影響を与えなてはならない。
到底、全てを吸い込むことはできない。

それに、そもそも“虫”は、益虫なのだ。
冷却水システムで消化しきれない熱を食べてくれている。

相関関係と因果関係は違う。
異常なダイヤの乱れと“虫”の発生は、相関関係はあるかしれないが、だからと言って因果関係にあるとは、今のところわからない。
だから、“虫”を駆除したからと言って、ダイヤの乱れがおさまるとは限らない。
むしろ、同じ原因、例えば、終わらない夏、から発生した現象にすぎないということもある。

日時計で、時間を知ることはできる。
時間の経過と日中の太陽の位置変化には相関関係があるからだ。
しかし、東から天頂を通って西へ沈む太陽と、影の向き、長さは因果関係にあるが、時刻と太陽の位置に因果関係はない。
時刻は、あくまで人が認識して初めて時刻になるのだ。
時間の経過は、ある時とある時の記憶の比較で初めて認識される。

蝉の生態は夏と密接に関係している。
蝉は幼虫のまま、地中で数年かけて成長した後、夏に地上に出て脱皮して、成虫になる。
夏の湿度は脱皮に適しているのだ、と、検索したページに書いてあった。
地中の幼虫は、暦や時計で夏を知るわけではない。
地中の温度や湿度、そればかりでなく、他の植物や微生物の生態、その分泌物など諸々を通して知るはずだ。

夏になると日は長くなる。
その天体の運行が最初かもしれない。
昼間の長さが指揮者になって、生態活動のネットワークを夏のリズムに奏でるのかもしれない。

だから蝉は夏に鳴く。
蝉が鳴くからと言って夏にはならない。

この市は今日も、暦の上では、晩秋を迎えているが、気温も湿度も夏だ。
窓外には、もくもくと白い入道雲が見える。

サワムラがアマノに連絡をしてきたのは、ナナセがそんなパズルに思考を悩ませて、昨日の日誌をまとめていた朝早くだった。

「“虫”が、消えかかっているそうだ。」
スマホを切って、アマノが言った。

再び管理室から暗いサーバーの森を見下ろしている。
先日と同じメンバーだ。
確かに、“虫”は減っていた。
一昨日の5分の1ぐらいにまでなっているような…。

連絡を受けたアマノは、ナナセに今朝からの鉄道の運行状況を尋ねた。
ナナセがすぐに調べると、今朝の運行は、一昨日の夕立で被害を受けた路線を除けば、おおむね平常運転されていることがわかった。
最近では奇跡のようなことだ。

お互いの現象は、相関している。
サワムラにも既にそれは伝えてある。

「今朝は、もっと少なくなっていました。」
不安そうに言ったのはマナベだ。

ということは、再び増えたのか。
不安定が続いていることも同じだ。
鉄道も、完全に正常が取り戻されたわけではない。
午前中、あちこちで遅延している。

「それで、何か他に相関していることは見つかりましたか?」
連絡が来た時点で、アマノはサワムラに何か依頼していたらしい。
他にも相関している何かが見つかれば、それだけ解決の手掛かりが増えるのだ。

夏が終わらないこの市では、鉄道のダイヤは乱れ続けていた。
ダイヤの乱れは標準時間を管理する時計がそれぞれ違う状況になっていることが直接の原因のように見える。
しかし、先端技術の粋といえる高性能時計が刻む時間がなぜ狂うのか?
いや、狂うのではない。なぜ、互いに違う時間を指してしまうのか?だ。
一方で、鉄道以上に精緻な、マイクロ秒単位で時間管理が必要なデータセンターでは、データの整合性を維持するのに必要なタイムスタンプは正常に機能している。
センターには正体のわからない“虫”がいて、高速計算で発生する熱を食べて、棲みついていた。そのおかげなのかもしれない。
“虫”を取り除くと必要な排熱がしきれなくなり、高速計算に支障を来す可能性がある。

