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同大硬式OB冊子の記事原稿

43代チーフ萩原です。
自分は2001年入学だと考えていたらもうすぐ20年ということに驚きつつも、今回OB係の岩井田さんからのご依頼で僭越ではありますが、原稿を書いてみたいと思います。いろいろテーマ考えてみたものの20年前の記憶と、今思うことを思いつくママに書いてみたいと思います。

初めての一人暮らし ~2001~

2001年3月某日、憧れた一人暮らし。
桃山御陵前のマンションでdocomoのケータイをいじってた。
急行が停まって京都駅も近くておしゃれだぜ!と思って契約したが、後に毎日のように一緒に過ごすことになる路子が丹波橋に住んでいる以外ほとんど同志社生は居なかったことを知る。
この中途半端な距離が授業から遠のき5年間キャンパスライフを送ることになったこととは無関係ではないだろう。

県立の弱小校ではあったが、それでも最後の夏まで野球漬けの高校時代。中学時代の学力貯金をとっくに使い果たしていたぼくに受験勉強を伴走してくれた彼女を早々に裏切り、マッチングアプリに勤しんで入学式前の京都ライフをエンジョイしていた。

いやそうだあの頃はLINEもFacebookもない。マッチングアプリなんてないぞ。あのmixiさえまだない。携帯に送られてくる貧弱なiモードの電波を頼りに出会い系をやっていたのかもしれない。まだサクラも少ない出会い系黎明期だ。あの頃出会った女子高生も今は35歳か。

そう中学ぐらいになるとみんな携帯は持っていたが、まだまだ通話料が高くて、彼女と電話するのに実家の親に出られないようにびくびくしながら電話した最後の世代が我々だ。WILLCOMで女の子と長電話が出来るのもだいぶあとの話だ。WILLCOM知ってる世代も限られるか笑

2001年というのがどんな時だったか記憶を辿ってみる。
同時多発テロが起こった年で、受験勉強のときは、キムタクと松たか子のHEROというドラマだけはよくみていた。あれで検事に憧れた人も少なくない。
夏にはBSE問題ってのが起こって、いっとき日本中から牛肉が無くなり、あの吉野家でさえも豚丼しかないみたいな時代があった。
ぼくたちは馬鹿だったので、三山木のスーパーで安くなった神戸牛を買い占めて、毎日、後のサブチーフ古久保の家で焼肉とすき焼きを交互に食べていた。古久保の家はみんながこぼしたタレの匂いと覚えたての煙草の臭いで大変なことになっていた。
キッズウォーで井上真央がざけんなよ!と言ってZONEのsecret baseが流れていた。イチローがマリナーズ1年目。テニスの王子様は既に流行っていて、フェデラーがめっちゃ強くて、あのエースをねらえが上戸彩主演でドラマ化される。大塚愛がかわいくて、倖田來未がセクシーで、CHEMISTRYやm-floがカッコ良くて、一生一緒にいてくれや!
みたいなそんな時代だった。

入学式 ~同大硬式との出会い~

4/1入学式。過保護なおかんを三重に見送り、翌日また登校した。
田舎者すぎてキョロキョロしながら歩いていた。
授業を決めるやり方がまじでわからない。分厚いシラバスをパラパラみながら授業を決めなければいけなかった。ほんま重かった。
まだ一人1台PCを持っていないし、ネット環境がないこの頃の先輩達は就活も郵送とかでエントリーシート書いてたらしい。

急に肘をつかまれた。
みると金髪で黒光りした顔でめっちゃまくしたててくる。
暇やろ?寂しいんやろ?どっからきたん?昼食べる?おごったるからおいで。授業とんのむずいやろ?
肘をぐいぐい引っ張ってくる。
これが本場の関西の女なのか?三重県ではみたことないタイプだ。
(この先もこれ以上の女性をみたことはない)
まぁごはんだけ奢ってもらうならいいかとついて行った。とついていく自分も今思えばすごいな。でも実際、ほとんど知り合いもおらず、ひとり三重県からやってきて、多分寂しくて心細かったから。ぐいぐいきてくれて嬉しかったんだと思う。
これが今でも東京で毎月のように会ってる田村さんだ。今ではキングコング西野亮廣さんの右腕として活躍している。田村Pで調べてみよう。

