こんにちは!萩のうつわです! 山口県萩市で萩焼の情報発信をするために若手を中心としたメンバーで活動をしています。 萩焼は、古風で手の届かないイメージがありますが、最近では日常で使用しやすい器が増えています。 “かわいいもの” “かっこいいもの” “伝統的なもの” “一点もの”数々取り扱っております。 日常使いの食器から贈り物や自分へのご褒美などに使える商品を追加していきますので、どうぞよろしくお願いいたします。
大平洋戦争の影響で物資が欠乏した時代には、数名の作家が「工芸技術保存資格者認定」を受けたことで萩焼の伝統が維持されました。 戦後の混乱期には日用雑器を中心とした生産が始まり、戦後の人々の暮らしを支えました。 1949年には、萩焼の技術や伝統を維持する窯元同士で「萩焼美術陶芸協会(現在の萩陶芸家協会)」が設立。相互の研究練磨や親睦を計る母体となりました。 第二次世界大戦後には、驚異的な日本経済の成長で再び茶道が隆盛をもたらし、陶芸ブームが巻き起こりました。 萩焼も昭和三十年
萩藩の御用窯は明治維新により民営化され、経営面で苦境に立たされます。 窮地から復活するきっかけとなったのは、1977年(明治10年)に始まった内国勧業博覧会。 9代坂高麗左衛門が鳳紋賞碑を受賞し、店には豪商三井家の当主が連日足を運ぶなど注目が集まりました。 さらに1981年(明治14年)の第2回展では、坂家は有功賞碑、三輪家は一等賞を受けて、双方とも宮内省買い上げとなり萩焼の名声を高めました。 また、表千家の十一代碌々斎(ろくろくさい)が2度に渡って萩を訪れており、萩焼と表千
開窯から半世紀、李勺光の子である山村作之允が、坂高麗左衛門 (李敬の日本名、坂助八とも)とともに御用窯の作陶を率いていましたが、1657年に作之允の子の山村光俊は弟子たちとともに深川(現在の長門市深川湯本)に移住し、第二の御用窯を創業しました。 当初は藩の配下に置かれましたが、自分焼(自家営業)が認められ、半官半民の窯となりました。そのため萩本藩以外の支藩とも交流が深い窯となりました。 一方で、松本の御用窯では1663年に初代佐伯半六と初代三輪休雪(みわ きゅうせつ)が御雇
いつの頃からか言い慣らされてきたこの言葉は、茶道の歴史における好みや格付けを物語るものです。 二萩と言われる萩焼は、桃山時代に千利休によって確立された「侘び茶」の流行にともない、にわかに脚光を浴びた「高麗茶碗」の系譜を引く茶陶として広く知られています。 また萩焼の呼称は寛永十五年(1638)の『毛吹草』からと言われており、茶会記では正保四年(1647)の『松屋九重会記』で、江戸時代を通じて藩街では「萩焼」と呼称されています。 地元の藩内では「松本焼」、「深川焼」、「三ノ瀬焼
今回は、萩焼の始まりについてお話させていただきます。所説ありますので、一つの見解としてご理解くだされば幸いです。 十六世紀末期の文禄・慶長の役(1592~1598)による豊臣秀吉の朝鮮出兵において毛利輝元はその総師として渡海し、李朝有数の窯産地「鶏竜山」から萩焼の開祖李勺光、李敬を招致しました。 慶長5年(1600)関ヶ原の役に敗北した輝元は長門・周防二箇国三十六万石に削封され、慶長9年(1604)萩に入府しました。それに伴い李勺光一統は城下の東郊松本村中之倉(現萩市椿東
こんにちは! 蒸し暑い日が続きますが体調管理は大丈夫でしょうか? 山口県萩市も梅雨のジトジトとした蒸し暑さが続いています。 晴れの日が待ち遠しいですね。 今日は送料無料キャンペーンが始まるお知らせです! 6月22日よりスタート! 萩焼に興味のある方は ぜひ公式サイト 萩のうつわ をご覧ください! 一点ものも多く 一期一会の萩焼との出会い 器との出会いをお楽しみいただけたらと思います! ゆっくりですが商品追加しています! 自慢の作品を見ていただけると嬉しいです。