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人間が主役を降りる日

「言葉と物」
ミシェル・フーコー 渡辺一民・佐々木明訳

 エピステーメーとは、もともとはギリシア語で「知識」を指す言葉であったが、フーコーはそれを「ある時代における知の枠組み、土台となるもの」という意味合いで使っている。その時代における学問、思想、知識の根底にあるものは何なのか。それが時代とともにどのように変化していくのか。フーコーはその時代の文献を読み解きながら、思想の深層にある構造を探り、そのエピステーメーがどう変わっていったのかを明らかにする。これが「言葉と物」で示されたことである。副題に「人文科学の考古学」とあるように、フーコーは自らを「歴史家」と呼び、彼の行っていることは「考古学」だと言った。なるほど、文献からその時代に通底するものを探し出し、その時代を明らかにしていく作業はまさに「知の考古学」なのである。
 

 「言葉と物」では、ヨーロッパの歴史上、16世紀末までの「ルネサンス期」、17~18世紀の「古典主義時代」、18世紀末以降の「近代」に分かれて、それぞれのエピステーメーが現れていることを述べている。一般的には、知的に暗黒の時代から技術、科学の進歩によって次第に知識量が増えて明るくなっていくという、連続史観が大勢であったのだが、フーコーの考えでは、大きな認識の変化が起こるところで時代を区切る「断続史観」をとる。連続史観には優性思想などの危険がつきまとう。そうではなくて、認識とは構造的なものだとするものである。

 ルネサンス期には、「類似」がエピステーメーであった。世界にあるものは類似によって関連している。人体と植物の類似(トリカブトの種子は眼球に類似しているので眼病に効く)や、星辰と人体の関連(占星術や錬金術)、そして、言葉と物も密接に、というよりは一体化したものとされていた。
 物にはそのもの特有の価値があった。黄金は金属の中で最高位のものであり、神の象徴であったために貴重とされた。
 あるものはあることの象徴であり、人々はそこに「書かれていること」を読み取ろうとしていた。
 なるほど、ルネサンス期の絵画に象徴がふんだんに描かれているのは、そういうエピステーメーであった時代だからなのだろう。

 古典主義時代にはこの認識に変化が起こる。混然としていた世界は、「表象」によって分類、区分けされていくことになる。「表象」とは、つまり「これは○○である」と認識する事であろう。例えば、目の前に四本脚の、首が長くたてがみがあり、人の背たけに近いところに背があり、顔が長く、走ると猛烈に速い動物がいる。これを「ウマ」と名付けることにする。この「ウマ」という言葉と、「ウマ」からくるイメージが「表象する」ということであろう。
 言語についても「一般文法」という概念が生じる。あらゆる言語にはその根底に共通の文法が存在し、そこからさまざまな言語が派生しているという考えである。
 物の価値観に変化が生じる。ルネサンス期と違い、金貨は金であるから価値があるのではなく、ものと交換して価値が生じる。つまり、金貨はどれだけ多くのものと交換できるかという富の「表象」に基づき、価値が決まるのである。

 同一性と相違によって世界にあるものを分類していく。植物は動かず、心臓もなく血も流さず、動物とは別に分類される。そこから生殖器の違いや花弁のつき方などによって細かく分類されていく。これが博物学である。
 このように、世界を「タブロー(表)」の上に並べて、それを外から観察している、というのが、この時代のエピステーメーである。ここでは言葉はものから切り離された。表象があり、その表象に言葉を与える、ということになったのだ。
 ベラスケスの「侍女たち」が引き合いに出されているのも、ここで理解できる。この絵には、そこに描かれていない王と王妃を「表象」させるモチーフが描かれていて、さらに、外から眺めている鑑賞者を意識しているのだ。
 なるほど、この時代の他の絵画も、象徴にあふれたものに変わって、写実的な風景画やドラマチックな絵画が現れてくる。この時代のエピステーメーのもとにあると考えてよいだろう。

 19世紀以降の近代に入り、またも変化が生じる。物を見て、その外観を認識していた時代は終わり、物と、それに影響を与える外因に目が行くようになった。「表象」はその力を失ったのである。
 生物は自然の影響を受け、その中で生命を保持しようと様々な器官が生じる。かつて「これは何か」と問うていたものに、「これは何故こうなのか」という問いが生まれた。
 物の価値を決めるものに「労働」という概念が参加する。労働力をどれだけ使ったかによって、物の価値は大きく変わる。
 言語には動かぬ「根」があると考えられていたが、世界の言語を研究するにつれ、地域によって異なる言語があり、共有のものはないということが分かった。

 ここにおいて、フーコーの聡明さは「人間の発見」がなされた、としたことである。これまでの認識には、人間がいなかった。近代に入り、物の関係性に意識が生き、物や事との間の関係性に人間が入り込んできたのである。古典主義時代の人間は、神の目で世界を眺める観察者であった。今や人間は世界に関係するものになったのだ。
 人間は人間を考えるようになった。これが哲学となった。人間の有限性を重く考えるようになった。
 人間は思考がどこから来るのか考えるようになった。デカルトが「われ思う、ゆえにわれあり」と言ったが、それが真理でないことを知った。
 人間は、内部に思考されぬものの存在を知った。それを無意識と名付けた。
  近代の美術において、印象派、象徴主義、シュルレアリスム、抽象絵画への誕生も、このエスピテーメーの中で生まれたと思えば面白い。表象よりも、心象が重みを持ってきたということだろうか。

 そしてこの後、あらたなエスピテーメーが訪れるとしたら、それは「人間の消滅」であろうと予言する。その兆しは、新たに生まれた学問、「精神分析」「文化人類学」「言語学」に現れているという。なぜなら、これらの学問にはすでに人間が現れないからだ。これらの学問は、人間の思考しえぬ分野を範疇としているからである。

 「言葉と物」が書かれたのは1966年。ここでは、ヨーロッパの知についての歴史的変遷について書かれているが、グローバル化した現在の世界において、世界的なエピステーメーの変化というものが起こるのだろうか。現在の美術に見られるのは、人間が世界に与える影響への告発、マスに対する個の発信。もしかすると、人間よりも、人間の外にあるものに重点が置かれ、人間は主張をやめて世界の片隅にうっすらといるようなものになるのだろうか。
 もし、その境目に生きているとしたら、私は「ドン・キホーテ」のように、時代遅れの理解できない人とされてしまう人になるのだろうか。興味深くもあり、恐ろしくもある。

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