あ、もう一人最近話題になった先輩が居る。
3つ上の先輩で新井さん。「資金調達 新井」で調べてみよう。
世界最速で100億円以上を調達した宇宙ビジネスを立ち上げた。
学生時代から宇宙のことをやりたいと言っていて、同期の人などからは「新井はビッグマウスやからなー」と言われていたのだが20年後ほんまに実現に向けてすごい一歩を踏み出している。ビッグマネーで世界最速やで。
僕みたいな落ちこぼれも居れば、こんな有名人も皆さんの先輩には居る。
なんかしら勇気になると嬉しい。

時を戻そう。
後の田村Pに連れられてというか引きずられて食堂に。
そこに居たのは金髪でゴージャスパーマのマコさんと、赤いトレンチコートを着た愛さん。3回生の先輩で、このキラキラ感に圧倒されたのを今でも覚えている。田村さんはずっとうるさかったと思う。
野球はもういいやと思っていたぼくは、練習についていき、最初はテニスなんて全然できなかったんだけど、その後も会う先輩が全員良い人にみえて(実際良い人)、そして、なんだか熱いこのサークルに魅力を感じすぐに入ることを決めた。
その年以降ぼくもこのときの気持ちを思い出して、寂しそうな一回生達に強引な勧誘を繰り返した。
暇やろ?と。

あの頃はDTL同志社テニスリーグには30個のテニサーがあったし、それ以外にも非公認のテニサーがいくつもあった。勧誘合戦は本当に大変で、ぼくらのひとつ下の代は男が少なくて最後に残ったのが1人になってしまうという同好会存続の危機があったりもした。

60周年の折には今ではDTLが8個くらいに減っていると聞いて驚いた。
そう考えると、こんなにサークル自体が存在し、存続することが当たり前ではなく、すごいことで、今こうして皆さんの読む文章を書かせてもらっていることもありがたい話なのだと思う。本当にここまでバトンを繋げてきてくれたみんなに感謝したい。

おもひで

一回生で思い出深いのはやはり、夏の行事。
まず強化練習というのを3日間京都で行った。暑さでバタバタ一回生が倒れるやつだ。けっこうこのトラウマは後の年次会や女の子が辞めちゃう原因となる。
3日ほど休み、バスで山中湖の東証館へ。3日?5日?練習があって、2日部内戦。翌日東京へ向かい早稲田との顔合わせ、そして2日間の早稲田戦。と。これが終わるとお盆真っ只中ーみたいなそんな日程だったかと思う。
めちゃハード日程。

一回生の夏合宿は、洗濯やら風呂も深夜になってあんま寝れないのに練習キツくてまじ体力的にもきついんだけれども、まぁその分とにかく思い出に残るものだった。言葉にするとチープにしかならないのだけど、きっと同大硬式の皆さんにとって一回生の夏って特別なんじゃないかなと思うし、自分も同じように心打たれるものがあったし、今でもなんかあの時の感覚は思い出せる気がする。
なんか大学生までなってこんなピュアに泣けるかーって自分でも思った記憶がある。

さてどこまで書こうか笑
ここから2回生3回生4回生5回生となんぼでも書けるような気になってきているが。

ぼく自身は一回生の頃にテニスというよりこのサークルが大好きになり、後にチーフになることにまでなったわけだけど。
二回生のときの次期方針を話し合う日々や、マネ選挙やチーフ選挙も大変だったけどよい思い出だったりする。たくさん人が辞めたなー。
きっとぼく自身もそんな多くの人を傷つけて迷惑をかけてきた。
まあひとつだけ言えるのは真剣だった。
そんくらいサークルが、メンバーが好きだった。
チーフになってからもそんな自分の体験を伝えたり、今思えばただえらっそうに押し付けたりしてきたのかもしれないが笑