アマノは、”虫”が舞うデータホールには、時間の歪み、のようなものを感じるという。

夏がいつまでも終わらないのではなく、ひとの生活だけが早い時間を生きているのじゃないか、空想世界の物理法則を唱える。
確かに、天体の運行が刻む悠久の時間と、マイクロ秒単位の内に行う億万回もの計算に基づく人間社会の時間は、想像しただけでも同じ波長にならない隔たりがある。

サワムラには他の相関についての発見は、なかったようである。
「あるとすれば、夕立、ですね。」
と言ったのは、尋ねた方のアマノだった。
「おとといの?」
「あれ以来、夏の高気圧が緩できているのを感じるんです。」

ナナセは、力士が尻を動かして席をずらすイメージを、午前に見上げた入道雲に重ねた。

この時、ここにいた者は、昨日からひとつの動画がバズっているのをまだ誰も知らない。

ナナセのポケットの中でスマホが震えた。
アマノとサワムラも気づき、どうぞ、とナナセを促した。
マナベは、ナナセがスマホを取り出してから気付いたようだ。
不思議そうな顔をしていた。
部屋の隅へ下がって通話にでた。

「これがもうひとつの相関かもしれない。」
ナナセが通話内容を話すと、マナベが言った。

13. 導かれる

電話は、本社広報部の同期からだった。
「あんたの母校が、すごいことになってるのよ!」
と、耳元のスピーカーから唾が飛んでそうな勢いだった。
それでね、と一歩的に用件をまくし立てられ、
「わかった。聞いてみる。」
と、ひとまず、同期の頼みを断るわけにはいかなかった。

「どうか、しましたか?」

通話が意外に長かったからか、あるいは戻ったナナセの憂鬱そうな顔を心配してか、サワムラが気にかけて尋ねてくれた。

「いえ、会社の同期からで。すみません。」

通話の間も変わらない様子でホールを観察していたアマノの横に戻る。

すると、
(同期?)
と、高い背をナナセの方にかた向けて聞いてきた。

なんだ。興味あったの?

(ええ。広報部の。)
と、ナナセもささやき声でかえす。

「差し支えなければ、どんな内容なんです?」
こそこそしているので、不審に思ったのか、サワムラが言った。
好奇心で両目の大きくなったマナベがサワムラの肩越しに覗いていた。

ナナセは、同期から知らされたバズリ動画について、あらましを伝えた。

はじまりは、声楽家フジワラミツキの近況として注目された、という。

昨年、年の瀬に、O市の聖堂で歌唱して以来、彼女は公から姿を消している。
O市のコンサートは賛否両論の評価をうけたが、その否定的な声に傷心した彼女が、このまま引退するのでは、という噂が流れていたところである。
彼女が声帯の治療をしているということは、関係者やファンの間では、既に周知となっていた。

激しく雨の降る校庭を、男性と一緒に、ひとつの傘で小走りに突っ切っていた。
目深にかぶったキャップにサングラス、その上、傘の影で、判別はつきにくかったが、向かい側の校舎の屋根に入って雨を払う立ち姿は、どこか颯爽として彼女らしかった。
逆に本人だからこそ、キャップにサングラスなのだ、と推量された。

飛沫く雨を楽しんでいるようにも見えた。

動画はすぐに界隈に拡散した。
男は古い友人で、高校の音楽教師だということもすぐに知れわたった。
そして、この日は、彼の高校の学園祭であり、フジワラは彼が顧問する吹奏楽部の演奏を聴きに遠路訪れたのだ、と誰もがそうとらえた。

そういうふたりの背景が伝わり、やがて、その演奏を真剣に聴いている彼女の様子が映った動画がアップされた。

そこから自体が一変する。

暗い会場のせいで、不鮮明だったが、何度か、彼女が涙をぬぐっているように見えたのだ。

プロの声楽家が感涙する演奏?

いったい、どういう?

