昭和時代~現代の萩焼
大平洋戦争の影響で物資が欠乏した時代には、数名の作家が「工芸技術保存資格者認定」を受けたことで萩焼の伝統が維持されました。
戦後の混乱期には日用雑器を中心とした生産が始まり、戦後の人々の暮らしを支えました。
1949年には、萩焼の技術や伝統を維持する窯元同士で「萩焼美術陶芸協会(現在の萩陶芸家協会)」が設立。相互の研究練磨や親睦を計る母体となりました。
第二次世界大戦後には、驚異的な日本経済の成長で再び茶道が隆盛をもたらし、陶芸ブームが巻き起こりました。
萩焼も昭和三十年代から茶陶のとしての声価が高まり、それまでの窯元は旧御用窯の坂、三輪の他に五窯と、深川の坂倉、坂田、新庄、田原の十窯に過ぎなかったものが、好況の流れから新興の窯が増え続け、現在では百を超えるほどとなっています。
萩焼復興の過程で、伝統技法の振興に多大な貢献をしたのが、深川萩の十二代坂倉新兵衛と松本萩の三輪休和(十代休雪)です。両者はともに昭和三十一年山口県指定無形文化財保持者に認定され、翌三十二年には「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」として国の選択を受けています。