現役生の皆さんへ

でも、この時、先輩や同回生、後輩と向き合いまくってきた経験は本当に得難いものだなーと今感じている。
社会人になってからも多くのチームに所属したり、たくさんの上司のもとについた。自分がリーダーシップをとることも多くなっていく。
昨年にはそんな、組織というもので過ごすことも卒業し、フリーになった。このプロセスの中でけっこう同大硬式を思い出しながら頑張ってきたのだ。

自分がメンバーのときは一回生や二回生のときの気持ちを思い出した。
1番下っ端のときには、なんか生意気さが出て反省したとき一回生の気持ちになって、なんだってハイ!って言って頑張ってみた。
嫌な部署に配属されたなーとか嫌な上司に当たったなーみたいなときには二回生の合宿の班がちょっと不安だったけどその班を絶対いい班にしようと頑張った気持ちを思い出して上司や後輩に接してみた。
自分がリーダーになるときはチーフの頃を思い出してみた。
他にも悩み苦しんだり、辛いことがあったとき、ぼくの頭の後ろから「全力でやってるかー?!」と先輩が叫んでいたり、お腹の奥の方から「お前全力でやってんのか?!」とチーフの時代の自分が言ってたり、たくさんの先輩後輩の顔がチラつくんよなー。それで頑張れたことってたくさんあった。
というか大事なことはほぼサークルで学びきってたんだよね。体験済み。
そんな場所だったと自分では思っている。皆さんにとってはどうだろうか?

10代20代30代。ぼくもまだ30代だ。
あの頃の熱量もって取り組んだことは本当に宝物で。
もうこれだけ正解が無い時代になってきて、サークルもテニス以外にたくさんあるだろう。というかサークル以外にやることもいっぱいあるだろう。
知識も情報も膨大になり、だからこそ何をやっていいのかわからない。
何が将来にいいのかも誰もわからない。
今、親の言うことや誰かの言うことをそのまま聞いてしまうのはいただけないと思う。
昔は多分それで正解の可能性が高かったけど、今はめっちゃ低いと思っていい。そんな時代の20代にオススメは、結局ひとつ何かに打ち込むことだと思う。
フツー!!普通でごめん。

そこには正解はあるかもしれないしないかもしれない。
だけど打ち込んだその事実というのは必ず宝物になる。
そこから必ず道は開ける。経験上そう思う。

ぼくの高校の同級生で野球部でセカンド守ってて成績は最下位クラスで進学校の高校なのに何を思ったか調理専門学校に進んだ奴がいた。
彼のことをぼくは当時多分とてもバカにしていて、なにやってんねんと思っていたけど、今では大阪の新しいでっかいホテルの料理長になっちゃった。グランメゾン東京やん!みたいな。
他にも1社目の同期で営業が1番出来なかった奴が次の転職先でコツコツ結果をだし、今ではセキュリティコンサルとして独立し、その分野で右に出る者がいないほどの売れっ子になってる。
こんな逆転ってめっちゃあるよ。というか何も逆転していなくて、ただ彼らは好きなことを続けたんよな。または目の前のことをコツコツやり続けた。当時バカにしていただろう自分が本当に恥ずかしい。

好きなものを好きと言える人間がこれからは絶対かっこいい。
なんでもある時代に、誰かの為にやり続けることがかっこいい。
なんでも出来る可能性に溢れた20代、かっこいい大人になるための礎となる時代かと思う。
それぞれの、楽しい、やりたい、面白い、体験したい、経験したい、好きだ、そんなことを思う存分やってくれたらいいんちゃうかなー。
勇気がいるけど、これが幸せになる確率が高い生き方だと思う。
ぼくもまだまだ当時の自分に負けないようにがんばろうと思ってるし、皆さんの先輩として背中をみせられるようなカッコいい先輩でありたいと思うし、自分らしくこの正解のない時代を楽しんで歩んでいこうと思う。
70周年パーティーやりたいですね。そのときちょっとは寄付できるようになることが今の目標です。

43代チーフ2004年度卒 萩原寛之

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