すると、演奏自体の動画が、次々とアップされた。
学園祭だ。
友人、知人、家族が、思い出には撮影している。たちまち、ネットに関連動画が溢れた。

声楽家の涙に共感する。
素晴らしい。

演奏をじっくり観れる動画も現れ、そういうコメントが増える。

SNSの賑わいは、フジワラのゴシップから、学生たちの演奏への称賛に、切り替わっていった。

それに時間はかからなかった。

「ホントです。これなんか既に13万いいね、がついてます。」
すかさず検索していたらしいマナベは、テーブルにあったPCのソーシャルメディアをモニターするソフトを立ち上げた。
トレンドグラフが、途中から爆発的に急上昇して、鋭角な波を繰り返しながら今も高レベルを保っている。

横に置かれたマナベのスマホから、再生中動画の演奏が零れている。

聞き慣れたメロディーだ。

「うちのだね。」
とアマノが言う。

夏のキャンペーンに使った曲だ。

「これが、もうひとつの相関かも。」

マナベが顎にあてた手の甲を、意外にゴツゴツしている、と感じた。

確かに、他の変化と呼応しているように思える。

むしろ、順番からすれば、この演奏が起点で、夕立、“虫”の減少、ダイヤ乱れの収縮、気圧の変化(これはアマノの感覚)、だよね。

「で? 何を頼まれたの?」

思い出した。
約束させられたのだ。

「演奏会を申し込んでくれ、と。わたしの高校なんです。これ。」

少しの沈黙の後、それは、それは、と、どういうわけか敬意のまなざしが彼女に集中した。

「わたしもクラリネットやってたんです。」
どういうわけか、口をついで出た。

機に敏な広報部は、只今大注目中の吹奏楽部を招き、N市中央駅のセントラルホールで演奏会を開くことを企画した。
SNSの盛り上がりを使って、この機に、旅行客を呼び込もう、という算段だ。
同校の出身であるナナセを使って、高校に申し込めば、スムーズに受けてもらえる可能性は高い、と考えたようだ。
だが、夏のキャンペーン曲である。
「もう秋じゃない。」
秋のキャンペーンの佳境でさえある。
「いいのよ。N市は、まだ、夏なんだから。」
むしろ、そのミステリアスな状況もいい、と、夏で苦労している現場の同期相手ににべもない。

N市には情緒ある旧市街も残っている。
郊外へ出れば、古い歴史の水路が今も残る。
豊かな田園風景は絵になる。
最新のデータセンターの美しい建築だって、もっと顧客を呼べるはずだ。
もっと観光客を呼べる、潜在力を秘めた地域なのだ!
後日、改めてのミーティングでナナセに披露された広報部の夢は、果てしなかった。

***

「すごいことになってるよね。」
いつもの市電に揺られているヒナとカエデはうれしそうに笑っていた。

そして、さらににすごいことになった。

放課後、練習室に校長が現れて誇らしげに通知したのだ。

「みなさんに、10日後、学園祭での演奏を、もう一度、やって頂くことになりました。」

どういこと?

生徒全員が校長の横で置き物になっている顧問を見た。
フジワラミツキの旧友だというのは隠していたということで生徒から責められ、学園祭以降、立場が弱い。

「10日後、会場は、N市中央駅のセントラルホールです。」
校長は、種明かしをするように間をためて言ったが、やや滑りした。

そこは、建設当時の面影を残したその美しさは有名だ。
あそこでできるの?
10日後?
練習時間がないじゃない⁉︎

生徒たちはお互いの顔を見合わせていた。

「それから、…。」
校長が、咳払いして、続けた。

「フジワラミツキさんも、参加されます。」
校長も、言いながら、途中から耐えきれず破顔していた。
教室の空気が、一瞬固まった後、歓喜の絶叫に割れた。
音楽教師の耳が真っ赤になっていることには、誰も気づかない。

