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嫌い
愛は矛盾を生み出す。チョコレートが大好きで自分一人で全部食べてしまいたいけれど、妹が食べたいと言うから半分譲ってあげるとか。LINEで業務連絡以外の他愛もない会話をするなんて馬鹿みたいだと思っていたのに、恋人相手だったら毎日欠かさずに「おはよう」と送ってしまうとか。読書に微塵も興味がない私が、それでも紙の上に並んだ文字を目で追っていることだって、全部ぜんぶ愛ゆえだ。
視界の端で、ぐわんと大きく何かが揺れた。カツンッと硬い音を立て、有紗の指先からシャーペンが落ちる。折れたシャーペンの芯が、私の方に飛んでくる。まだ彼女の文字が侵食していなかった真っ白な紙の上に、彗星に似た黒い痕ができた。
ううっと呻き声をあげながら、彼女の頭もゆっくりとノートの上に落ちていく。ゴツン。部屋に響いた音は、なかなかに痛そうだった。
「はい、もう限界だよ。いい加減休みな」
私は読みかけのページを開いたまま、本をテーブルの上に伏せた。これをすると必ず厳しい口調で「その置き方やめて。本が傷つく」と注意をしてくる有紗も、今はそんなことを口にする余裕はない。空いた手で彼女の顔にかかった髪を掬いあげ、そのまま耳にかけてあげる。指先で頬を突いた。お風呂から上がってすぐに化粧水と美容液を塗り、最後に乳液で蓋をした肌がぴとりと指の腹に張りつく。
「でも締め切りがあるから」
「そんなこと言ったって、こんな状態じゃ何も書けないでしょ? 一回寝たら頭もすっきりするよ」
現に彼女はかれこれ三十分ほど意識を手放しては捕まえてということばかりを繰り返している。文章自体は二行半しか進んでいなかった。そんなふうにして書いた文章がまともなわけがないし、どうせ彼女はしばらくしてからその二行半を読み直してうーうー唸りながら消しゴムで消してしまうのだ。
「三十分くらい寝て一回リセットした方がいいって。ちゃんと起こしてあげるからさ」
咎められないのをいいことに、ぷにぷにと頬を突く。
ううううんとしばらく何かと闘っていた有紗は「じゅ、十分。十分だけ」と告げると折り曲げた腕を頭の下に敷き、そのまま眠りの海に沈んでいった。
締め切りの直前はいつだってこうだ。いつ充電が切れてもおかしくないふらふらの状態でペンを握り、ひたすら文字を書きつづける。小説を書いている時の彼女にとって、小説以上に大切なものは存在しない。私は小説が嫌いだけれど、そういうふうに真っ直ぐに好きなものに熱中する彼女のことは好きだった。
彼女が休んでいる間に、簡単にスープでも作ることにした。仮眠をとり終えた彼女は、今度こそ朝まで作業を続けるだろう。どんなに自分のお腹がぎゅーぎゅー鳴ろうと決してペンを止めようとはしない。可哀想になるくらい健気に音を奏でつづける彼女の胃袋の相手をするのは、私の役目の一つだった。
冷蔵庫からカットされたキャベツや人参、もやしが入った袋を取り出す。こういう時のためにスーパーで買っておいたものだ。続いて棚の中を覗くとインスタントのワンタンスープの素が真っ先に目についたから、それと一緒に煮込むことにした。今から作れば、ちょうど彼女を起こす時間になるだろう。鍋を取り出して、そこに蛇口から水を注いだ。
昔から、本を読むことが好きではなかった。特別読書が嫌いなわけでも、文字を読むことが難しいわけでもないけれど、単純に面白いと思わなかったし興味もなかった。自分から進んで本に手を伸ばすことはもちろんなく、小説自体への知識が浅いまま気づけは二十一歳を迎えていた。
そんなんだったから、というより、そんなんだったからこそ、私と彼女の物語の幕は開いた。
「先輩のスマホケース、おしゃれですね。『銀河鉄道の夜』の概念ケースとかですか?」
一年前の夏。締め作業を終え、休憩室でエプロンを畳んでいた時のことだった。その日初めてシフトが一緒になった彼女が、私と同じようにエプロンを丸めながらそう声をかけてきた。中村有紗。一週間前に私のバイト先に入ってきたばかりの、一個下の大学二年生。人当たりが良くて真面目で素直な子だと、一緒に仕事をした数時間の中でわかっていた。
「銀河鉄道の夜?」
「はい、宮沢賢治の」
宮沢賢治。読書と縁がない私でもさすがに知っている。そういえば、彼の有名な著作の中に「銀河鉄道の夜」という作品があった気がする。もちろん中身は知らない。このスマホケースは前に使っていたものに飽きを感じていた時に、たまたま雑貨屋で見つけたものだった。
「ごめん、私読んだことないんだよね」
ケースに描かれた星空を走る列車のイラストに視線を落とし、そう正直に答えると、彼女は「面白いですよ」と微笑んだ。そこには私が今までに何度か経験したことのある、読書経験のない人間を下に見ている様子が一切感じ取れなかった。純粋にその作品が好きだということが伝わってきて、素直や誠実といった彼女への印象がより一層濃くなった。
