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他人の自傷を裁くな。


先日姉から、HSP(人一倍繊細な人)診断と共に

「私そんなのあるなんて知らなかった……繊細な人っているんだね〜。」

というLINEが届いていた。

私は以前からHSPという言葉があることを知っていたし、最近では本屋でも大々的に取り上げられているのをよく見るので、もう当たり前のように浸透している言葉だと思っていた分、少し面食らった。

しかし、よく考えたら普通に生きていたら知る由もないだろうし知らないのが当たり前だと思う。

だけど、こういう問題は勿論繊細な人が知ることも大事だろうけれど、それよりもっと、普通に生きていくエネルギーのある人こそ知るべきだと強く思った。

そこで、ほんの微力ではあるけれど少しでも繊細な人が生きやすくなるように、敢えて「繊細さ」を語る上では切っては切れないであろう「自傷」というセンシティブな話題について触れてみようと思う。


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自傷行為とはなんだろう。

リストカットをすること?自分を自分の手で自ら傷付けること?


少し、というかだいぶ触れにくくて、その気まづさから出来れば黙って目を逸らしたい言葉だろう。

だけど、決して日常から飛躍している話でもなんでもなくて、本当に身近な話なのだ。

例えそれが、目に止まらなかったとしても。


実際私の周りでも思い出せば何人も居たし、気付くこともあったし、その胸の内をそっと打ち明けられたことだってある。

刃物で手首や脚を傷付けるリストカットやアームカットもそう、髪の毛を抜いてしまう事も、薬を飲みすぎてしまうことも食べ過ぎることも食べなさ過ぎることだってそう。

本人達は苦しくて、辞めた方がいいのが痛い程分かっている癖に、九割の後悔より一割の胸の晴れや、偽りの多幸感が忘れられないから抜け出せないのだ。

「そんな無駄なことやめなよ。親にもらった体を傷つけちゃダメだよ。」

そう言われて「ですよね!明日から辞めます!」

と言える程、簡単じゃないからこそ苦しいのだ。


思うに自傷と言うものは、こうしたから自傷行為!などという定義は決して無くて、その行為が心に空いた虚しさや淋しさから目を背ける為の目的だったり、心に張った薄い靄のようなものから目を瞑って無理矢理散らそうとしているならそれは自分を傷つけている行為だと言えると思う。


だからきっと、つい下ネタ扱いされてしまうような、不特定多数と関係を持つような人や、所謂パパ活と称してネットで知り合った倍の歳もあるような大人と関係を持ってしまう人も、その根底がお金や欲では無く、寂しさや侘しさから引き起こされた事ならば、それも広く言えば自傷行為だと言えるのかもしれない。


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ただ、意外かもしれないけれど実際自分を傷つけてしまうような人は、誰よりも気遣いができる人が多いからその弱さも脆さも全て、上手に包み隠してしまうことが多いのかもしれない。


それは、インターネットでよく言われているような所謂「メンヘラ」(私はこの言葉がとても嫌いです。繊細な部類の人間をこんなに雑な言葉で片付けていいはずがない。)と呼ばれるような人達が、薬の写真や手首の傷の写真を上げるような分かりやすい「自傷行為」のイメージとはまるで違った、本当に見た感じはとても明るく、ごく普通であり、何なら溌剌と元気そうにさえ見える人達がその笑顔の裏で実は苦しんでいる事が多い。


「苦しかったなら言ってくれたら良かったのに。」
「信用されていなかった様で悲しい。」


そう、言いたいかもしれない。

だけど信用していて、大切だからこそ言いたくないことだってあるのだ。


「余計な心配を掛けたくない。」
「迷惑を掛けたくない。心配掛けたくない。」


誰も、貴方を信用していなかったからでも、ましてや傷つけたかったからでも無いのだ。

こういう事実を、考え方を、どうかほんの少しだけでもいいから理解して欲しい。


自傷に走ってしまう人はその優しさ故に他者ではなく、自分に対して罰を下してしまう。


迷惑を掛けたくなくて、塗り固めた笑顔の裏で溜まってしまった罪悪感や寂しさを、他者ではなく自らに制裁を下すことで少しでも自分を受け入れようともがき苦しんでいるのだ。