***

学園祭の演奏動画がバズる一方、その日の夕立で、市の小さな観光資源であった水路古跡が一部損壊したことは、あまり話題にはならなかった。

ひとつニュース番組で、ローカル枠で短く報道されたきりだった。

損壊したのは谷を渡る橋の2階部分で、橋から漏れる水が、虹を作っている。
1階部分に落ちる音は、まるで音楽のようだ。
という短い映像だった。

「マイナスイオンを感じますね。まだまだ暑さが続くようです。皆様、水分補給を心がけてください。今日もご視聴頂きありがとうございました。それでは、ごきげんよう。」

しかし、この短いニュースは彼にちょっとしたインスピレーションを与えた。
以前、同僚の歴史教師から、聞いたことがある。
教訓を秘めた民話だ。

N市の起源は、ひとつの都市国家が、周辺の開拓と防衛の為に派遣した軍の駐屯に始まる。
駐屯地が、歴史の中で、やがて植民都市にまで発展した。
人口が増えると、それに伴い、飲料水の不足に悩まされることが多くなった。
近くの川は運輸と農業への利用で、飲料に適したものではなくなっていた。
汚れた水が、ときどき起こる感染症流行の原因にもなっていた。
より上流の澄んだ水を街まで運ぶ水路の建設が望まれた背景だ。
まだ、未開の大地のほんの端っこにある土地に過ぎなかった時代である。

水路を築く技師に護衛兵をつけた一団が、水路の建設の為に森に入った。
川の水位も下がった暑い夏。
鬱蒼として暗い、蒸した森の中を、一隊は、細くなった川を辿っていった。
水路建設の辛苦を表す隠喩だろう。
彼らは、奇怪な獣や精霊と遭遇する。
その度、部隊は危機を乗り越えて、やがて清らかな水源にたどり着いた。

水源には、それを守護する魔物がいたが、魔物は孤独に病んでいた。

わたしの孤独を癒してくれるのならこの水源を自由にさせよう。

技師の中に縦笛の名手がいた。

「吹いてみよ。」
笛の音が水源を囲む豊かな森に静かに響く。

「お前の故郷の曲か?」
魔物は威容に似合わない穏やかな口調で尋ねた。
「故郷を思い出すのか?」
曲は母が口ずさむメロディーを真似ただけで、技師は植民市生まれだった。
「いいえ。これはわたしの母の故郷の曲で、わたしは母の故郷へ行ったとはありません。」
「そうか。」
技師は、深緑色をした水晶のような魔物の瞳に、自身の姿が心細そうに映っているを見た。

「不思議だな。懐かしい。俺も、お前の母の故郷を知らないが懐かしい。しかし、まるで、その風景を見たようだ。この曲が写したこころの中の風景なのだろう。こころというのは様々な形で過去に囲まれているものだ。過去は多様だ。幼年時代に聞いた母の歌声のような記憶の過去もあれば。今感じている現在さえも、認識されたその瞬間には既に過去となる。そういう過去もある。見上げた星の光が、実は数億年前の過去の発光であるように、時間は混然として記憶されているのだ。音楽とは、こころの中のこうした混然とした記憶を、からまった紐をほどくようにして整然とさせてくれるもののようだ。天体の運行に合わせて、生命の時間へとほぐす魔法のようだな。記憶がほどかれ、時間になって行くのを感じる。よかろう。この水源から水を引くがいい。その代わりにその笛を置いていってくれ。寂しくてかなわない。それを慰みにしよう。」
それから数年かけて水路は完成した。

吹奏楽部顧問の市井作曲家は、水路古跡を訪れ、橋からこぼれる水の音をその少し不自由な聴覚で拾って、メロディーに写した。
導かれたような気がしたのだ。
追加のアレンジは、最初、生徒たちの顰蹙を買ったが、やってみると、いい感じ、ということで許された。