「ジョバンニっていう男の子が友人と夜空を走る鉄道に乗って不思議な体験をするお話なんです。といってもワクワク楽しい冒険ではなくて、かなり切ないお話ですけどね」
着替えを終えた彼女が髪ゴムを解き、さっきまで小さなお団子になっていた茶色い髪がふわっと広がる。
「すぐ読めるしおすすめです」
「そっか、今度読んでみようかな」
そう返したのは社交辞令というか、私の中では「行けたら行くね」と同じくらいの言葉だった。読めたら読むね。でも読まない可能性が高いし、というかほぼ確実に読まないから期待しないで。
「ほんとですか! もし読んだら教えてくださいね」
それなのに、その言葉への彼女の反応があまりにも可愛かったから。本当に私が「銀河鉄道の夜」を読んで、面白かったでも難しかったでも感想を伝えたら、あの三日月みたいな瞳はさらに細くなるのだろうか、なんてことを考えてしまったから。
私はその足で本屋に寄り、『銀河鉄道の夜』を買った。すぐ読めると言っていたわりには分厚い本で少し戸惑ったが、いくつか宮沢賢治の作品が収録された短編集であることを知って安心した。実際、その一作だけを読み終えるのにはそれほど時間はかからなかった。馴染みのない言葉が多かったり現実離れした情景を頭の中で想像するのに苦戦したりと、細部まで内容を噛み砕くのにはかなりの時間を要したけれど。
「え! わざわざ本買ってくれたんですか!」
後日、再びシフトが一緒になった時にその話をすると、彼女はそこそこ大きな声を出して目をまあるく見開いた。すぐに我に返り、スマホを持ったままの右手で口を覆う。その日はくるんとカールしたまつ毛がオレンジ色に染まっていた。目尻に塗られた緋色のアイシャドウとよく合っている。
「うん、読むって言ったしね」
もともとは社交辞令で言った言葉だったけれど、そんなことは棚に上げる。
「読んでくれたことはもちろん嬉しいんですけど、本を買ってっていうところがすごく嬉しいんです。ネットでも読めるのに。え、嬉しい! やっぱり紙がいいですよね」
読書と距離がある私は小説を読むことイコール本を購入することだったのだけど、その発言で著作権が切れた作品がネット上で無料で読めることを思い出した。わざわざ駆け足で閉店間際の本屋に行かないでも「銀河鉄道の夜」を読むことはできたわけだ。正直、一番に思ったのは「五百円が勿体なかった」ということだった。でも、彼女がとても嬉しそうだから、すぐにそんなことはどうでもよくなってしまった。もともと小説の中身というより彼女がどんな反応をするのかが見たくて読んだようなものなのだし。
後から聞いたことだけれど、彼女が初めて私のことを「いい」と思ったのもこの瞬間だったらしい。今の時代に、もともとそれほど本が好きなタイプでもないのに、わざわざ本屋に行って紙の本を買って作品を読んだところ。
この話を振り返る時、彼女はいつも「きっかけが『銀河鉄道の夜』なんておしゃれだよね」と嬉しそうに笑う。こんなにも下心が透けて見える始まりのどこがおしゃれなのかが私にはよくわからない。でも、彼女が幸せならそれでいい。
そうやって始まった私たちの関係は特に大きな壁にぶつかることもなく順調に育まれ、今では有紗が私の家に泊まることも珍しくなくなった。最初は敬語だった彼女もいつしか砕けた口調で私に話しかけ、「瑞希」と私の名前を呼ぶようになった。
彼女が小説を書いていることも、本気で小説家になりたいと思っていることも仲を深めていく過程で自然と知った。自宅の最寄駅や好きな食べ物を教えてくれるのと、何も変わらなかったと思う。小説を書いていることはそれくらい、彼女の中で当たり前のようだった。
そんな彼女は、私のことを周りの人に伝えていない。友だちと遊園地に遊びに行った時は、友だち単体の写真も二人で顔出しパネルから顔を出して楽しそうに笑っている写真もストーリーズに載せるのに。小説が完成したら、嬉々として終わりの三行くらいが映ったパソコン画面の画像をタイムラインに流すのに。私と遊びに行った時は、たとえ風景であっても写真をSNSに載せることはない。バイト先で先輩や同期から「いい感じの人とかいないの?」と聞かれると、彼女はいつも曖昧に言葉を濁す。クリスマス・イブは二人で夜景を見てから私の家で朝までダラダラと映画を見ていたのに、翌日に「何してたの?」と聞かれても、ふつうに友だちと遊んでましたとしか答えない。
バイト先はあくまで仕事の場所だし、私だって積極的にプライベートの話をする必要はないとは思っている。でも、そんなふうに隠されているのは正直に言って気分が悪い。
