見出し画像

対話から始める「脱!強度行動障害」

第3回日本こころの安全とケア学会学術集会・総会:教育講演
(2020年12月12日 松本市)


どうぞよろしくお願いします。このテーマについては福祉や教育の現場の方にお話をさせていただいたことはあるのですが、医療関係者のお仲間にお話をさせていただける機会というのは少ないのでとてもうれしいです。

そもそも精神医療って何をしているの?

私は精神科医ですので精神医療に何ができ、何をすべきなのかということに関してずっと考えてきました。結局、何らかの原因で人間社会の枠から様々な形で逸脱しかけた人が、なんとか社会の中で、縁ででも生きていけるように、いろんなところと対話をつづけながらサポートしていく役割というのがしっくり来ます。ただ精神障害者というのは、「支援を受けること自体に支援が必要」だというような定義がありますので、そのあたりにも専門性があるのかなとおもっています。地域での育ちや暮らしを支えるために、多一般の医療、教育、福祉、行政の、ちょうど真ん中くらいの位置にいて、それぞれと繋がって、多職種、多職域と連携し、それぞれの力を引き出しながら伴走したりすることも大事な役目です。決して社会防衛のための看守ではありません。「支援臭」という言葉があるそうですが、そういうものが臭い出すとやばいなと思ったりします。だからこそ、先程の渡辺洋次郎さん講演もそうですけれども、力関係を排したフラットな関係での対話を続けていくということがとても大事になります。

強度行動障害はご存知でしょうか?

さて、皆さんは強度行動障害というものをご存知でしょうか?精神科病院で入院医療に関わられている職種の方はきっとこういう方に出会ったことがあるのではないかとおもいます。強度行動障害はDSM−5やICD−10などの精神疾患の診断基準に載っているような医学的な診断ではありません。自傷や他害、繰り返すパニック、頑固なこだわりなどが持続し、どう関わっていいか困ってしまうような状態のことで、行政的な支援の必要性から生まれてきた行政用語です。もともとの発達特性と、育ちの環境、周囲の関わり方などの要素がからみあっておこりますが、統合失調症などの精神病圏の方よりは中等度以上の知的障害を伴う自閉症の方が主にイメージされるかなと思います。 

強度行動障害に関する全国的な実態調査は少ないのですけど、全国に8000人ぐらいはいるのではないかと言われています。思春期くらいから増えてきて特別支援学校高等部くらいの年代が一番多く、その後、30代になると減少するということもいわれています。高等部では思春期まっただなかで選べることが少なく求められていることが多く負荷がおおいのかとか、30歳をすぎるとひょっとしたらエネルギーがおち、受動、指示待ちでおとなしいから行動性障害も少なくなったということで決して主体的に楽しく生きているというわけじゃない方も多いのかなと思ったりもします。

精神科病院に入院している治療抵抗性の統合失調症の方や、認知症のBPSDの激しい方などとも共通のところもあるのかとおもいますが、どうしようもないので動けなくなるくらいたくさん向精神薬を使って鎮静するしかない、自宅や地域社会で暮らすのは難しいから精神科病院への長期入院や、専門施設での隔離処遇を続けざるをえないのではという声も聞きました。私自身もそれで仕方がないのかなと諦めかけていた時期もあったのですけど、多くの方に関わる中でやはりそれは違うのではと思うようになりました。

 現場で医療のみならず福祉や教育、行政の仲間たちと実践しながら、親や当事者、支援者たちとのいろんな形での対話を繰り返し、SNSを使ってFacebookのグループ(脱!強度行動障害)をつくり、各地の現場での実践されている方にも声をかけて、全国にもつながりを作り学びあい、いろいろ見えてきたところがありますので、本日はそれを皆さんと共有できればと思っています。

 強度行動障害の仮想事例

 まずは、事例を提示させていただいた方がイメージしやすいと思いますので、複数の方のエピソードを合成した仮想事例を紹介させていただきます。成人期になってこじれたケースではこのような経過をたどっている方が多いのでは思います。