14.フィナーレ

N市中央駅のセントラルホールは、かまぼこ型ガラス天井で陽の光を取り込んだ、コンコース中央に位置する。
建設当時の様式を残した優雅なアーチと装飾は、せわしなく人の行き交う駅という機能からは、違和感に近い価値観を感じ取れてしまう。
過去、駅というのはどういう存在だったのだろう?
遠くの仕事を短い時間でこなせるようにする時間短縮の利便性。
簡単には行くことのできなかった遠くへ行ける、未知の体験との結節点。
普段は気にとめない職場の建築様式を、ナナセは、改めて眺めた。

今日は、その空間にステージと観客用のパイプ椅子が並べられている。
乗降客の通行を妨げないように、ベルベットのロープでつないだポールで会場を仕切っている。
警備を兼ねた駅員が数人、コンコースの柱、柱のところに立っている。
ロープの外で立ち止まる乗客には、内側に入るか、通行を促す。
ナナセも、アマノも、その応援だ。
広報の記録係が、既に観客席の後方で撮影器具を構えている。

以前ほどではないが、今日も乱れている運行ダイヤは、乗客の足を立ち止まらせるのに一役かっているかもしれない。
急いでも仕方がない。
何か始まるらしい。
むろん、ステージを一瞥するきりで、遅れを取り戻そうとするように乗り換えを急ぐ者もいる。
逆に、演奏会を目的に来たグループも多いようだ。
パイプ椅子が足され、ベルベットロープの位置は何度が広げられたが、それでも会場はすぐにいっぱいになった。

エアカーテンで空調管理した空間も、人が集まってくると、蒸し暑さが増した。

楽器を抱えた学生たちがコンコースを歩いてくるのが見えると、歓声と拍手が迎えた。
名前を呼ぶ激励の声もある。

学生たちが、一段高いステージに上がった。
指揮の学生が構え、チューニングが始まる。
波が引く様に、あたりが静かになった。
通行する乗客の足もゆっくりとなった。
ヘッドホンをしてスマホ歩きをしていた若者が、ヘッドホンを外して立ち止まるのを見た。

歴史を表す建物が、一拍、一緒に息を吸ったように感じた。

オーボエの音が、ホールに反響した。
奏者の緊張した息が伝わる。
思春期の細い指が震えているのが感じられた。
遠く、蝉の声が混じる。
乗客の靴が床を踏む音も混じる。
その中に、楽器の吐く旋律が、繊細な音の糸を一筋、引いていく。

ホルンが伴奏する。
目の前に高い峰を臨むようだ。
暑気が払われて涼気にかわるような気がする。

一音一音、確かめるように、順番に、異なる楽器の音が重なっていく。

ピンと張られていた糸が、次第に波打つようになって、ついに躍動にさえ変わった。
見守るように構えていた聴衆の空気も音に引き込まれていく。

歌姫は呼吸を整えながら、学生たちに敬服した。
共演にあたり、2時間ずつ、3日間、共に練習した。
演奏する時の真摯な姿と、ふざけてじゃれあっているばかりの普段の様子は、噓のようなギャップがあった。
そのリズムが、微笑ましかった。

オーボエから、ホルン、フルート、クラリネット、トランペットへと継がれていく主旋律を、観客が息をのんで聞くのがわかった。
歩調を緩めて、後ろ髪をひかれるようにして通っていく乗客は、時間を思うままにできない用事があるのだろうか。

最前列に腰掛けていたミズキがゆっくりとステージに上がったことに気づかなった聴衆も多い。誰もが、それほど、演奏に集中していた。
あらかじめ、その演出を知っていたナナセでさえ、その時まで、まったく失念していた。

