見出し画像

【色街探訪】ラフに埼玉(熊谷・大宮)の色街の話

前回までは書籍の引用を用いて検証しつつ書きましたが、今日はざっくり脳の言うまま書きます。でも長いです。歴史が絡むとどうも長くなりがちで済みません本当に。

さて、埼玉は中山道が通っている関係で宿場町もありますし、あとは秩父が繊維業やセメント業で栄えた街なのでそれに伴った色街の存在も無視できず、地味ながら調べると面白い県なのですが、なにしろ資料が少ない。

そもそも東京の色街は数多くの文学の舞台となっているので調べればその箇所を見つけてくることは容易なのですが、埼玉に関してそのようなことは無いので難しい。そしてもう一つは明治時代の「廃娼」制度の存在。しかもグレーゾーンが多すぎる。

明治9年に群馬県は公娼制度を廃止しようという動きが出るのですが、この時まだ深谷と本庄に関しては群馬県でその流れの中で公娼の許可が下りたエリアだったと。しかし同年の8月に深谷本庄が埼玉になって、一旦廃娼の流れになるも廓主人などの猛烈な反対などもあり廃娼できず、結局埼玉になっても深谷本庄だけ公娼がOK、それ以外のエリアは公娼NGになったという話です。(埼玉県警察史1より。)しかも「NG」とはいうけれども、結局売春をする飲食店である通称「達磨屋」という営業形態が蔓延ったために、「達磨屋の営業許可エリア32」を指定することになり、廃娼制度は形骸化した、ということです。

なぜ廃娼が難しいかというと一つは性病予防の為らしいです。当時は未だペニシリンも実用化されていなかった為に梅毒の伝染もあったので、梅毒をはじめとする花柳病(性病)を管理する必要があったと。その為私娼が蔓延しては性病の管理ができないので、公娼制度というのはそういった性病の流行を事前に防ぐには有効であったようです。梅毒というのは今の日本ではもうあまり聞かなくなりましたが、末期になると鼻が崩れ落ちる恐ろしい病気なようです。

ちょっと話がズレましたがつまりこういうことです。公娼制度を廃止(建前上)してグレーゾーンの売春宿(達磨屋)が増えてしまったとのことで、その為資料が少ないと。色街マニアにはキツい県です、埼玉群馬。もうほんと、資料書庫から出してもらって読むとか趣味にしてはハードル高いよと。

愚痴はさておきそんな達磨屋ですが表向きは飲食店なので、その「表向き飲食店」の鑑札を見つけるとそんな感じの営業をしていたのかなと感じることはできます。

↑一番上の「バー」が付いてる物件。フォロワーさんに教えていただいて見に行って、すごくびっくりした物件です。あのびっくりは忘れられません。

グレーゾーンの売春宿だったので見た目もあんまり派手にはできないので本当に地味です。この辺りも色街ファンにあんまり人気がない理由かと。でもそんなところが陰湿で好きなのですが。

がしかし、鑑札から少しテーマがずれますが、この上の物件は熊谷なのですが最近大宮でキラキラした物件を見つけまして、意外で驚きました。

↑以前の記事でも書きました、タイルを使っててアールを使ってて、というカフェー建築です。このような華美な物件が埼玉にあるのが珍しく、驚きました。私のイメージだと達磨屋は上のような地味なイメージなので。

あともう一つ、こちらも大宮のとある物件の飾り窓。

↑こちらはすごく古い区画にあるお宅なのでひょっとして元遊郭なのでは?というお宅。モルタルですらない木造建築なので、上の物件の時代よりももっと前と予想していますが、手がかりは無し。

と、今回はざっくりと書きました・・・というよりも資料が殆ど無いのであまり検証もできず、ラフな記事で申し訳ない限りです。まだまだ研究途上、この辺りで埼玉の都市研究をしている講座があったら聞きに行きたいぐらいです。そして後日また改めまして、群馬に関して、こちらもざっくりと書く予定ですので、お付き合い頂ければ嬉しいです。

-埼玉(熊谷・大宮)編終わり-