<仮想事例>
幼少期より過敏で多動、偏食がつよかった。発語がなく、睡眠リズムが整わず、集団に入れなかった。知的障害と自閉症と診断された。言葉の訓練と、指示に従う子に、まわりに合わせて動ける子にと療育がなされた。
 学校では口頭での随時の指示に終始し、周囲に合わせて動けないと叱責された。おちつかず特定の先生のマンツーマンでの預かりになった。思春期に入っても母と入浴し、就寝も一緒であり、常にリビングを占拠した。リビングで自慰をするようになったが本人の好む女性用のナプキンを親が購入してあてがっていた。出先では小さな女の子に抱きつくため目が離せなかった。特定のオモチャやビデオにこだわるが、落ち着かなくなると破壊、そのたびに親が同じものをネットオークションなどで必死に探して買い与えていた。運動会の季節が近づくと自傷や破壊が頻発するようになった。親は落ち着かなくなると深夜でもドライブに連れて行ってなだめた。 高等部を卒業後、利用できる福祉資源もなく、激しいパニックや自傷行為がつづき、家族だけで抱えられなくなり、精神科病院に入院するが、隔離、拘束で生かすのみの状況。家族は経済的にも苦境で、兄弟の精神状態も不安定な状態である。 


近年は幼少期から適切な関わりがなされるようになってきているので、今後はここまでの状態の方はいないだろうと期待したいところです。幼少期の行動の観察や育てにくさなどから医療機関で自閉症と診断されて、そこから療育や特別支援教育などを使っていかれる方が多いわけですけど、そこで集団に適応させよう、普通に近づけようというようなスパルタ式のトレーニング的な関わり方をすると、親も子どもの可愛いいところをみられなくなります。そして本人は物心が付く前から、否定されるという体験になり人や世界に対する信頼感が得そこねてしまいます。この時期には彼らにとって最も難しい音声の言葉や集団への適応にこだわるよりは、コンディショニングと環境調整、視覚的構造化と絵カードなどで環境と本人との間をつないで対話を続けていくことが重要です。学校などでも本人の興味や動機があるところから、一人でも達成感をもってできる活動を増していく関わりができればよいのですが、配慮のない状態で不安と苦痛と混乱の中で放置されると、当然、だんだん落ち着かなくなってきます。マンツーマンで対応し、力で押さえつけようとしたりするなど、その場しのぎの対応の質の低い預かりになると、力で従えたり、人で遊ぶという誤学習してしまいます。拒否や参加の仕方の選択肢なども示されず、感覚や動機への配慮のないまま、集団活動、例えば運動会などへの参加も苦しい体験となります。ドライブにしても自分でドライブに行けて自分の気持ちをなだめるというのであれば別によいのですが、そこに親や誰かが関わらなければならないなら、それが出来ない時にますます不穏になります。

このような状態で特別支援学校を出たあと、地域の福祉事業所では、こんな大変な人はとても受けられませんといわれてしまいます。こういった方の支援ができる力のある法人のない地域、自立支援協議会が機能していない地域では、家族だけで抱えざるをえない状態となり行き詰まります。その段になってはじめて薬や入院でなんとかしてほしいと親子を助けたい支援者に囲まれて頼まれることが続きました。それまでも医療でも関わってきたはずなのですが、小児科から精神科に移行する時期にあたり関わりが途切れてしまっていたりしました。


