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ヌード写真についての覚書

私はポートレートを撮る人間だ。

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撮り始めて5年そこそこだろうか。被写体をしてくれる人と話し合い、撮影シチュエーションを決め、どのような見せ方をするのか話し合う中で、ヌード撮影をすることもあった。そうした写真は、相手にはすべて渡しているものの、自分としてはいつかの機会にと思い、殆どの写真をどこにも投稿しないでいる。なぜか。

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ヌード。一般的に撮る機会も、撮られる機会も少ないポートレートだろう。SNS上でも常に一定の人気があるコンテンツではあるが、この人気は、よくも悪くも、他のポートレートとは異なる方向性も持つ。いわゆる、「性的消費」の対象にされやすい、というものだ。

撮影したデータがどんなものであっても、それが一度公開されれば、鑑賞者は被写体となった人間の裸体を目の当たりにすることになる。
そこには、作品に対する、素直な感動や賞賛もあるだろう。このような形で写真に写し取ることができたのか!というような驚きも含め、好意的な感想が寄せられることもあるはずだ。

一方で、こうしたヌード写真を「単なる被写体の裸の写真」として評価し、それを気に入る人間もいるのは、避けられない事実だと思う。他者の想像力は止めることができない。それゆえに、写真の評価の方法は自由であり、いかに芸術的に仕上げたヌードでも、単なる「エロ写真」として考える人間だって、いないとは限らない。

写真が美術館に飾られ、作品の中に被写体は明示されなかったり、撮影されたのが100年も前なんて時には、そうした感情は希薄かもしれない。しかし、SNS上に被写体が紐付けられた状態でそうした写真が公開されたとき、だれかが邪な感情を持って見ることを、私達は強制的にやめさせる術を持たない。

被写体をしていただけなのに、ある日突然、セクハラDMが急増するかもしれない。怪しいカメラマンからの誘いが次々と舞い込むかもしれない。オフ会に行けば、いやらしい目つきで見られてしまったなんてことも、あるかもしれない。
全て、「かもしれない」だけ。ただ、その可能性は、本当にその人の人生に必要だったのだろうか。被写体は学生の間にやりたいだけ、若いうちにやりたいだけ、そうだったはずなのに、そこで撮られた写真が未だにネットに漂流しているせいで嫌な思いをすることだってあり得るわけだ。

「私は覚悟しているからいい」そうした話もよく見るが、本当に、覚悟ができているのだろうか。周囲の被写体がヌードも受け入れ始めたからとか、カメラマンに説得されたからとか、かんたんな理由で許可をしてしまってはいないだろうか。被写体としての人生は短かったとしても、人としての人生は相当に長い可能性がある中で、その判断は本当に強く、自身を持って言えるのだろうか。

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ヌードを否定するわけではない。優れた写真だってたくさんあるだろう。ヌードを自己表現にすることで成功した写真家だって、多くいる。それでも、そこには作品である以前に、一人の女性の裸体が存在する。そのことをしっかりと理解し、覚悟して、作品公開を行う。それこそが、何でもすぐに拡散されてしまう情報社会においては、必要なことではないだろうか。

サポートして頂けた分は、写真に対する活動全てに充てさせて頂きます。缶コーヒー1本分からの善意への期待を、ここにこっそり記します。