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子どもとバトル

 正月休みは、連休恒例子どもの世話をしていました。二親等親族がシングル親なので、子どもの第3保護者になっている私は、1日から三親等親族の小学生ふたりを預かり、ピザを作ったり公園でそり遊びをしたりと、活発に過しました。木登りをしていて落ちた衝撃で、ここしばらく調子の悪かった腰がすっかり良くなって喜んでいます。

 子どもも高学年になり、最近はなかなか難しいことを聞いてきます。今回はTVでみかけた権利要求する人々について、子どもから「わがままなんじゃない?自分勝手だよ」という意見が出たので、私なりに議論バトルしてみました。

「さっきみんなでUNOをしていて私が全部負けたけど、もしも同じ人が毎回負け続けていたら、ルールの見直しをするんじゃないかな?私は、もしも自分が負け続けるルールのゲームをずっとやらされたら、怒る。それはゲームじゃない。自分勝手とはちがう。」

 相変わらず議論に勝ててはいないのですが、初めて少し納得してくれた…?

 機会が公平でも、結果に大きな差がある場合があります。それを、機会は平等なのだから政治や法律の問題ではなく、個人の問題だと考えるひともいるのですが、世間の慣習に個人が抗うのは傍から見るよりずっと大変なことです。ほとんどのジェンダーロールが馬の耳に念仏状態の私でさえ、年長者の前ではいくらか保守的に振る舞います。それに、個人の能力はある程度努力や工夫で高められますが、生まれつきの差はやっぱりけっこうありますよね…

 選択的ふうふ別氏(選択的夫婦別姓。私は同性カップルも含まれるべきだという考えなのでふうふと表記します。3人以上での婚姻なら表記はふうふうふ?)の議論の状況はまさにそれで、現行の強制的同氏制度下では妻か夫、どちらの氏を選んでも良く、機会は平等なのですが、今でもおよそ95%が夫の氏を選択しており、結果は平等ではありません。

 また、東京の婚姻平等(同性婚)裁判では国側が、「同性愛者でも異性と婚姻することはできるから婚姻を異性間に限定しているのは同性愛者への差別ではない」という…ちょっとどうかしている主張をしましたが、これも似ています。結婚と性愛は必ずしもイコールでなくても良いのですが、制度はやはり異性愛者を想定しています。

 性的マイノリティの権利問題のときはあまり子どもには納得してもらえなくて、「それはわがまま。男か女かどちらかになって異性と結婚すべき」と主張されてしまうのですが、違う問題でもこうやって地道に議論をし続けてみようかなぁ、この子どもが20年後に革命を起こすかもしれないし…なんていう期待をこめてお年玉を渡しました。


 こどもたちは、あと千円欲しい、という目をしていた気がします…