  
私と強度行動障害との関わり

私は、長野県の精神科病棟もある総合病院の精神科医として、統合失調症や認知症や依存症などの外来、入院、訪問診療をしていたのですが、徐々に思春期、成人期の発達障害の方、知的障害の方の依頼が増えてくるようになりました。この領域に関しては系統的に学ぶ機会はありませんでしたが、なんとかニーズに応えようと格闘していたときに、先程のようなケースがつづきました。緊急避難的に精神科病院に入院させても、それまでの長い歴史もあり、言葉も使えず、治療といっても難しいものがあります。入院しても本当に大変で病棟の作りや治療構造自体、自閉症向きではなく、スタッフにもノウハウもありません。お薬でもどうにもならず、近づくとメガネをひねって投げられる、噛み付くとか、壁紙全部剥いじゃうとか、スタッフもケガをしたりして、結局、保護室への隔離やベッドへの拘束でのその期間の預かりにならざるを得ない状態でした。入院すると親や地域の支援者は一安心と引いていきますが、病院経営的にも長期の入院は難しく退院を求めざるをえません。県内外の複数の精神科病院や遠方の施設を転々としては、また戻ってきて、自宅に戻ってはまた入院になるというケースが続きました。
そこまで至るまでにこれまで一体どんな関わりがなされてきて、何が足りなかったのか、何がまずかったのか、予防的に、あるいは強度行動障害となった方に対して医療にできることは何かということを知りたいと思いました。ちょうど発達障害の第一人者である本田秀夫先生が信州大学にいらしたので発達診療を学ぼうと馳せ参じました。知的障害を伴わない発達障害などのケースの幼少期からの関わりについては学ぶことができたのですが、知的障害が重度の方や、強度行動障害の方への関わりはできませんでした。地元ではこの領域に関わってきた医師は少なかったため、SNSや学会などを通じて全国に学びをもとめ、県内外の医療、福祉施設にも見学にも行かせていただきました。札幌市自閉症者自立支援センター ゆいさんなどの専門施設では、刺激の調整や、構造化などもなるほどここまでやるのだと驚きました。 本人の側から出発して、押さえつけてということはせずに、淡々と社会と折り合いが届くところというのを探していくことを淡々とやっていました。愛知医療療育総合センター中央病院の専門病棟では地域の中での医療の役割を明確に定めて関わっていました。
福祉領域では障害福祉事業所で行動援護に従事でき、事業所の加算のために必要な資格がとれる「強度行動障害研修」の4日間の研修プログラムがあり全国で実施されています。しかし医療や教育領域での、また、これらの領域をまたいだ対話の場というのはまだまだ少なく今後、SNSや発足した研究会などを通じたつながりが広がっていくことを期待します。 基本的な考え方に関しては“強度行動障害のある人の暮らしを支える(強度行動障害支援者養成研修[基礎研修・実践研修]テキスト)”、“強度行動障害のある人への医療的アプローチ(會田 千重 (編集), 国立病院機構肥前精神医療センター (監修)”などのまとまった本がでておりますので、手に入れて読んでいただければと思いますが、本日はこれらの本にはない視点もお伝えできればと思います。

対話がない中で人権侵害が行き着く先は

 2016年7月の津久井やまゆり園の相模原障害者大量殺傷事件は、衝撃でしたが私は驚きませんでした。今までも社会で、特に施設や精神科病院でしばしば発覚する差別や人権侵害、虐待の延長線上の出来事だと思ったからです。植松聖被告は「意思の疎通が取れないような重い障害者は安楽死させた方が良い。彼らは人々を不幸にするだけだから」という自分の一方的な理屈で大量の障害者を殺傷しました。これを1人のおかしな若者が起こした事件で済ましてはいけない問題でしょう。皆で対話し考えていかなければいけない問題です。
歴史が証明していることですが、人というのは自分が正義と思った時にどれだけでも残酷になれます。親子でも、教師生徒でも、医療者と患者でも、また多数派と少数派でもあります。世の中というのは多数派向けにできていますから、多数派でいるうちは特権的地位にいて困りません。多数派は説明しませんし、少数派の人たちの体験というのは多数派にはなかなかわかりません。少数派の人は多数派の人が楽々できることができていなかったら怠けている、多数派に合わせられないと反抗的であるみたいにいわれ、差別やいじめの被害も起きやすいのです。対話のないままのずれた真面目さというのが一番困ります。そういった人権侵害が行き着く先は戦争でしょう。強度行動障害の方はそんな社会はおかしいと全力で訴えているように思います。人権侵害を最小化するために対話することを諦めてはいけないのだと思います。

発達障害とはなにか、ASDとは何か?

さて、発達障害はDSM5では神経発達症となり、神経発達の多様性であるという考え方になってきています。今の時代の社会向きのスペックではないのかもしれませんが、変動の時代などに人類が集団として生き延びるために必要な特性です。
テンプル・グランディンさんというASDの当事者で動物行動学者の方もおっしゃっていたことですが、すごいざっくり言うと、内なる動物的な感覚が優位なタイプで、大人になってもそれらを強く残している。感覚が特異だったり、行動が特異だったり、そのため社会の適応しにくい部分もあるかもしれないけど、多数派と違うところを見て違う動きをする。いい意味でも子どもっぽさを残している一方、早く大人になれよといわれるタイプですね。リアルタイムでの応答が苦手で、マイペース、基本的な表情の読み取りが苦手で、相手に合わせて忖度するなどは難しいです。本人の変えられない部分は尊重し、対話を継続して、社会の中で生きていけるようにすることが大切です。高機能の自閉症の方たちが自分の体験を語るようになって、ああそういう体験をしていたのかということがわかってくるようになりました。東田直樹さんの「自閉症の僕が飛び跳ねる理由」などは、映画化もされました。

