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余暇活動こそ本質活動

三つ子のタマシイ百まで

思えば私の祖父母はみな陶芸や習字、お茶、旅行、絵やレース編みなど手芸を嗜む趣味人で、世間からはどこか距離をとりながら生きていた人だった。特に母方の祖父は眼科医師であったが、踊りや陶芸、俳句などを嗜む今思うとちょっと変わった人だった。私はというと、幼少期、その祖父がキャッチボールをしようと誘ってものってこず、しゃがみ込みアリをずっとみていた少年だったそうだ。幼稚園のころは、そんな祖父と陶芸をしたり、絵を書いたり、工作したりして過ごしていた。小学生時代は漫画家の藤子不二雄や鳥山明が好きで、友人と漫画を描いて見せあったりしていた。集団の中での自己主張が強すぎていじめられかけたこともあり、心配した親に合気道の道場に一瞬だけ通わされていたが、ひたすら受け身をとる練習をしていたことしか覚えていない。
また父の碁の相手にと駅前の碁の教室に通わされていたが、そこで覚えているのは相手の年上の男性の口がやたら臭かったのと、囲碁教室のイベントで島にキャンプにでかけて飯盒炊飯であたためたボンカレーを食べたことだ。水泳や英会話やピアノも一応習ったことはあるものの、どれも長くは続けられなかった。あと、どういうきっかけだったか思い出せないが地元の文化センターの主催する天文教室に通い天文や写真に親しんだ。とはいえ、これらが大学のサークルの選択にもつながったのだからいろいろやっておくものではある。三つ子のタマシイ百までというが、いろんなものに手を出しつつも長続きしない飽きっぽさは今も変わらないなあとつくづく思う。


様々な体験を通じて自分と世界を知っていく

中学に入ったときに違う自分に出会えるかと、向いていないからやめとけという周囲の反対を押し切って野球部に入ってみた。それはそれで楽しかったのだけれど、やはりボールが上手く投げられず、体の使い方は下手だったため、親と顧問に頭を下げゴメンナサイと1年で撤退しマイコン部に変わった。やりたいならばと挑戦させてくれた親には感謝している。その後は毎日通学のバスの中で友人たちとトランプゲームに興じ(大富豪やセブンブリッジ)、試験が終わるとゲーセンに集い、ストリートファイターⅡなどの格闘ゲームに興じた。MSXやPC9801というパソコンでしょぼいゲームをつくりあった。月刊誌に載っていたリストを手打ちしては改造したりしていた時代のことである。またと休み時間には当時ブームだった早押しクイズに興じ、テレビ局の主催するクイズ大会の予選に出かけたりもした。中学のときは3年間クラスメートが変わらず、担任が自分のことを「提督」と呼ばせる歴史好きのマニアックかつリベラルな先生で生徒たちの良いところを見てくれていたこともあり、中学時代は楽しい思い出が多く、その頃の先生や友人とはいまだに集まったりしている。

高校は遠方の進学校の男子校を受験しうっかり受かってしまったため、実家を離れて寮に入り、途中からは親戚の力をかりつつ一人暮らしをしていた。この時期に親から離れて物理的な距離がとれたのは良かったとおもう。高校には悪いことをしている奴らも、恐ろしいほど頭のいいヤツもいた。気の合う友人と思いつきで友人と琵琶湖を自転車で一周(途中で野宿)したり、高校生クイズに出たり、青春18切符で寄り道しながら帰省したりして楽しかった。一応ESS(英語部)に所属はしていたが、あまり活動はしなかった。歴史小説を読むことを世界史の勉強だとうそぶき、バランスの悪い勉強法で初年度の受験は失敗、翌年も複雑な数学の問題での計算ミスは最後までどうにもならなかったけれど、なんとか希望する大学に入りこんだ。親や親戚には医師が多く、医学部以外にいくほうが、エネルギーがいったので医学部進学は消極的な選択だったが、今となってみれば、どんな進路をとってもきっと似たようなことをやっていたのではないかと思う。


サークルで仲間づくりや自治を学んだ

当時の医学生の多くは医学部の体育会系の部に所属してスポーツに励んでいた。そうでないと先輩からの様々な情報が入ってこなかったので、一応一番ぬるかった水泳部に一応所属した。健康目的で泳ぎ、温水プールや採暖室で雑談するみたいな雰囲気がすきだったのだが、ひとつ下に国体に出たような後輩がすっかり体育会系の部に変えてしまったので居づらくなってやめてしまった。掛け持ちしていた全学の天文同好会の活動に打ち込んだ。こちらは毎週の例会のあと喫茶店でだべり、やすい居酒屋での飲み会になだれこみ、社会人のOBや研究室から出てきたいろんな分野の先輩の話を聞くのが楽しみだった。天体観望や野山の鳥、植物をみたり写真をとったり、麻雀やギターなども教わった。学園祭では手作りのプラネタリウムを上映し、夏休みに2週間廃校を借り切った合宿をおこなった。年に何回か酪農地帯で公民館を借りきる変わりに、地域の子どもたちを招いて星を見る会を開催していた。星を見る会といってもクリスマスはケーキをつくったりスライドショーをしたりするなどのクリスマス会だ。そこの先輩や後輩とは夏山の縦走登山をしたり、自転車にテントや荷物一式をもってツーリングをしたりした。インターネットの黎明期でホームページを競ってつくりあっていた。随分といろいろな趣味や楽しみを分けてもらったと思う。また医療問題研究会というサークルでは自分たちで企画してタイにスタディツアーに行ったのもいい経験であった。


