2022第1回羽黒山歴史探訪を開催しました②
2022年10月8日(土)に、講師に出羽三山歴史博物館学芸員の渡部幸さんをお招きし、第1回羽黒山歴史探訪を開催いたしました。
今回のテーマは「羽黒山と庄内藩の増川山境界をたずねる」。渡部幸さんによる案内のもと、羽黒山の五水八石のひとつである「船石」(ふないし)「金剛石」(こんごういし)といった、かつて庄内藩との境界を表していた史跡を訪ねます。さらに手向宿坊街を探索し、隠れた史跡を訪ね、昼食は羽黒山斎館にて精進料理をいただきます。当日は約10人でバスに乗っていでは文化記念館を出発しました。
第1回歴史探訪②
荒澤寺 野口女人道・傘骨周辺
船石、金剛石と回った後は反対側の方に回り、野口(のぐち)に向かいました。野口は羽黒山と月山の境界で荒澤寺(こうたくじ)の奥にあり、羽黒山側から月山へ向かう道の入口である「羽黒山口」です。月山に登拝するための8つの登り口である「八方七口」(注1)の一つです。
羽黒山の参拝自体は女人禁制ではなく、むしろ女性の参詣は盛んでした。しかしながら羽黒山の中でも荒澤寺は女人禁制だったため、女性が羽黒山へ参詣する際は荒澤寺の女人禁制の場所を通らないようにしなければいけませんでした。そのために、この野口周辺に女人道が作られたのです。*¹
野口から月山公園線を少し月山側へ行ったところは、月山の半合目である傘骨(からかさぼね)です。現在は羽黒山頂へと続く神路大橋(かみじおおはし)や庄内平野、日本海まで見ることができる、地元の人が知る絶景のスポットの1つです。
ここにはかつて、羽黒山の登山口から月山山頂へ続く道にはいくつもの掛小屋(かけごや)が建っており、ここでは冷たい湧き水を使ったそうめん・ところてんが名物でした。
破尺堂
羽黒山の方へ戻り、羽黒山頂へと向かっていきます。途中の破尺堂(はしゃくどう)へと歩きます。破尺堂別当所墓地を訪ねました。破尺堂方面は道の左右に清僧衆徒や、地元に帰らず羽黒山に残った宮司の墓地があります。
江戸時代初期の羽黒山中興の祖・天宥(注5)別当は現在の須賀の滝(五重塔付近にある滝)を人工的に作ったことでも有名ですが、その作り方として、須賀の滝がある祓川(はらいがわ)から約8キロ離れた水呑沢(みずのみさわ)から堰を作って水を落としました。この水路と、先ほどの野口の女人道を作った際の土地や、各寺にあった墓地を破尺堂に移すなどの時の土地がいずれも庄内藩領に食い込んでいると、羽黒山側と庄内藩側で境界争いが起こっていました。境界争いが起こっていた時から少し先に幕府が諸藩や寺社領へ朱印状を下付(かふ)する予定だったので、羽黒山側・庄内藩側どちらも境界を明らかにする必要があったのです。*¹
山頂
羽黒山の山頂へ移動し、山頂にある建造物を廻りました。この橋は現在羽黒山レストハウスの裏(第2駐車場側)にあるものですが、渡部幸さんの説明によると元々はここにはなかったといいます。本来は随神門からさらに麓へ向かう際の手向(とうげ)の中にあり*²、道路整備などの都合上、羽黒山山頂に移されました。
世界大戦時には日本全国の金属が金属類回収令で供出されました。それは羽黒山も例外ではありませんでした。しかし、この鐘は金属類回収令による供出対象ではなかったようです。それは、この鐘が建治元年(1275年)に建立されたことが理由で、鎌倉時代以前のものについては金属類の供出がなされなかったためです。そのため、今でもこうして大鐘が現存しているのです。
羽黒山と庄内藩は元は藩主の息子を取子(注6)とするほど親密な関係にありました。しかしながら、初代庄内藩主である酒井忠勝の弟・酒井忠重(さかいただしげ)の圧政に耐えかねて起こった「白岩百姓一揆」(注7)をきっかけに、羽黒山と庄内藩は険悪な仲になっていきます。
そんな険悪な仲になってしまった羽黒山と庄内藩ですが、天宥が天海僧正(注8)に師事し、幕府の後ろ盾があることをアピールするために日光東照宮を勧請しようとした際には協力しあいました。酒井家始祖・酒井忠次から徳川家に重臣として仕えてきた(注9)ために、日光東照宮に祀られる東照大権現(徳川家康)を崇拝していたため、日光東照宮を勧請することは大変名誉なことだったのです。現在の東照社は第4代庄内藩主・酒井忠真(さかいただざね)が元禄3年(1690年)に建造しました。
