心の底はどこ
半分あげるから、うまく二つに折れない私の為に、誰かにチューペットを折ってほしい、そんな季節。チューペットがほしいのか、鬱陶しい暑さとチューペットの冷たさと八月が割り増しする甘い味をシェアしてくれる人にいてほしいのか、本当のところは古いアルバムの間にでも挟んでしまっておけばいいんです。あんまり握ってしまうと、どんどん溶けてしまうし、結露で手がビチャビチャになってしまうから、二つの指でちょこんと挟んで大事に持つ。それでも、そんな時間は早く終わってしまえと言わんばかりにあっという間になくなってしまうのは、一体誰のいたずらなんでしょうか。
悲しいとき、悲しいとき。私の大切だった人にとって、私はまだ大切な人だったとき。
忌々しいもんでさ。今の自分も過去の自分も紛れもなく愛せるようになりたいのよ。当時にしてみれば、それはお気に入りのネックレスみたいに肌身離さず持っていたのに、今となっては鎖になって自縛するだけで。無理に背中を押す糧になんてならなくていい。小綺麗な額縁にでも飾って笑えればいい。いっそなかったことにでもなればいい。気が向いたら、どれだけダサくても振り切って着けこなしてみればいい。
感情の型はわかっていたい。どれだけ幸せと喜びを注いだら、型は溢れ、笑みが零れてくるのか。どれだけ怒りと悲しみを注いだら、型は溢れ、涙が溢れてくるのか。気が晴れない時っていうのは、どうにも型が見えないものです。目に見える感情の濁流が流れ込んできても、まるで底なしの型みたいに、まるでぽっかり穴の開いた器みたいに、注いでも注いでも満たされなくて。それでもいっぱいいっぱいで。情けなくて。型をひっくり返してもなんにもならなくて。それでいて口づけ一つでけろっと元に戻って。結局私にできることってなんなんでしょうね。
喜怒哀楽なんて全知全能には何光年って距離で程遠くて、怪人二十面相なんてまだまだ可愛いもんで、感情なんて星の数ほどあるんだよ。一つずつ丁寧に名前をつけていっても、言葉が足りなくなっちゃう。身体のどこにそんな宇宙が広がってるのかわかんないけどさ、時には一等星みたいにピカピカ輝かせたり、時には貴方にしか気づけないようなほんの僅かな光で他の星の中に紛らわせたり、そうやって見てもらうしか、見せつけていくしか、見つけてもらうしかないんだよ。感情と感情を無理やりこじつけた線で結んでさ、誰に馬鹿にされても、誰に理解されなくても、そういうもんだって言って、綺麗なものとして見せていくしかないんだよ。
私が目を閉じている数時間、数日、数年。瞼の表側でつくられる、私に見えない世界は、私にはどうしようもないんです。私は、私で精一杯だ。
サムシングブルー/飛鳥井千沙 著
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