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古文を学ぶ意味

よく受験に関する話題がニュースで取り上げられた際、やたらやり玉にあげられがちなのが「古文」と「漢文」。

私も教員をしていて、なぜ古文と漢文を学ばなければならないのかという質問を受けたことがあります(日本史の教員なのに……)。

私の中では、なぜ古文漢文を学ぶのか、一つの答えは出ています。日本史の教員だからこそ導けたと自負する、古文漢文の意味です。

一方、ある国語科の先生が同様の質問に対しておっしゃっていたことも非常に印象深く、「なるほどそういう考え方もあるのか」と脳内に電流が走ったような気持ちになったことも覚えています。

せっかくですので、インターネットという広い海にも共有したいなと思い、この投稿にいたった次第です。


今回は私の思う古文を学ぶ意味
次回は国語化の視点から見た古文・漢文を学ぶ意味
二回に分けてお届けできればと思います。

これを読んで、どちらの方が腑に落ちるかは人それぞれだとは思いますが、ぜひ学習の意味について考え直すきっかけになれば幸いです!


○はぎのらんが考える古文と漢文を学ぶ意味

日本史という授業で扱う題材は、当然「昔の日本」なわけですが、今と違って文明の進んでいない昔は、我々のものさしから見れば不便な世の中と評することができるかもしれません。

日本史の授業を聞いて、生徒から芽生えた感想の中にも
「昔の人は大変そう」
なんて表現が出てくることもしばしばあります。

でも、本当にそうなのでしょうか?

多分歴史ってこれから先も必要な学問だと思うので、仮に西暦3000年に日本史を学ぶ機会があったとしましょう。

3000年の日本では21世紀の出来事なんて、はるか昔。我々からすれば平安時代を眺めているようなものです。

「昔の人は大変そう」
1000年先の未来の学生は、もしかしたら我々の社会をこのように捉えるかもしれません。

では、私たちはこの世の中が本当に大変だと思って生きているのでしょうか?

もちろん苦労することたくさんあります。政治や社会に対する不満や苦労もそうですが、何気ない日常の中で面倒くさいことって色々あげられるとは思います。

現在、新大阪から東京までは新幹線で2時間半ほどかかります。
これが1000年たったら1時間を切ったり、もしくはワープすれば一瞬で、なんて世の中になっているかもしれないわけですよね。
そうなると、未来人は「え、2時間半もかかるの?大変そう!」ときっと思うでしょう。

でも私たちは、そこにはあまり大変さを導いていないことが多いように思います。車窓からの眺め、友人との会話、まったり読書やスマホで映画鑑賞、それぞれが思い思いの時間を使って、移動を楽しんでいるはずです。

そんな私たちの日常を「大変だね」と一言で片づけられるのは、私は癪に障ります。

先を生きる人には見えない楽しみを、我々は求めて、形にしているからです。

そして、これは平安時代の人々だって同じことで、そもそもこの時代は大阪から東京に移動する機会すら全くなかった彼らには、彼らなりの楽しみが絶対あるはず

そんな文化に触れることができるのが古文の世界です。

そして、そのような古文は原典を読むことに意味があります。
ちょっとした言葉のニュアンスから見えてくる感情、翻訳したことで入ってくる翻訳者の主観をいっさいとっぱらったピュアな文学だからこそ見えてくるものがあります。

そんなとこまで考えて勉強しないだろ!という意見は野暮です。
高校で学ぶことなんて、どの科目をとっても研究に必要な知識には到底及びませんので。古文だけに言えたことではありません。


私は古文は必要だと思います。
日本の伝統を尊重し、日本の文化を知り、そこに生きる人々に思いをはせて、単なる過去のものとして終わらせないようにするためです。

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