前に女子高生がリストカットをして、たまたま切りどころが悪く、救急車に運ばれるまで行った際に「死にたくない」と泣き叫んでいた話を聞いたことがある。


「死にたい」筈なのに「死にたくない?」

そう、きっと首を傾げてしまうだろう。


また、自らを傷つけ、苦しみ悶える姿は、到底理解できないだろうし、今すぐその手を止め、強い言葉で叱咤し普通の道に正してやりたい気持ちもよく分かる。


しかし、本人はきっと方法は不器用であっても、その心の痛みを分かりやすく可視化し、少しでも受け入れようとしているのだろう。


まず、それを知って欲しい。

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しかし、このまま自傷行為を放任し、止めないわけにもいかない。それでは、どうしたらいいか。


これが今回の本題だろう。


まず、気付かれた時点で本人は平気そうにしているかもしれないが、全く持って平気ではないことのほうが多いことを知ってほしい。


当たり前だ。


今まで両手に抱え込んでいた、人に見られたくない一番の秘密をふとした瞬間に散りばめてしまったのだから。


その不安定な状態で

「もう二度と辞めなさい。」


などと言われたら、それはもう自分の好きになれなかった弱い部分をまるごと全て否定されたように感じてしまうだろうから、絶対にいけない。

貴方の

「はやく普通にさせたい」

や、

「私の言葉で説得し、治してあげたい」 


は一見美しい愛にもみえるかもしれないが、残念ながらそれは一方的な驕りに過ぎす、本人を余計に苦しめてしまう。


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では、どうしたら良いのか。

答えは簡単だ。「大丈夫だよ。」と言ってあげるだけで良い。


それだけ?


拍子抜けてしまうかもしれない。だけど、本当にそれだけで良いのだ。


自傷してしまう人は、他人を裁くより自身を厳しく裁いてしまう。


人は、自分が自ら経験したことしか学べないらしい。

という事は、最初から自身を愛するという事に長けている人はある種、かけがえのない豊かな才能の持ち主でもあるだろう。


それを、理解できない、分からないからと言って相手を気ままに裁く方向に舵を切ってはいけない。

むしろその豊かな才能を持って、自分を愛せない人に愛するという事、そのものを教えてあげて欲しい。


「大丈夫だよ。大丈夫だから。」


それだけで良い。


自分を信じられず、傷つけてしまう人はその迷いの中、必至ににもがき、苦しんでいる。


その道筋も方法も酷く拙く、不器用に見え、器用な貴方にとっては今すぐ強引にその手を引っ張ってあげたくなるだろう。


しかし、自分を傷つけてしまう人がその苦しみの渦中で掴んだものは、いつか必ず至上の優しさとなって、誰かを救うはずなのだ。必ず。


だから、未来の誰かの為に今、苦しみを自らもって体験している人を裁き、自分の思う通りにさせようとしては行けない。


ただ受け止め、その全てを貴方の愛で持って抱きしめてあげて欲しい。


「大丈夫だよ。大丈夫だから。」


ずっと隠してきた弱くてかっこ悪い自分を見つけられたとしても否定されず、むしろその全てで持って受け入れられたという体験。

そのままの自分でいいのだと受容された経験。


それは迷い続けた、明かりもない真っ暗な暗闇の中に、一筋の光が差し込むような感覚と同じだろう。


他人の心の傷を、弱さを、繊細さを、自分の価値観でもって裁かないで欲しい。


そして、これを読んだのなら少しでも、世の中にはこんな考え方もあるんだという事を知って、


自身を愛するという豊かな財産を周りの人に与えて欲しい。

きっと、貴方の小さな一歩で確実に世界は変わるはずだから。


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