日本における外国人労働者問題

戸塚秀夫「日本における外国人労働者問題について」『社会科学研究』(東京大学社会科学研究所紀要)25巻5号(1974)

〈一〉入管法をめぐる議論は、難民認定に関する政治的問題に集中している感がある。しかし、同法の核心は移民労働力の規制にある。すなわち、旅行者の積極的な誘致の一方で、在留資格の付与によって外国人の入国・滞留を抑制することである。ところが、このような「入国管理」という建前の裏では、偽装、「特別措置」、その他の抜け道を通って不熟練労働者が入国しており、その実態は(つい最近まで)看過・黙認されていた。こうして入国した労働者は法的在留資格をもたず、そのために奴隷的な待遇を受け入れざるをえない。このような矛盾に満ちた移民労働の起源は、明治期、在留中国人に対する法的取締りの枠から「同胞」という名目で外された朝鮮人労働者にまで遡る。

〈注4〉1970年代前半、シンガポールからの「研修生」のパスポート取り上げ他の奴隷労働の事例

〈二〉日本における労働者の国際間移動の研究は日本からの移出民に集中してきた。たとえば、「移民問題」を扱った1909年の社会政策学会第3回大会では、アメリカにおける日本人移入民取締りが議論された。これが変化するのが第1次大戦後である。朝鮮人労働者(「半島人」「鮮人」「外地人」などと蔑称された)の大量移入が社会問題化したことで、在日朝鮮人の実態調査が初めて行われたのだ。ただし、彼らの「内地移入」を捉える枠組みは、朝鮮の「後進性」に対する帝国意識に強く規定されており、「上から」救済・矯正するべき存在として、あるいは治安当局が取り締まるべき「不逞」な存在として扱われる傾向にあった。移民の背景に帝国主義的朝鮮支配、特に農業政策による農民層分解を認めるようになったのは第2次大戦後である。他方、社会主義運動の側では、外国人労働者を労働組合に組織して国際的連帯を築こうとする議論が行われていた。

→ただし、労働運動の焦点は受け入れ国労働者と同水準までの賃上げ闘争

〈注4〉第1次大戦後の議論としては、櫛田民蔵「朝鮮人労働者の移入」『国家学会雑誌』31巻8号(1917);河津暹「人口の移動と社会政策」『社会政策時報』(1922年9月);出井盛之「我国の大陸関係と労働者階級」『社会政策時報』(1925年5月)など。

〈三〉明治期の流入外国人の推移概観。第1次大戦前まで一貫して多いのは中国人、次いでイギリス人、アメリカ人、ドイツ人。中国人は主に「私傭」(会社や私立学校の雇用)の職工や貿易商の他は独自の華僑社会を形成、欧米人は「官公傭」(政府や地方自治体の雇用)から徐々に「私傭」へ移行した教師・技術者・顧問など。一方、朝鮮人は日韓併合を期に爆発的に増加。日本人の移出には3つの波があり、第1次大戦前にハワイやアメリカへ渡った農業労働者・鉄道建設労働者・鉱山労働者、第1次大戦後にブラジルやペルーなどの南米へ移民した失業者、日中戦争直後から満州や中国などへ移住した植民者(現在で言うところの「中国帰国者」)。

〈四〉朝鮮人移入は3つの時期に分けられる。第1期は日韓併合~大正末期、低廉労働力の需要を背景に「同胞」として渡航が自由化、出稼ぎ的労働者として移入。第2期は昭和初期、国内の失業問題・貧困問題を悪化させる要因として供給過剰が警戒され、渡航が抑制された。朝鮮人は国際的な臨時工(資本に都合のよい過剰人口)として位置づけられ、日本人労働者の嫌がる不熟練労働分野に、2年程度の短期契約で限定的に利用された。日本人との待遇格差は民族差別を助長した。また、政治的・社会的に「従順」でない者への警戒から、警察や憲兵などの治安当局が出入国管理の窓口となる体制がこの時期に確立される。一方、「大陸兵站基地」としての工業化を背景に、朝鮮農村部から都市部あるいは満州への移動も増える。それでも、世界恐慌を背景に、朝鮮人の「内地移入」は激増。第3期は敗戦まで、戦時体制下での労働力不足を補うため「労務動員計画」に基づき「徴用工」として。この最後の時期は、朝鮮の工業化による労働力需要と逆行する国内需要のために移住労働者が厳しい身分的拘束の下に置かれたため、しばしば「強制連行」の時期として議論される。

→〈四〉の2に男女比の表・記述があるが、朝鮮人労働者の大部分は(日本人重工業労働者に対する)土工・炭鉱夫、小物商、荷役夫・雑役夫とされ、朝鮮人「女工」などの女性労働にはあまり関心が払われていない

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