スライド2

1理解を助けるためにこんな図!を作ってみました。系統発生も個体発生も身体・心・頭、こういう順番で発達します。身体とつながり自律神経を司る脳幹部(植物脳)、それを取り囲み感情などを司る大脳旧皮質(動物脳)、その外側にヒトになって発達してきた理屈や言葉を司る大脳新皮質(人間脳)がかぶさっている。新しい脳は意識、その内側は無意識領域と言えるかと思います。自閉スペクトラムの方はこの脳の奥ほうの植物脳、動物脳の働き、反応とか感覚、記憶がすごく強くかったりします。ADHDの方は思ったらすぐに動いてしまう、脳内の繋がりのアンバランスさ、コネクトパチーとして説明されることもあります。

スライド3

ASDの人は多数派の人と違う感覚で、入力、認知様式が違います。例えていうなら多数派の人はスマホのカメラみたいなもので、ちょうど人にピントも合うし、日常生活に便利な画角のカメラで世界をみているようなものです。一方の自閉スペクトラムの方は望遠レンズとか魚眼レンズとか顕微鏡とか、そういう特殊なレンズで生きているというようなイメージかもしれません。見方や感じ方が違うので動機や興味をもつものが多数派と異なり、物事の繋がりや境目の理解も、生きている時間軸、空間軸も異なってきます。それを多数派側から見ると、コミュニケーションの障害とか社会性の障害とか、こだわりが強い、空気が読めないなどと言われてしまいます。多数派にわかりやすい世界で説明されないと理不尽なトラウマ的な体験となることが多く、忘れるのが苦手です。結果として嫌いなものが増えやすく自閉の方向へ行ってしまうということもあります。

スライド4

ADHDの方は多数派の定型的な人とは、行動様式が違います。多数派の人が軽自動車とかコンパクトカーに載っているとしたら、オフロードバイクとかスポーツカーとかそういう車に載っているというイメージかもしれません。このたとえでいうと戦車やトラクター、重機に載っているみたいな人もいるかも知れませんね。ADHDの方は、好奇心で動き、刺激を求めます。危険をかえりみず辺境へ冒険するときや、災害時などの危機的状況であるなら活かせるのですが、退屈な日常の中で繰り返しの単純作業などではミスや不注意が目立ってしまいます。退屈なところにおかれると、自分から刺激を求めてぶち壊してしまうこともあります。

スライド5


発達障害の理解には動機や志向性に着目したこんな見方も参考になるかなと思います。人が動く理由は基本的には不快なことから逃れるのか、快を求めて動くということのどっちかしかありません。生活臨床では、イロ、カネ、メンツといった志向性として人のタイプを分類しました。私はこれらを拡張して、よりプリミティブな動機として、感覚に浸るとか、体動かすのが好き、新しいものへの興味とか、困っている人がいるとほっとけない、注目されるのが好きみたいな動機も志向性に加えて考えるのではよいのではないかと思います。不快から逃れるというモチベーションに関してですが、これも死や恥、罰なども感じ方も異なりピンと来なかったり、強く感じ過ぎたりする方もいます。どのくらいの閾値で動き出すかというのも人によって全然違うと思いますし、自分なりに体験して納得しならすすみたいのがASDの方です。

スライド6

インプットと情報処理、アウトプットにわけて整理して考えるのも参考になるかとおもいます。ASDの方は見えすぎているかもしれない、聞こえすぎているかもしれない。「木をみて森を見ず」で、ものごとの区切りや、繋がりが分かってないかもしれない、情報処理も追いつかず混乱しているかもしれない。自分の感情を拾い上げて言語等で表現するのが困難で、助けてと言っていいと思えていないかもしれないとか、拒否権がそもそも示されていないからもう暴れるか、黙ってしまって固まってしまうかしかないかもしれないみたいなアセスメントをしていくということですね。

問題行動は問題提起行動である。

スライド7


支援の業界では「困った人は困っている人」といわれます。これを門眞一郎先生は、「問題行動は問題提起行動」とおっしゃっています。苦しい状況で自分も状況が分からず解決できないから、自傷や他害になったり、荒れるとか、あるいは固まって動かなくなるという形で表現するしかなくなります。頭が痛い、お腹が痛いというような身体化症状、抑うつや強迫などの精神症状などを経て、絵カードや筆談、音声言語などでやり取りをして、愚痴を言ったり、援助希求ができたり、対話による解決できるようになっていくというプロセスを応援していくということこそが、支援の基本かとおもいます。
薬物療法では感覚の過敏さをとったり、衝動性を抑えたりすることは出来ますし、本人が治めるしかない怒り、つまり八つ当たりなどには多少効きます。一方で周囲の都合でお薬を増やして鎮静したり(化学的拘束)、本人が全てを諦める状態まで叱責や放置したり(学習性無気力状態)すれば、スコア上は強度行動障害ではなくなりますが、本人のQOL(生活の質)の向上が伴っていないと意味がありません。不安と苦痛と混乱の中で放置せず、きちんと安心で快適で見通しも持って、分かるよう環境を整え、選択肢などの情報提供し、自分で選んだ行動の結果を引き受けられるようにし、感情を一緒に整理し、適切な行動を増やしていけるように応援していく。そういうことが大事であると分かっていただけるかと思います。

