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塾長と呼ばれた指導医と弟子たち

佐久病院で初期研修医をはじめたときは、紙カルテに紙伝票、ポケベル、そしてエアコンのない古い病棟(北3病棟)でした。職住一体化した忙しさと、職種をこえた家族的なのんびりした雰囲気の同居は今思い出すと懐かしいような不思議な感じもします。

農村部には不釣り合いな巨大な病院

 長野県の東部、南に八ヶ岳と北に浅間山をのぞみ、その間に悠々と流れる千曲川。軽井沢と小諸の間に位置する佐久平は米どころとしても有名で、鯉の養殖が有名です。夏でも冷しく、冬は寒い気候で、東京から新幹線でホームに降り立つと凛とした空気を感じます。

 農村医療・地域医療のメッカとよばれた佐久病院は農協の組合立の病院です。佐久平の南部、かつては天領であったという臼田にあり位置し、農村部にはありえないくらい大きな病院として発展しました。おらほの病院と地域住民にも信頼され、診療所がそのまま多くなったような趣がありました。

 若月俊一先生が来たときは、東京からは高崎から長野に向かう信越本線で碓氷峠を越えて小諸まできて、そこからまた小海線に乗り換えて臼田までいくというはるか遠い道のり。インターネットもない時代です。本当に遠い遠いところに来たという感じだったろうとおもいます。

「村で病気とたたかう(若月俊一)」、「信州に上医あり(南木佳士)」などを読むと、佐久病院の歴史と成り立ちがわかります。農民の暮らしにシンパシーをもち、運動論的展開ができる医療者を育てられる農村医科大学をつくるべく巨大化していった病院でした。

長野新幹線で東京も近くに

 私が大学にいた1998年に開催された長野オリンピックにあわせて長野新幹線が開業して東京は一気に近くなりました。長野新幹線、開業時のキャッチコピーは「東京は長野だ」だったそうです。

 佐久平から新幹線にのれば、診療を少々早く切り上げれば夕方に東京駅近くで開催されるような勉強会や飲み会などに出席して、その日のうちにかえってこれるくらいになりました。

田園地帯が開発され新幹線の駅ができた佐久平駅の周辺には巨大なショッピングモールができ、その後も次々とマンションなどの開発がすすみ人口も増え、新しい小学校ができたくらいです。

古い病棟に忙しさと家族的な雰囲気が同居

 ただ、自分が佐久病院に研修医として来たころは再構築の前で、北病棟や精神科病棟、東西病棟は、かなり古い年季の入った建物で、古い看板もそのまま、遠くから見ると廃墟のようでした。

 東西病棟は7階建ての建物で、6人部屋の狭い病室ばかり、エレベーターが少なく、研修医は走って上り下りしていました。建て増しされた病院は迷宮のようでした。北病棟はエアコンもなく、暑い日には患者さんは37度までは熱ではないという感じでした。

 まだ電子カルテになる前で、医師はポケベルをもち、紙の伝票でオーダーをし、検査結果をカルテに手作業でペタペタはっていました。その後、徐々に、オーダリングシステムから電子カルテへと様々なシステムが導入されていきました。

 日々の仕事や研修は忙しい一方で、厚生連の体育大会、応援団、いろんな部活動や病院際などがあり、地域のお祭である小満祭と一体化した病院祭の後などは「農民とともに」を肩を組んで歌ったり、「巡回健診隊」を連なって歌ったり、職員にも一体感と家族的な空気も同居していました。

塾長と呼ばれた指導医と弟子たち

そんな病院に広域から集った19人の同期と初期研修が始まりました。

卒後初期研修必修化の前年のことで、佐久病院の清水茂文院長の方針で、研修医を呼び集め、指導医、研修医の屋根瓦方式をつくるために、例年以上に大勢の研修医を採用した年でした。

佐久から巣立った研修医が、そのワイルドさと実践重視の姿勢、アカデミズムとはまた一味違った多分野にまたがるネットワークで、行政機関や国際保健などの分野で活躍したり、他の病院や大学などにいってもまた佐久病院にもどりその中核として活躍しているのをみると英断だったのではないでしょうか?

同期だけでもかなり濃い面子があつまり、これだけ人数がいると学校のような雰囲気もあります。塾長とよばれる若手の兄貴分的な指導医がいて、切磋琢磨する楽しい雰囲気ではありました。

研修医教育の中心となった総合診療科の指導する立場の先輩医師たちも、それぞれのアイデンティティと進路に悩んでいました。
(つづく)


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