この東照社ですが、羽黒山表参道(石段)から見て、三神合祭殿(本殿)よりも奥に建造させたのは、庄内藩の人間が東照社に参拝する際、本殿に頭を下げさせてから(つまり羽黒山が庄内藩よりも上であるという意識を持たせてから)訪問させるようにしたかったからではないかと渡部幸さんは言います。ここにも羽黒山側(天宥)が庄内藩に対してどんなイメージを持っていたのかが感じられますね。
脚注と参考文献
脚注
注1 八方七口(はっぽうななくち)*³:月山に登拝するための八つの登り口。かつてはそれぞれの登り口に寺院や宿坊街がありました。羽黒山の荒澤口(あらさわぐち):羽黒口、阿吽院(あうんいん):肘折口(ひじおりぐち)、日月寺(にちがつじ):岩根沢口(いわねさわぐち)、注連寺(ちゅうれんじ):七五三掛口(しめかけぐち)、大日坊(だいにちぼう):大網口(おおあみぐち)、大日寺(だいにちじ):大井沢口(おおいさわぐち)、本道寺(ほんどうじ):本道寺口(ほんどうじぐち)、照光寺(しょうこうじ):川代口(かわだいぐち)。川代口は羽黒山を経由せずに湯殿山へ向かう可能性があるため、それを避けるために天宥によって寛永年間に閉鎖された。七方八口*⁴とも言われ、七五三掛口と大網口は同じ大網にあったことから、七方(七口)となった。
注2 山伏修行については女性は禁じられており、開山1400年を機に1993年に荒澤寺は参拝客の3分の2が女性であったことなどを受け、女性の山伏修行を解禁した。
注3 覚諄(かくじゅん):羽黒山第75代別当。江戸時代後期の僧。開祖蜂子皇子(能徐)に菩薩号を宣下されたいと願い出て、能除(蜂子皇子)に「照見大菩薩」(しょうけんだいぼさつ)という諡号を賜る。それを受けて開山廟を建立。
注4 天宥(てんゆう):羽黒山第50代別当。江戸時代初期の僧。天宥が別当の時は最上家から酒井家に支配者が変わった時期で、羽黒山への貢物が3年間止まるなど、大きな影響を受けた。そのため羽黒山が藩から独立して政治を行うことができるように、幕府直轄となるべく様々な政策や整備を行った。代表的な整備として須賀の滝の建造、羽黒山表参道の石段や杉並木の整備を行う。そのため、羽黒山の発展と繁栄につながり、羽黒山中興の祖といわれるものの、先進的な政策を半ば強行的に行った面があり、不満を持つ羽黒衆徒と庄内藩によって裏切られ、新島(現在の東京都新島村)へ遠島された。その後羽黒山には帰ることができず、新島にて余生を過ごした。
注5 宮尾詮(みやおあきら):第10代出羽三山神社宮司。明治時代後期~大正時代に宮司を務めた。著書に『神社行政法講義』(1911)がある。
注6 庄内初代藩主・酒井忠勝は当時の別当の宥俊に、自身の子である小五郎(後の酒井忠当)・左近(後の酒井忠俊)を取子にした*⁵ 。 取子とは、修験者の奉仕する神仏の子ども分にしてもらうことで、無病息災や立身出世の庇護を受けようとすること。
注7 白岩百姓一揆(しらいわひゃくしょういっき):酒井忠重によって支配下にあった白岩での圧政に反発して起こった百姓一揆。忠重は百姓にはとても払えないような重税を課したり(年貢過徴)、強制労働を行わせたり、百姓たちの女を強制的に集めて召し上げたりなど、様々な圧政を行ったとされる。天宥は忠重から逃げてきた百姓たちを酒井家から匿い、江戸へ逃した。江戸へ逃げた百姓たちは幕府に告げ口し、忠重は改易となった。忠重は庄内藩主・忠勝の弟のため、この改易は酒井家の失態とみなされる。そのためこれをきっかけに酒井家の怒りや恨みの矛先が天宥へ向くことになる。
注8 天海(てんかい):江戸幕府の顧問。天台宗の僧。慈眼大師とも言う。天宥は天海に師事することによって幕府の後ろ盾を確保しようとした。元々天宥は宥誉(ゆうよ)という名だったが、天海に師事以後、天海の名の一字をもらって天宥と称した。
注9 酒井家の始祖・酒井忠次(さかいただつぐ)は、徳川四天王や徳川十六神将として、徳川幕府の成立時から徳川家に仕えており、家康第一の功臣とされた。忠次の孫の酒井忠勝が初代庄内藩主として庄内に入部。
参考文献・URL
*¹ 『新版出羽三山修験道の研究』,戸川安章, 1986
*² 『湯殿月山羽黒三山一枚総絵図』,板本羽黒山麓栄昌坊, 江戸時代
*³ 『日本遺産 出羽三山』八方七口
*⁴ 『出羽路の宿 宮田坊』出羽三山を知る
*⁵ 『羽黒山中興覚書』,経堂院精海 著, 戸川安章 校註, 1941
記事トップ画像:傘骨周辺での講話