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江戸時代の萩焼

開窯から半世紀、李勺光の子である山村作之允が、坂高麗左衛門 (李敬の日本名、坂助八とも)とともに御用窯の作陶を率いていましたが、1657年に作之允の子の山村光俊は弟子たちとともに深川(現在の長門市深川湯本)に移住し、第二の御用窯を創業しました。
当初は藩の配下に置かれましたが、自分焼(自家営業)が認められ、半官半民の窯となりました。そのため萩本藩以外の支藩とも交流が深い窯となりました。

一方で、松本の御用窯では1663年に初代佐伯半六と初代三輪休雪(みわ きゅうせつ)が御雇細工人に加えられ、萩焼は生産力の増強とともに質的な発展をみせます。
当初の高麗茶碗を手本とした形態のみならず、織部風のもの、さらには三輪休雪により「楽焼」が導入され、日本独自の意匠へと広がりました。
この後萩は、幕末まで侘び数寄の茶陶に加え、煎茶具や細工物など多様な器を生産する産地となりました。

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