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梁山泊のような佐久病院に流れ着く

医学の周辺で何をするか、結局いろんなことに興味があったんですね。あのころは早く自分の集中できるもの、目標を早くみつけたいと焦っていたようにもおもいます。

医学は実に幅広い実践的な学問でした

 遊んでばかりいたようですが、大学で学んでいた医学という学問自体もとても面白いと感じました。
人が健康に生きるために必要な技術を整理して世界中でよってたかってアップデートする。分子生物学のようなミクロなものから、公衆衛生や政策にまつわるマクロなものまで、また精神医学のようなこころに関わる領域までいろんな領域があり、それぞれが社会の他の学問領域や実践とオーバーラップしている。まあ、まじめにやった領域とそうでもなかった領域の濃淡はありましたが、どれも好奇心はくすぐられましたね。

 アレルギーやアトピー性皮膚炎で苦しんできたので基礎医学では免疫学を面白いと思い、研究室に足をつっこんだこともありました。ただやはり公衆衛生や社会医学みたいなマクロの分野に惹かれることが多かったです。

 一方で、これは生まれの特性なのか育ちの影響なのかわかりませんが、いつまでもなかなか生活者としての実感が持てないというコンプレックスがありました。どうにも生きている実感がもちにくいというか、刺激がたりないというか、地にあしがついていない感じで、浮世離れしているというのが抜けきれずもどかしさを感じていました。

地域医療という謎の領域に惹かれて

 そういうこともあったので地域での社会、特に自然に近いところで生活している人の近くで、役に立つ技術を提供しながら、医療を通じて地域社会をよくしていく「地域医療」といわれる分野に興味をもちました。

 いまだに地域医療は語る人によって意味がさまざまな言葉ではありますが、個人的には運動論だと思っています。
佐久病院を大きくした若月俊一氏の「村で病気とたたかう(1971)」は今もバイブルです。


 まだ今のように総合診療や、家庭医療やプライマリケアというものが確立しておらず、医療の辺縁領域で軽んじられていた時代です。大学での実習だけではなく個人的にも訪ね歩きあちこちの実践を垣間見させてもらいましたが、そのころ「地域医療」とは何かをを真剣に考えていた医師は一癖も二癖もある熱い変わり者が多くて面白かったです。

 そのなかでも特に故村上智彦先生や、今は石巻の長純一先生には学生時代からそれぞれ北海道のせたな町、長野県の川上村に見学に行かせていただき影響をうけました。人に惹かれたというのもあるかもしれません。

 行く先々の大人の人たちに、いいところをみてもらい、可愛がってもらえました。いろいろな経験させてもらったことがありがたかったなと思っています。

梁山泊みたいな佐久病院へ

 大学を卒業したのは初期臨床研修の必修化の前年で、同級生の中では大学に残らず市中病院で研修するのが流行りでした。いまはいろんな初期研修のプログラムができ、大学病院に残る人もふえているのかなあ。

 無料で佐渡ヶ島に行けるというので、後輩といっしょに参加した社会医学セミナー(今考えると社会医学系の学会と厚労省のリクルートでした)に参加しました。そこで農村医療の聖地といわれる佐久総合病院のことを聞き、知り合った洪英在先生と一緒にツテをだどり、そのときはまだ公式にはやっていなかった春休みに見学実習に行かせてもらうことになりました。

 そのときに長先生や色平先生に農村部の診療所や、ちょうど長野市で開催されていた宅幼老所のシンポジウムなんかにつれていってもらいました。介護保険の制度ができてきたころで、今は地域共生型といわれる宅幼老所のはしりである「このゆびとまれの惣万さんが来て、熱気にあふれていました。

 その後もいくつかの病院に見学や面接に生きましたが、結局夏休みにも再度見学にも行った佐久総合病院で初期研修をすることになりました。  学生の宿泊施設(農村医学研修センターや第一、第二八ヶ岳寮)で学生どおしでも語り、飲み会がセッティングされ、いろんなちょっとかわった学生や研修医、上の医師がまざる場になっていて面白かったです。

 いまは再構築で新しい病院にすっかり立て変わり、2ヶ所にわかれて、雰囲気はかわったのかなあ。だけど熱いけど少々変な医師や職員が多く、流れてくる学生や医師、地域住民とともにワイワイやっているのは今もかわってないと思います。


(つづき→塾長とよばれた指導医と弟子たち


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