一度、どうして私のことを隠すのかと尋ねたことがある。深刻そうな素振りは見せずに、あくまで「そういえば」とたった今思い出したように。有紗は「なんか恥ずかしくて」と私から目を逸らして答えた。なんか恥ずかしくて? 私が怪訝な顔をしていることに気づいた彼女が、慌てた様子で付け加える。瑞希と付き合ってることがじゃないよ。瑞希のことは大好きだし、瑞希と付き合ってることが恥ずかしいなんて思ったことないけど、自分が誰かと付き合っていることっていうか。なんか「好き」とかそういうのを探られたりするのが苦手なの。パタパタと左右に揺れる両手が彼女の焦りを十分すぎるほど伝えていた。それ以上放っておいたら、これまでの恋人とのこともあんまり周りに言わなかったとかそういう聞きたくない話が飛んできそうな気がして、私は言いたいことを全部ぎゅっと押し殺して彼女を抱きしめた。
彼女のことが好きだから、彼女を構成するすべてをもちろん愛している。小学校の記憶も中学での苦い経験も、眩しいほどの高校時代も。何か一つでも欠けていたら、彼女はこうして私の腕の中にいなかったかもしれない。
だからこそ彼女の触れてきたすべてのものが、憎くて悔しくてたまらなくなる時がある。彼女の過去の恋人たちはもちろん全員この世から消えてほしいし、その人たちが残したものが一つ残らず彼女の中から消え去ってほしいと思う。それらがなくなってしまったら、私の目の前にいる彼女は私が好きな彼女とは全く別の存在になってしまうかもしれないのに、それでもそう願うことをやめられない。
小説が好きなことも自分でも小説を書いていることもするりと話してしまえる彼女が、私とのことはなんか恥ずかしくて口にできないと言った。悔しい。小説と同じように、私のことも自分を作る一つの大きな要素として紹介してよ。私のことを何よりも大切だと発信してよ。
有紗が心から小説を愛しているから、私は小説が嫌いになった。
キャベツの芯をお玉のふちで軽く潰す。半透明になった芯に、じんわりとお玉の銀色が沈んでいくのを見て、私はもういいかと火を止める。時刻もほぼ、彼女と約束した十分後になっていた。食器棚から二つのお椀を取り出して、スープを注ぐ。くたくたになった野菜と綺麗な形のワンタンを彼女の方に分けて、皮が破けて中身が剥き出しになったワンタンやちぎれた皮、キャベツの芯は自分の方に入れた。
「有紗、時間だよ」
お椀と木のスプーンを運びながら声をかける。んんんと声を絞り出しながら、彼女はゆっくりと体を起こす。前髪がぴたりと額に張りつき、顔の右側には何本か赤い線が残っている。
「簡単に夜食作ったから、これ食べて」
「ありがとう、瑞希って完璧だあ。絶対にいい奥さんになると思う」
目を擦りながら、有紗はふにゃっと笑う。最後の一言がいやに他人行儀に聞こえて胸が騒いだけれど、気づかないふりをした。
一旦閉じられたノートはそのままテーブルの端に移動させられる。空いたスペースにお椀を二つ並べた。いただきます、と律儀に両手を合わせて挨拶をしてから有紗はスプーンでワンタンを掬い、それを口にする。美味しいと笑って私を見る。よかったと答えてから私もスープを啜る。コンソメの香りが口いっぱいに広がる。
何度か彼女が書いた小説を読ませてもらったことがあるけれど、私は彼女の小説が好きではないみたいだった。
私はそもそも読書自体に魅力を感じていない。面白いとももっと彼女の作品を読みたいとも思えないのも、至極当然のことなのかもしれない。でも、大好きな彼女が書いた小説なら、私にとってそれは特別なものであるべきだった。今まで小説は好きじゃなかったけれど彼女の作品を読んで世界が変わりました、なんて魔法みたいな力があるべきだった。
それなのに、私は彼女の小説を特別だと思うことができない。作者を伏せた状態でいくつかの小説を読まされても、その中から彼女の作品を見つけ出すことなんててんでできる気がしない。この世に存在する数多の小説と同じで、苦手意識はないけれど自然と手が伸びてしまうような惹きつけられるものがないと感じてしまう。彼女の小説が面白くないとか才能がないとかそういう話をしたいわけではなくて、私にとって彼女の書いた小説が「大好きな彼女の一部」と感じられないことがどうしても引っかかる。だってそんなのまるで、お前には彼女のすべてを愛すことはできないと言われているようなものじゃないか。
小説は彼女の人生にとって、切り離すことのできない大きな重要なピースだ。彼女の人生はきっといつだって小説と共にあった。彼女が私のことを「いい」と思ったきっかけだって小説だし、そうわかっているから私は彼女との共通点を増やそうと、興味もないのにわざわざ本屋で本を買って小説を読みつづけている。私が小説を憎むのはお門違いだし、それは彼女自身への否定にも繋がりかねない。
それでも私は小説が嫌いだった。これほどまでに彼女を夢中にし、彼女の人生に彩りを与え、これから先の人生も共に生きていきたいと思わせる小説が大嫌いだった。
有紗サイドのお話
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