生活者としての実感が今ひとつ持てないというコンプレックス

医学部というのは実は医師養成の専門学校みたいなものだ。自分はカッコいいバリバリの臨床医や基礎医学の研究者というより、広い視点から社会をみる公衆衛生そして、社会運動にずっと興味があった。一方で生活者としての実感が今ひとつ持てないというコンプレックスを常に感じていたこともあり、医療を武器にドロドロの生活者の現場に近づきたいという思いもあった。5年生、6年生のころはさまざまなツテを頼って公衆衛生を担う行政職の医師が主催する社会医学のセミナーに参加したり、様々な地域医療の現場に行かせてもらった。地域住民とともにフットワーク軽く地域の健康に必要なことは何でも実践している様子を垣間見せてもらったりした。医師とは生活者のそばにいながら、どこか浮世離れしたところが無いと出来ない職業であり、生物学にも心理学にも、社会学などの知見を活かしつつ実践できる医学の幅広さと奥深さを知った。これなら自分でも飽きずにできるかもしれない、やってみたいと思った。


壁にぶつかった医師の駆け出しの頃

初期臨床研修では優秀な同期の研修医と比べてもテキパキとは動けず、特に手技がうまくできなかった。また共感性の強さゆえ一人の患者さんに入れ込んでしまうところもあり、力のない自分を恨んだ。要領よく病棟を回診したり、マルチタスクがこなせず疲れ果てた。。何度かうつ状態になり、そのたびに良いところをみていてくれる他職種や先輩医師に救われた。結局、多職種チームでかかわるリハビリテーション科を専攻し、地域での車椅子生活者の会にリハのスタッフとともに出入りして一緒にイベントをやったり、障害のある方に付き添って旅行についていったりした。そういうことをどんどんやれと言ってくれる病院もよかったとおもう。中途障害の患者さんがうつになったり、高次脳機能障害の方の社会復帰が苦労したりするのに関わったことで、リカバリーという概念を知った。見えない障害を主にしていきたいと精神科に専門を変わった。
どれもいまひとつ徹底せず中途半端だったけれど、様々な分野を渡り歩いた経験を活かして身体疾患、身体障害、精神障害の重複障害や、認知症の初期から在宅での看取、精神障害の地域支援などに取り組んだ。その間、育児との両立で破綻しかけたり、治療や支援においては自分の力及ばずに悩んだりしだこともあったが、家族や患者さんや親の会や当事者会の方々に仲間として助けてもらい、徐々に発達障害や知的障害の方の相談をうけることが多くなった。あらためて児童精神医学を学び、今は主に子ども若者と親をサポートする精神科臨床をやっている。積極的に自分で選んできたわけではないが、頼まれたことで自分ができることをやってきたらたどり着いた場所である。


すべての子ども若者に多様な経験と選択肢を

こうして振り返ると、自分は幼少期から青年期に至るまで色んな経験をさせてもらえる機会に恵まれ、多くの大人や仲間に助けられてきたのだとつくづく思う。そうした自分の経験と診療で出会う子どもや若者たちを通じて思うことは、だれもに、幼少期には安全、安心して子どもらしく過ごせる環境、好きなこと出来ることを増やしていけるような育ちの環境を、そして青年期には伴走者とともに様々な体験の中で自分と社会を知る試行錯誤ができる環境を社会として保証することが必要だということである。
よくも悪くも「自分」とは、他者との対話や交流を通じて形作られる。そしてそれらの体験を通じて楽しみや社会における自らの役割や、能力を発揮できる場を見つけることができる。今の自分のテーマは、医療の立場からこれらの機会を奪われがちな子どもや、若者たち、特に貧困や障害のある子どもたちにそれを保証することである。その手段として家庭と学校や職場以外のいわゆるサードプレイスを充実させていくことが必要である。ヨーロッパのユースワークやユースセンターなどにもヒントがあるだろう。
新型コロナウィルスの流行で、行動様式を変えることが求められ先の見えない時代となった。こういった状況の中、医師の診察室の中だけでできることというのは本当に限られている。仲間とともにネットワークをつくって、オンラインのツールも活用して対話の場を増やし、文化にし、だれ一人仲間はずれにせず、それぞれの幸福追求ができる地域社会をつくっていきたい。そして自分も他者も大事にし、自分の未来は選べる、自分の人生は自分で選んだと思って生きている人が増えるならば、これほどうれしいことはない。



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