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【写真を撮るってなんだろう】写真は生涯の趣味なのだろうか、それとも

写真を撮ってSNSに上げてって行為を、趣味として少なくとも8年間くらいはしているけれど、その間に、趣味が写真でなくなった人たちを、たくさん見てきた

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私の見る限り、多くはライフステージの変化によるものだ。特に高校生から大学生、大学生から社会人と段階を踏むときに、趣味として写真を置いていくような人たちは割と見かける。「昔はいろいろ撮りに行ってたんだけどなー」なんてことも幾度となく聞いた。
後は、恋人ができた(別れた)ことによるもの。恋人が写真が好きだったから一緒に撮っていたけど、別れてからは趣味としても決別とした、とか。他にも、撮る側から撮られる側になったからだとか、忙しすぎて出かける時間がとれないだとか、そういうこともあるようだ。皆がうまいから、自信がなくなって、自分が撮らなくてもいいやって人なった人もいるらしいし、承認欲求の道具として、別のものを見つけた人もいるとか。

多種多様な理由で、人々は写真という趣味を人生という道の傍らに置いて先へ行く。

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そういう人々を見かけるたびに、「私とは写真というものへの向き合い方が違うのだろうな」と思う。
勿論、それが悪いことではない。写真を撮れなければだめだとか、いい写真がどうとか、そんなことが言いたいわけではない。趣味を強制したり、趣味をやめることを見下したり、そんな話でもない。

私にとって写真を撮る行為は、「ただ生活に付随するもの」なのだ。朝起きて、雨が上がっていたら嬉しくてシャッターを切る。体調が悪い日に散歩に出て、その日の綺麗なモノを覚えておくためにシャッターを切る。誰かを素敵だと思ったからシャッターを切る。自分自身の心が動いた時には、大体写真というものが伴って行動が形成される。
勿論、意図的にそうなるように習慣づけてきたことはあるだろうけど、それよりも「忘れないために記録すること」が自分の中でかなり重要なウェイトを占めていて、そうした行動に一番身近で、かつSNSにも上げやすいものが自分にとって写真であった、ということなのだ。

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凄く嬉しいことがあったり、忘れたくないことがあれば日記を書く。電車でいつもA駅とB駅の間は動画で撮る。そうしたこともしているけれど、写真はもっと気軽に、1ボタンだけでその場を残すことが出来る。しかも、自分の好みの味付けで。絵をかかなくてもいい。何千字も紡がなくてもいい。その場でずっとスマホをもって立っていなくてもいい。ワンボタン、一瞬写真を撮る機械に時間を預ければ、後で見るだけで、その場の様子を思い出すことが出来る。

私は過去の思い出に浸るのが好きな人間だけど、わすれっぽい。例えば、3年前の今日に何をしていたかなんて、当たり前だが覚えていない。けれど、その日に写真さえ撮っていれば、それを見返すことが出来れば、思い出せることは結構いっぱいある。(3年前の今日、私は琵琶湖で朝焼けを撮っていたらしい)

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その感覚が好きなのだ。写真を見た瞬間、自分の頭の中で展開される過去の記憶と感情が、その積み重ねが自分の人生を確かに作ってきたと思わせてくれる。そうした思い出すという行為に、一番気楽なのは当分写真なんだろう。

ポートレートを撮るときだって同じだ。その人が生きているその時間を記録することを何度も繰り返し行えば、その人の人生の経過を記録することにもつながっていく。人は日々変わっていく。その変わり方は写真にも表れていて、それを追いかけることがなんだかとても楽しい。だからあまり新規の被写体さんを最近は募集しない。今まで続いてきた縁を追いかけることで大抵手いっぱいだから、新しい人を特別強く撮りたいと思わないからだ。

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こんな感じで考えているからこそ、私にとって「写真という趣味をやめる」という選択肢も、「それをSNSに上げない」という選択肢もない。
急に写真を撮ることをやめるときがあるとすれば、その時きっと私は、自分に興味がなくなってしまったのだろうと思う。そんなことは何をどうやっても、良くも悪くも起こらない。
また、SNSは自らの記憶の大いなる蓄積であり、そこにのこるすべてのデータが自分自身である。SNSに投稿するということは、自分の文章と写真をともに時系列で載せるということだから、先ほどから言っているような、「思い出す」ためにこれほど便利で気軽なものは今のところほかにないともいえる。

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もし、写真よりもSNSよりも便利で確かなものが急に出てきたら、その時はどちらも捨ててしまうのかもしれない。けれど、まだまだ先の話だろう。当分は写真を撮り続け、自分の記録を積み上げ、そこを時折振り返っては楽しむ人生は続くのだろうと思う。それを生涯の趣味と呼ぶのなら、私にとっては間違いなく写真はそういうものになると思う。

とりあえず今朝もコーヒーを淹れた写真を撮った。無意識のうちに。他にも何か撮るのだろう。どうせ。

サポートして頂けた分は、写真に対する活動全てに充てさせて頂きます。缶コーヒー1本分からの善意への期待を、ここにこっそり記します。