スライド8

 強度行動障害を読み解いていくためには応用行動分析(ABA)をもちいた行動の機能分析の視点、トラウマの視点の両方からみていくことが必要になります。
応用行動分析(ABA)は多くのASDの支援技法のベースになる理論です。行動の原因を、発達や認知・思考、特性といった個人の内面に求めるのではなく、環境要因との相互関係から考えていきます。ABC分析というものを行い行動の前後、先行条件と行動の結果に注目します。行動の後に本人にとっていいことが起こるとその行動が増え(強化といいます)、嫌なことがあると減ると考えます。そして行動が、獲得、逃避、感覚、注目のどの機能にあてはまるかを分析します。不適切な行動は、同等の機能をもつ他の行動に置き換えていくということですね。多くはコミュニケーションを教えて対話的な解決ができるようになることを目標にします。その際、本人にとっての行動を強化するもの、強化子といいますが、モチベーションが大事となります。

スライド10

 トラウマに関しては長崎大学の今村明先生の「こころの発達の五重塔モデル」が行動障害や二次障害の理解の助けになります。元々の発達特性があって、その上に特定の他者との絆(愛着)形成の問題、トラウマの影響、パーソナリティ形成があり、最後にこころの問題がでてくると考えられています。不条理な体験をするとトラウマ体験となり、記憶に刻まれます。ささいなトリガーでその影響による感情や認知の問題がでてきます。発達の段階でのキズやヌケがあるのであれば、キズを癒し、安心感や信頼感のもとで獲得し損ねたものを再度獲得しなおして積み上げていくような関わりをしていくことが必要になることが分かると思います。


主体的、対話的であるということ

さて、幸福とはきわめて個人的なもので、どこで、だれと、何をして生きるかということはその人固有の権利です。一方でそれは他の人にとっても同じですので多数の人が時間や空間を共有する人間社会の中で、自分もOK,相手もOKの居場所や役割をみつけて生きていけることが大事です。そこで大事なのは主体的、対話的であるということです。主体的というのは、自分を大事にすること、一方、対話的というのは、相手を尊重するということです。自分との対話を通じて自分を知り、他者との対話を通じて世界をしり、どこで、だれと、何をして生きていくのか世界の中に自分を位置づけていくことが求められます。

 対話のためにはそれぞれの入力と出力のチャンネルを合わせ、共通の言語を用いて双方向でやりとりする必要があります。相手を変えようとするのではなくて、力関係のない人として対等なところで、まずはそれぞれの主観、体験、考えなどお互いの見えないところを見せあうことが大切です。
ASDの方は視覚優位で絵で考えますので第一言語は音声言語ではなく視覚的なやり取りです。知的障害がないASDの方でも電話は苦手な方が多く筆談やメールなどのやり取りを好むようです。とにかく何でも視覚的に見える形で示し伝えていくのが原則です。ここの場所はこういう理由で、こういうことをする場所だよとか、時間の流れとか空間なんかもカレンダーやスケジュールで見えるようにしていく。一方で不必要な視覚刺激に関しては見えないようにするということも必要です。ただこれだけだと、一方通行です。ストラクチャーやスケジュールを作っても、それが本人の納得のないまま周囲が一方的に決めたものならば、それは構造化の檻であり、命令書にすぎません。本人の側から拒否や要求、選択ができなければ対話にならず、結果として仕方なく暴れるか、動かないという形の表出になり行動障害といわれてしまうわけです。本人が見通しをもて、やりとりして選んだ活動を納得してやれるようになるとぐっと落ち着いてきます。PECSは絵カードをつかって段階をおって自発や表出性のコミュニケーションを教える優れた方法です。また、おめめどう®のコミュメモ®や巻カレンダー®、タブレット端末などの拡大代替コミュニケーションのツール(AAC)つかって対話が続けられることが大切です。自発や要求から、対話を繰り返すことで徐々に応答や情動調整もできるようになってきます。

