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大きな樹の話9(後編)

巨樹とわたしたちの向き合い方

環境・生物に対する人間の立ち位置は常に利己的だ。例えば、自分たちのために山を切り拓くことなどが分かり易い例だろうか。しかし、ここで思うのは「人間が環境破壊をすると生き物たちがかわいそうだ」という考え方すら人間が勝手に決めつけている、ということ。
相当極端な話をしているけれど、私は私以外の生き物が考えていることは分からないから、「環境破壊されて悲しい」なんて自然は思ってないかもしれないじゃないか、とも思ってしまうのだ。
もちろん、環境破壊してしまえ!とかそんなことは微塵も思っていないし、大反対ではあるが、その意見すら人間が一方的に思ってるだけだろう、という話である。

少し話が飛躍してしまったが、巨樹に戻す。
要するに、おおよそ最期が近づいているであろう巨樹に対して、人が手を差し伸べるのは随分都合の良い話であり、一体何様なんだと(巨樹は言っていないけど、私が1人で勝手に)思うわけである。
一方で出来る限り長生きしてほしいと思ってしまう自分もいる。つくづく利己的な生き物だ。

最初にこの感覚を持ったのは山高神代桜(山梨県)を初めて訪れたときだった。骸のような朽ち果てた幹から枝を伸ばし、花をたくさんつける姿には胸が震えた。
今からおよそ70年前、樹勢が急激に衰え、今後3年以内に枯死と宣言を受けた神代桜。細かな治療内容は割愛するが、どうにかしてこの桜を救おうと多くの人が立ち上がったそうだ。
その結果、最悪の状況からは脱し、昨年まで可憐な花をその身に咲かせていた。きっと今年の春も問題なく咲くだろう。
だが、本来なら神代桜の一生はそこで終わるはずだったかもしれない。もし、本当にそうだったとしたら、人の手によって延命され、息も絶え絶えの中、花を咲かせているとしたら。
簡単に美しいとは言えなくなってしまった。
これは考えすぎだろうか。もっと純粋な心で花や樹木を楽しめば良いのかもしれないが、どうしても無責任な気がして考え込んでしまう。(考えたところで、私が樹に対して何かができるわけではないから、考え込むくらい許してください…)
本当は神代桜はどう思っているのかな。こんなことを考えるようになったらお終いですか?笑

前編で話をした川棚のクスの森。天に蓋をするが如く広がっていた姿はもう見られない。何十本、何百本とあった枝も、いずれは大半を失うことになるだろう。しかし、全国にそうした姿で生き続けるクスノキは多く存在する。幹の中は空っぽで、樹皮と数本の枝だけで生きているような老体を幾度も見たことがある。これらのクスもかつては当然立派な姿をしていたはずだ。ただ時代を追うごとに育つ速度より崩れてゆく頻度が優っていったのだ。この川棚のクスの凋落は、周囲の整備による根の酸素不足が関係している部分もあるようだから、ただの老衰と同じ扱いをしてはいけないかもしれない。
それでもまさに今、クスの森は最盛から衰退への転換期を歩んでいる。どんな樹にでも必ずこの時はやってくるはずだ。だから、私は果てしなく永い巨樹の一生で、この変わりゆく瞬間や最期を目の当たりにできることを心の底から有難いと思う。

巨樹に対してのそのような考えを決定づけたのは、とある2本の巨樹との出会いが大きく関係している。
ひとつは愛知県設楽町の山中に生育する豊邦のアカガシ。株立のアカガシで、倒伏した大枝が目立ち、痛々しい姿であった。しかしその枝が地面に伏している辺りだけ、周囲よりも若い植物が豊かに生長していたのが印象的だった。まるでアカガシの生命が他の個体に還元されているようであった。もうひとつは滋賀県長浜市の古刹、菅山寺に聳え立つ山門ケヤキと呼ばれる一対の大ケヤキだ。寺院とともに遥かな時を過ごしてきたと思われるが、2017年に向かって右側の個体が倒壊した。倒れた幹の周りに静かに咲くシャガの花が忘れられない。一方は花に包まれながら山へ還るように。また一方はその分まで役目を背負うように。

倒れた山門ケヤキ


巨樹の生長はごく僅か過ぎて、人が一生をかけて気付くことができるかどうだろう。我々に見える変化はいつも負の方向ばかりだ。
だからこそ、これには常に敏感でありたい。

保護団体や樹木医なる人々がいるから、自然のものだと言って放っておくわけにはいかないのも分かる。心から樹木を救いたいという想いで奔走している方もかなり多いだろう。
事実、人による保護で現在まで存続している命もたくさんあるわけで…。
そもそも、そうした想いの源流は、かつて巨樹をはじめとする植物達から多くの恵みを受けて暮らした人々からの恩返しではなかったか。実に日本人らしく暖かい関わり方であった。

一方で、だからこそ。何の力も無い私が、たった1人の人間がそう思っているだけの話なのだが、巨樹のあるがままの一生をきちんと見てみたい。今見ている巨樹の姿がどんなに厳しい状況でも、それが定めとして受け入れるべきだと私は思う。
(もちろん心の中では、助かってほしいだとかどうにかして元気になってもらえないかと思うこともあるけどね)
その上で、私以外の誰かが巨樹を想って世話をしたり、愛でたりするのは自分勝手で良いとも思うのだ。人間は周りのものを常に意識して、常に関係を作らないと生きていけない生き物であるから。
対して何があってもあるがままの巨樹。
「自ずから然り」他に頼らずただそこに在るだけ。自然の語源となったジネンという考え方である。
まさしく人と自然との関係はここに表されているのかもしれない。 

今回のテーマ

変わりゆく巨樹に人がすべきことはあるか

結論としては、すべきことなんてものは無い。というところだ。
私としては積極的に生死に関わるべきでは無いと思うし、樹に対しては常に受け身でありたいというのが信条である。できても祈ることくらいだ。
でも、樹を助けたい、という人がいるのは素晴らしいことだとも思う。私が今巨樹と触れ合えているのもそうした人々がいてくれたからというのもあるだろう。
このように様々な考えがあって、でも誰も樹が枯れたり折れたりすることは望んでいないよね。というのが人間らしいのではなかろうか。

前後編に分けたくせに、バランス悪いし全然纏まってないけれど、頭の中を書き出すとこんな感じです。
偉そうなこと言っておいて、日々巨樹のニュースを調べては被害を知って涙目になっている萩原でした。
また今年も台風がやってくるね…
想像しただけで嫌な気分になってしまうな。
どうか今年も多くの巨樹が無事でありますように。
おしまい🌳

(ヘッダー画像:豊邦のアカガシ)


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