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ショセッツ

 小説を書き始めた頃、自分にはすごい才能があるように思えてならなかった。
 それは読みかじったプロの文体を真似て、ボロが出ない程度の字数で収めていたからだ。むろん、単話完結だ。

 いい気分だった。

 しかし調子に乗って数万字、あるいは数話を書こうとすると、これがぜんぜん書けない。まったくもって書けなかったが、この時点ではまだ、自分の文章力に疑問は持っていなかった。単に、自分には計画性がないから書けないのだと思っていた。(単に、計画性もない)

 苦手なりに改善しようと思い、プロットを組んでから話を書くようになっていった。(当然だが)話に筋道ができるようになり、自分の文体に目が行くようになった頃。私は文章を読み返すたびに謎の倦怠感を覚えるようになった。
 読み返すことが苦痛で仕方がなかった。目より先に手が肥えることはないとはよく言ったもので、プロ、セミプロの小説に慣れた目で見る私の文章というのはボロ雑巾のミルフィーユに巣食う蝿の群れのようであり、要するに価値がなかった。
 
 文体の猿真似に終始したものだから、プロがその文体を用いて何を描いているのかを学んでいない。そんな文章では情景は浮かばず、キャラクターの感情は錆びついていて、そもそも何を描きたくて書いているのかが分からない。
 それもそのはず、真似をすること自体が気持ちよかったのだから、本質的に何を描きたいという主旨がない。
 ネット小説などを読んで『なんだよこの文章は』と思うことがしばしばあったが、私の文章にはそれが倍ほどもあって、私は彼らの遥か手前で野次を飛ばしているだけの未進化のサルだったことに気づく。

 私はここから、せめて類人猿として死ぬるべく、今日も本を読んだりするのだ。

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