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ダンシング・ホームレス tHe dancing Homeless

私のまちには映画館がある。だから、まとまった時間があると観たいかどうかとは関係なくとりあえず足を向ける。

休日にしては珍しく午前中から出かけた私は、用事が終わったあとに、きっと朝の上映に間に合うだろうと思って、自宅とは反対方向に歩きながらFacebookをひらく。

「ダンシング・ホームレス」に間に合いそうだ。ソファに身を沈めて、定番のホットレモンジンジャーを飲みたくてたまらないと思いながら、アーケード商店街の中を歩いて、シアタードーナツに向かった。

チケットを買い、定番のオーナー宮島さんの前説を聞いて、映画が始まる。


観終わる前から、表現しにくい感情に支配されて行く。

「何が幸せなのか」
「何が正解なのか」

次々と映し出される登場人物。彼らの人生のほんの一部しかそこには描かれてない。日本の社会の真実で実在するのだけれど、私が目を向けなかったことで、ホームレスという状況が生まれないことが正解なのか、それともそれでも生きていけると言うことが正解なのか…

人として、働いて対価を得て暮らしていく、でもそれができない人もいて、だから生活保護という制度があって、でもそれは、いつか働いて経済的に自立することが目的で、その人自身を守るということに民意がなっておらず、だから心ない言葉があったりする。それも正義だけど、正解ではないような気がする。とはいえ、私の身近な人がホームレスとして生きていくことになっていたら、それを受け入れられるだろうか?とはいえ、その人の人生を私は支えることができるわけはなく、人は一人で生きていくことができなければいけない。でもそれは、社会が作ったルールであって、そのルールって正しいの?そこを窮屈に思う人がいることは間違ってない。
と「でも」と「?」のオンパレード。

スクリーンには振付師のアオキ裕キさんが映し出される。私は人の生き方は顔や体に出ると思う。彼はとても素敵だった。できればずっとみていたかった。彼はホームレスの人たちを稀有な経験をしていて、他人への羞恥心とか、見栄とか、社会のルールの中にいる人たちとは違う人で、そういう人が表現者になったら、これまで見たことがない面白いものとなると思っているようだった。社会のルールの中の人は見ないようにする人たちが表現者になると社会のルールの中の人が観るというシュールな世界感をつくる。
そんなアオキさんも稀有な人。

ぐるぐると心が頭が乱される映画でした。

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