鼻の奥がつんとして涙になりそうで、それを晒すまいすると、代わりに鼻水が垂れそうになる。
中指で鼻先を押さえる。

炎天下の操車場の匂いを思い出す。

音楽は、聴き入るひとそれぞれに、夏の記憶を運んだ。
田園を渡る風のように流れる美しい旋律が、こころを洗う。
夏の雑多な記憶が、旋律に沿って浄化される。

歌姫は、もうそこにすっと立っていた。

そして、一度瞑目して楽器になった。

鳥肌が立った。
これはズルい。
ナナセは、もう一度、垂れる鼻水を指で押さえたが、諦めてハンカチを出した。
これは、もう、仕方ないでしょ。

今日は声がよく伸びる。
フジワラミツキは、自分の発声がうまくいっているのを感じた。
空気を自分の中に吸い、鍛錬した身体でメロディーにして返す。
自分と自分の外には、必ず時間の隔絶がある。
すべての人にとってそれは、同じだ。
過去の記憶も、数光年先の星の明りも。
一度、自分の胸の中の時間に包む。
これをメロディーにして返そう。

さっきまで自分が座っていた、今は空いた席のとなりで、聴覚を病んだ古い友人が、目をつむって、腕を組んでいる。

届け。…

厳しかった夏が、懐かしい夏になっていく。
うんざりだった暑さだが、取り戻したく、恋しい。
切なく美しい旋律。
歌詞のないヴォーカリーズが、聴き手の想像を自由にして止まない。

盛り上がりを見せて華やかに高揚した演奏が、仕事を終えて満足したように静かに終わった。

割れるような拍手と歓声が長い間つづいた。

アンコールに応える為に、再び指揮棒が上がり、会場が改めてしんとした時、拍手と歓声が静まっていくとともに、
N市の長い夏も終わった。

アマノをみると、気圧変化を確認するように、ガラス天井を見上げていた。

15.エピローグ 秋

長い影がホームに伸びている。
井戸のつるべのように早く陽が落ちるようになった。

「すっかり日が短くなりましたね。」
ナナセが見上げた。
逆光になったアマノの上に、オレンジの陽に端を染めた雲が、底を黒くして浮かんでいる。

「…アマノさんも、本当に音楽が夏を終わらせて、ダイヤを元に戻したんだ、と思いますか?」
今では奇跡と騒がれているコンサートを思い返す。

高速化し過ぎた社会は、時間の中に情報を詰め込み過ぎだ。
時間の中に、これでもかとこれでもかと仕事を詰め込む。
アマノによれば、本来、ひとが“時間”と感じる事象とは、記憶が薄れることで感じ取れるものらしい。
留めたくても留めようのないもの。
それが“時間”の経過、というもので、“季節”というものだ。

瞬きする程の間に、数えきれない回数の計算をする世界は、もう別の宇宙だ。

まるでスピードの違う時空を走る列車のダイヤは混乱して当然だ。

そして、音楽はこころの“時間”に変換する。
逆もまた然り。

記憶の中に、懐かしい知人、友人、家族、そして自分自身を見つける。

高速化で無機質な情報でいっぱいになっていた時間が、音楽で、もう一度、柔らかくほぐされる。

「…どうでしょうね。それは。」
まあ、どうあれ、ダイヤの問題は解決したんだから、細かいことはいいでしょう、と言いたげだった。

厳密にデジタル的に因数分解しなくてもいいのかもしれない。
どんなに詳細に因数分解しても、それぞれの相関関係は、アナログにしかとらえきれない。

音と音が醸す和音は、そのまま和音でいいのだ。

コンサートが終わった後、サワムラから、“虫”も消えたと連絡があった。
冷却が追いつかなくなる心配があったが、夏の終わりとともに、地下水の温度ももとに戻ったので支障は起こらなかった。
「あの“虫”は、いったいなんだったのでしょう?」
これには、アマノは、やや表情を険しくした。
「もしかすると、本当は、彼らは何か他のことも知っているのかもしれませんね。」

消えたとは、どういうことなんだろう?
"虫”の変態は、約1日と言っていたが、そもそも最初の卵はどこから来たのか?
一生を終えた成虫は死骸を残すのか?

わからないままだ。

だけど、今は、知る必要もない。

ナナセは手首の時計を確かめた。
線路のかなたをみる。
遠く列車の気配がする。
列車の前方の空気が、押されて到着を予告している。
秋の匂いだ。
少し肌寒い。

定刻通りだ。

― 了 ―

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