見出し画像

君たちはどう生きるかを詠む

 君たちはどう生きるかを観た。ジブリの新作だが秘密主義が徹底されていて作品内容が明かされず宣伝すらまともにされていない。見えないものは余計に見たくなる。そういった人間心理を利用した新手の宣伝ともおもえるが、実は作品を鑑賞するにあたってその効果を高めるための必然的な施策ではないかという気もしていて、しているからこそその「気」を説明することはネタバレになるからこうして駄文に駄文を重ねて逃げ道を作っている。去れ、ネタバレ避けたき人々よ。あなたたちは巨匠の新作をまっさらな脳みそにねじ込まれて気絶悶絶する権利を有している。だからいつもは冒頭で詠む作品短歌も後回しにした。去れ。もうすぐこの前置きは終わる。去るのだ一刻も、一文字でもはやく、去るのだ。




まだいるのか。




去れ。




もう、ネタバレだ。




 眞人と名付けられた少年は母を火事で失い心の傷が癒えていないが、父が母の妹と再婚するということで真っ当にやるせない。少年は母も過ごした継母のお屋敷で過ごしはじめることになって、そこには母の(そして継母の)大叔父が残したといういわくつきの塔があった。そんなミステリアスな敷地内では気色悪い青鷺が飛び回り、たまに少年にちょっかいを出す。やがて少年は青鷺に導かれて塔に足を踏み入れてしまう。そこはなんとシン・ジブリパーク、世界の巨匠ハヤオーランドだったのだ。

 物語の導入部はざっとこんなものだがなにもかも間違っているかもしれない。しかしなにが正しいものか。冒頭で炎に母を奪われていく少年の様子が鬼気迫る映像表現によって描写されており、観客としては「お、なるほど今回はこういう感じか」などとおもうがそんな僕らの感情もほんとうにどうでもいい。物語は皮膚呼吸まで許されてまるで手綱を受け付けない。

 そもそも物語を生き物に例える比喩がもうダメだ。物語は生き物から生まれるが堂々と独立してただ物語なのだ。語られるだけの物ということで。綺麗な落とし所を文脈として見出せるのは矯めに矯めた物語状のなにかだからで、物語の魅力というよりは手工業の美しさなのかもしれない。生もの過ぎる物語はするすると認識の表裏を蛇行する。君たちはどう生きるかの大半はそうやって物語となっている。

 それでも一応落とし所、というか自分なりの納得する話をしてみたくなるものだ。おそらく、今作は知識やイメージの継承の話だ。一人の人間が抱えた小宇宙がある一時を境に完全に無になるという必然がある。そのことを真剣に考えた時に、物語がまた残された。この物語はじっと黙った石のごとくに意味深で多様な解釈の可能性に満ちており、しかしやはりただの石でもある。なにが言いたいのか。つまり人生100年時代とかいう虚無へ次々と送り込まれる生命のために用意されたモノリスなのだ。「2023年宇宙ハヤオの旅」の幕開けだ!
 
 とかなんとか、劇場を出ていったたくさんの魂が独自の解釈をしていくのだろう。そのどこまでを監督本人がのぞんでいるのかは語られない限り知るすべもないが、異論を挟ませず解釈を許さないがんじがらめの世界で、宣伝なしの長編アニメーションが人々の想像力をかき乱しているのは実際の出来事である。

沼に立つ青鷺の持つ企みに騙されたくて傷ついてみた

有限の命の庭に繰り返す故郷くにに何度も生まれ変わって

人真似のインコはそっと後ろ手に凶器を持ってする鳥のふり

遺伝子と違う形の魂を記憶しているモノリスの宮

閉じてゆく世界の石は手の中でいつも新たな姿を宿す

君たちはどう生きるか5首


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?