スライド11

好きなもの、出来ることが増えていくような関わりを

また、ASDの方は自分の身体感覚や感情をうまく拾ってということが相対的に苦手な方で、疲れたという感覚がわからないとか、力の抜き方がわからないみたいなことをおっしゃる方も多いです。感情に関しては例えばイライラといったような不快だけど未分化で言語化できない状況は、気温や気圧などの外的要因、生理や体調不良、寂しかった、傷ついていた、辛かったのだというようなことから来ていたりします。そういった自分の体調や感情に気づき、できれば言語化して表出できるようにしていくということが大事になってきます。
こういった力を育てるには感情に関しても、行動に対しても周囲の人が選択肢付きで丁寧に聞いて選んでもらうということを繰り返していくことが必要です。本人が好きなもの、人、場所を核に、そっと本人が選べる形で様々な活動、人、場所を提案していく。また好きなものをご褒美(報酬)として、課題(提案)を2段階のスケジュールとして並べて選んでもらうなどで好きなものと出来ることを増やしていく関わりです。そういったやり取りをするためにもスケジュールやカレンダーなどの時間軸が目に見える形で示されていることの大切さがわかると思います。こういったことを続けることで自分がどういうことが好きで、何が嫌で、何ができるのか自分で分かってきます。

 さらに主体を育てるためには、境界線(バウンダリー)を意識する。ASDの方の側からその境界線は分かりにくいので、親や支援者、周囲の人の側からわかりやすい形で明確に示し、尊重することが大事になってきます。親子なんかもそうですけど、ずっと子供扱いしていて、親が先回りして決めて手出しをしてしまう、気持ちを察して代行する、本人に決めさせないなどの主体を奪う関わりをしていると主体性は育ちません。例え障害があっても親離れ子離れをおこない、社会の中で生きていくことが青年期の課題です。親離れをしたいのに出来ない、阻害されているというのも行動障害の原因になると考えています。

スライド15


特に思春期以降は自由と責任をセットで本人にどんどん移譲していくことが重要になってきます。10代の10年かけてというくらいのイメージが良いかと思います。知的障害があっても実年齢と性を尊重されているか、自分の部屋などのスペース、時間の使い方、お金や気持ちがきちんと分けられており尊重されているか、本人が自分で選んで行動したことの結果はきちんと本人に戻るようにしているか。そして他者と自由と自由がぶつかったときは対話をつづけ、双方が合意したものをルールにして、ルールを守ることで本人の自由も守られるのだということを実感してもらうことが大切になります。

スライド14

主体的に自分の本性に合った生き方、身体も楽で、こころは楽しい生き方をもとめ、頭を使って他者と対話をして自分の居場所や他者との距離感を選んで生きられるようになるといいのだとおもいます。一方で右側のように人から押しつけられた価値観や言葉で自分の心と体が縛られ、身体とこころを押し殺していると、過労死や過労自殺につながるような様々な精神疾患、また他者へのいじめ、虐待などの原因になります。

宍戸大裕監督の「道草」というドキュメンタリー映画をご覧になられた方はいるでしょうか。重度知的障害や自閉症がある、虐待をうけたりもした強度行動障害の方4名と家族、支援者を追いかけたもので、支援付きで一人暮らしをする様子を追いかけたドキュメンタリー映画です。視覚的なやり取りなど支援技法に関してはものたりないところはあるのですが、支援者と当事者は人間臭く、対等に付き合い、支援者が地域の人との間に入り悩みながら、地域の中で生活している様子にとても感銘をうけました。

最後に自分が好きな戦う哲学者の中島義道の言葉を紹介させていただきます。「人を見ていると、好きなことをしている人は、人間的に柔らかくて、とても気持ちがいい。一方満ち足りていない人は、他人に危害を加えるんですよ」とおっしゃっています。支援する側も自分に余裕がないと、相手のことを見て聞いて待って、じっくり対話をしながらやっていくことが難しくなります。余暇活動なども充実し楽しく生きており、その上で驚きをもって当事者と付き合える人が増えればと思います。そういう人たちが本人を尊重し対話をつづけていくことで初めて社会として強度行動障害を脱する事ができのだと思います。対話の総量を増やし、苦しい、助けてと言える世の中にしていきたいものです。

(COI:なし)



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?