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2024年ルミナリエ。私と阪神淡路大震災

1月28日の最終日、ルミナリエに行ってきました。
当日券は買えなかったので、カメラを片手に1人ブラブラと歩き慣れた神戸の街を歩き回りながら無料ゾーンを巡り歩きました。
4年ぶりのルミナリエは有料ゾーンを設けたりイルミネーションを転々とバラけさせたためなのか街を埋め尽くしていた長蛇の列が消え、ずいぶんと楽に歩けるようになっていました。

ところで、皆さんはルミナリエが一体何のイベントなのかをご存知でしょうか。

ルミナリエは1995年1月17日。阪神淡路大震災で犠牲になった方々の鎮魂の意味を込めて始まった神戸のイベントです。コロナの前は12月に行っていたルミナリエですが、今年からは震災のあった1月に行うことになったそうです。




私は埼玉で産まれ、神戸で育ちました。
震災歳生まれの学年だったため人生の節目節目には震災の話が必ずついて回りました。イベント事にテレビ局が入り、学校では震災の日に産まれた同級生がインタビューを受けてたりしましたね。私の友達にも赤ちゃんのときに瓦礫の下から助け出され、今では二児の母として立派に命をつなげている子がいます。

かく言う私はどうかといいますと、神戸から遠く離れた生まれ故郷にて呑気に眠っておりました。父の転勤で神戸の街にやってくるまで震災の事など全く知らずに過ごしていたのです。

私が始めて神戸に来たのは5歳のとき。幼い私は5年前の大震災などこれっぽっちも知りませんでした。その為不自然なほどあちこちに存在する空き地を見て『ドラえもんみたいに空き地で遊んでもいいの?』と無邪気に母に尋ねたりしていました。

空き地の正体を知ったのは、私が小学生に上がり地震の話を聞くようになってから。
通っていた小学校は毎年1月17日は丸一日を使って全学年で震災を学ぶ日になっていました。その日は朝から亡くなった7人の生徒と被災者へ黙祷を掲げ、幸せ運べるようにを歌い、先生や被災者の方々から当時の話を聞き、防災について皆で学んだのです。当時を振り返った方々の体験談は涙に濡れていて、これはとても大変なことだったのだと幼いながらに胸がきゅっと痛くなりました。

書きながらふと思ったのですが一年生私に震災の事を教えてくれた6年生のお姉さんは、小学一年生の時に震災を経験していたのですね。一体どんな気持ちでお姉さんは話をしてくれていたのでしょう。
たくさんの話を聞くうちに私は段々とあの空き地が何だったのかを自ずと理解していきました。

空き地の数だけ家があったのです。
ぺしゃんこに潰れた家があったのです。
もし私がその家に住んでいたら?家族皆は生きて逃げることができたでしょうか。
もし友達が、その家と一緒にぺしゃんこになってしまったら??二度と会えなくなってしまったら?

想像するだけでも恐ろしいことが、確かに現実に起こっていたのです。
どれだけ胸を痛めてもお話の中の出来事だった震災のリアルを、その時初めて知ったのでした。



それから時が流れ、高校一年生の時東日本大震災が日本を襲いました。阪神淡路大震災で人の命をたくさん奪ったのは怪獣のような炎と煙でしたが、次に牙を向いたのは荒れ狂う海の波でした。
テレビに流れるのは人々の悲鳴と涙と大きな津波。
父と母は神戸の時と同じだと固唾をのんでテレビの画面を見ていました。
私は福島に住む従兄弟の安否が確認できるまで気が気ではありませんでした。あの空き地にあった家のようにぺちゃんこになっていませんようにといつも祈らない神様に祈りを捧げるほどでした。
幸いなことに従兄弟家族は無事でした。しかし原発事故の影響で暫くの間何処か別の場所で生活を余儀なくされました。

あの震災で神戸復興を願う歌だった幸せ運べるようには日本の復興を願う歌に変わったのだと、テレビから聞こえる子供たちの歌声を聞きながら複雑な気持ちになりました。

そしてまた何年かの時が流れ、ついに震災から20年目の1月。私達は成人の日を迎えました。震災の年に産まれた子供が、ついに大人になったのです。
成人式の内容はやはりすべてが震災のことでした。
小中高の入学式も卒業式も、体育祭の創作ダンスに音楽会、文化祭の舞台でさえ全てに阪神淡路大震災がついて回りました。
流石にもう、震災の話にはうんざりとしてしまいました。私達はただ偶然その年におぎゃぁと産まれただけなのです。けれどそれも今日で最後だと思うと背筋がぴんと伸びる心地がしたのでした。

薄れた記憶の何処かで聞いた似たようなお話。
被災された方々は皆同じ悲しみと絶望を感じていました。そんな中で産まれた私達はきっと希望だったのでしょう。私達は神戸の人々に祝福されて祝われて大人への一歩を『せーの』で踏み出したのです。


私達は阪神淡路大震災を体験した最後の大人になりました。
いや、私は震災を体験してはいないので少し違うかもしれませんが。それでも震災の記憶と共に成長してきたのです。きっと私達はこの渡された記憶のバトンを次に伝えて行かなければならないのでしょう。

ルミナリエの灯りは復興の明かりです。
亡くなった方々への鎮魂と共に復興と未来への希望を灯した光です。
この希望の光がこの先もずっと続きますように。
日本各地で多発する自然災害にそう願わずにはいられません。


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