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SNS時代のポートレートで、有名な被写体さんに固執しないということ、人間を撮る意識をもつということ

コスプレ撮影や、写真会などの撮影も含めて、人物写真を撮ることを趣味とする人たちは、「ポートレートが趣味です」と時折口にする。

SNS全盛期の今、ひとたび覗けばネットの海にはそうした人々が撮った写真が無限に漂っている。そして、そういう写真には大抵、綺麗で笑顔満開な、かわいい被写体さんが様々なポーズで写っている。彼女たちの多くはいわゆる「被写体アカウント」というものを持ち、撮影会に出ていたり、個人で有償依頼を受けていたりと、被写体業をセミプロ~プロレベルでやっている。

フォロワーも有名な人だと6桁にすらなったりするし、4桁後半もあれば、基本的には折り紙付きの美人ということになる。
(彼女たち側のそこでのそうした努力や、意識の高さといったものは今回は書かないが、そこにもいろいろな苦労はあるのだろう。下図はイメージ写真)

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ポートレートを撮る人の何割かは、そうした被写体さんたちとどんどんと結びついて生きながら、自分のSNSにどんどんと綺麗な人々だけを投稿していく。毎週のように撮影に行き、毎週のように様々なシーンを撮影し、フォロワーはうなぎのぼりで、気付けば自身もインフルエンサーのようになっていて、ジャケ写、アー写といったものまで撮り始める。こうなれば仕事すらも降ってきているようなもので、こうした人々にあこがれる人々も少なくはないのだろうと思う。

けれど、それだけがポートレートだろうか、と私は時折思うのだ。

様々な趣味がポートレートの人と会うにつけ、私は、「なんでポートレートを撮っているんですか」と聞いてみたりする。そうした答えの中に、「有名になりたいから」「承認欲求を満たすため」「自分の理想の1シーンを追求するため」といったものは、それなりの頻度で聞く。

勿論、それも一つの答えであると思うし、それが間違いであるとは思わないのだけど、こうした答えの裏には、大抵、有名な被写体さんと、綺麗な背景とがセットであるような気が私にはなんとなくしてしまっていて。
そしてそうなったからこそ、世の中に綺麗な人々のポートレートだけがあふれていく現状があって、それだけではちょっと息苦しいな、とも思う。

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少ないかもしれないけれど、私も100人に近いくらいの人たちと個人的につながり、ポートレートを撮ってきた。そうした中で、最近はどんどんと、「普通の人々」のポートレートを撮る機会が増えていっている。被写体なんてほとんどしたことのない、近所の友達。長年私と撮ってはいるけど、他の人に撮られることのない後輩。撮る側はするけど、撮られる側はほとんどしないカメラ趣味の子。彼ら彼女らが見せる表情は、初めは戸惑いが多いけれど、気付けば様々な形をとり、私の目とファインダーに魅力的にうつる。

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撮られる人たちのそれなりに多くが、「そんなにかわいくないけど……」「モデルさんみたいだったら良かったけど」と口にする。普段自分の見るポートレートと自分を比較すると、そう思うのは当然だろうな、とも思う。
確かに、同じ場所で、同じポーズで、表情で、服装で。完全に人間以外が一緒で、有名な被写体さんとそれ以外の人が写真を撮ったら、そりゃもう多数決をとれば、ほぼ被写体さんが勝つだろう。でも、そうした優劣って、自分自身にとって必要なことだろうか、と思うのだ。

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例えば、漁師さんが仕事をしている瞬間と、漁師さん風の恰好をしたアイドルの写真を比べた時、その良さは完全に違うベクトルになるだろう。
前者で大事になるのは「その人が、自分のフィールドで、生き生きとしていること」であって、そこに顔の優劣だとか、スタイルがどうこうとか、まるで関係ない。

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普通のポートレートだって同じで、「その人自身がいいと思える場所」で、「その人のよさ」を引き出せるのなら、そこにそうしたSNS映えを求めるような外見なんて必要はないと思う。そして、そうした場所や雰囲気をいかに引き出し、写真に反映させるかは、カメラマン側の一つのやりがいになりうるのではないか。

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有名な人を、有名なスポットで、エモい服装で、エモい表情で撮れば、写真は誰だってバズらせることが出来る。そうやって、自分の承認欲求を満たすことは、決して不可能なことではない。
ただ、そうしたいわゆるテンプレートを撮る人々に、ちょっと聞いてみたいことがある。「それは、マネキンや、ドールさんで撮ってはダメなんですか」と。ドールさんを撮る意味と、人間を撮る意味は、一緒ではないのだ。完璧に作りこんだ表情だけを撮りたいのなら、それこそドールさんの方が、私はずっと魅力的だと思う。

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どんな姿を撮るのであれば、「その人自身を撮っているのだ」ということになるのかをよく考えながら、「自分らしい写真、相手らしい写真」になるように近づけていくのも、ポートレートの一つの魅力ではないかと思うし、そうなったうえでの演出は、私もしていきたいところもある。そこにあるのは、「相手とのかかわりあい方の提示」であって、「理想の世界の1シーン」ではない。いろんなポートレートがあっていいし、いろんな人がもっと自由に、「撮ってください」と言える世界であってほしい。

なんとなくそんなことを思った。

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