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わたしの世界

 有紗にとっては小説が一番大事だもんね。私よりも、ずっとさ。

 それは、瑞希の家で二周年のお祝いをした日の翌朝。朝日に照らされて普段より白く見える駅までの道を、重いたい身体を引きずりながら並んで歩いている時のことだった。

 咄嗟にでた「え?」という乾いた声はうまく喉を通らず、ただの吐息になる。瑞希は遠くの空を飛んでいる鳥を見ていた。

「どっちも大事だよ。瑞希のことも、小説も。比べられない」
「うん、わかってるよ。ありがとう。言ってみたかっただけなんだ、こういう面倒くさい彼女みたいな台詞」

 いたずらっ子みたいな笑顔を浮かべる瑞希と目が合う。瑞希のこんな顔はなかなか見ることがない。
「何それ」
あー面倒くさい面倒くさい、とわざとらしく息を吐く。

「ごめんね」
笑いながら瑞希はわたしの右手の甲に触れて、そのままするりと冷えた指先を絡めてきた。いいよと答える代わりに、わたしも指先に少しだけ力を入れる。冷たくも湿度のある風が髪を揺らし、普段は使わない柑橘系のヘアオイルの香りが鼻先をくすぐった。


 実はわたし、橋本さんと付き合ってて。
 今まで、どこか気恥ずかしくて言うことができていなかったその事実を口にしたのは、答えを求めていたからだと思う。
 茜さんは目を見開いて「え!」と大きな声を出し、三宅さんは楽しそうに笑った。

「え、待って。本当に何も知らないんだけど!」
 ビールジョッキを置き、ぐいと顔を寄せてくる茜さんに「だって言ってないですもん」と返す。
「ちょっと全部教えてよ。はい、まずいつから付き合ってたんですか?」

 不満そうな顔をした茜さんが、拳をマイクのようにわたしの口元に近づける。普段はフリーのデザイナーをやっているという彼女は、どんな場面でもコミュニケーションを取るのが上手くて、いつだって会話の真ん中にいる。三宅さんはまたケラケラと笑いながら、その様子を見ていた。今日はだいぶ酔っているようだ。

 それからわたしは、茜さんの誘導に従って自分と瑞希のことを順に話していった。バイトを初めてすぐの頃に、瑞希のスマホケースについて会話をしたこと。わざわざ本屋に行って本を買ってくれたところを「いいな」と思って、食事に誘ったこと。それからは順調にお出かけやメッセージのやり取りを続けて、夏頃に付き合いはじめたこと。

 きつく結ばれていたリボンが解かれていくように、するすると付き合うまでの経緯を話しているのを、どこかぼんやりと客観的に見つめている自分がいる。少しだけ身体が重い。ちょっとでも意識を逸らせば、すぐに自分が今どこに向かって話をしているのかを見失ってしまう気がした。酔っているのはわたしも一緒だった。

「それじゃあ二人は付き合い始めて、もう二年は経つの?」
 三宅さんからの問いかけに、そうですねと少し考える素振りをする。つい先日、二周年の記念日を迎えたので改めて考えるまでもないのだけれど、即答するのはなんだか恥ずかしかった。

「二年とちょっとくらいですね」
「そっか。ぜんぜん気づかなかったな」

 皿の上に少しだけ残ったキャベツを丁寧に箸で摘み、三宅さんは柔らかく笑った。つられてわたしも口角を上げながら、やっぱりわたしはすごく瑞希のことが好きだと思った。

 あの日、わたしたちは手を繋いだまま他愛もない会話をして駅に向かった。改札の前で「またね」と手を振り合って別れた瑞希は、夕方には何事もなかったかのように写真を送ってきた。『楽しかった。これからもよろしくね』と言葉を添えて。あの発言は瑞希の言葉どおり、ただの悪ふざけだったのだろう。何も心配することはない。

 それなのに、飲みの席で自分の気持ちを確かめるようなことをしているのは、正直なところ自分自身がその問いの答えに納得できていないからだった。わたしには、自分のことも含め物事と距離を置き、それについて深く知らないようにしようとする癖があった。小説と瑞希、どちらが大切なのか。きっと、小説も瑞希もどちらも大切なのだと思う。それは間違いない。順位なんてつけられない。でも、それだけでは何かが欠けていると思ってしまうのだ。

「いいなあ、めっちゃ青春じゃん。羨ましいよ」
 一通りわたしたちの馴れ初めを聞いた茜さんが泣き真似をしながら、枝豆を摘む。
「というか、もっと早く教えてよ。実は橋本さんと付き合ってました、なんて橋本さんが辞めちゃってから教えられてもだよ」
「それはすみません。ちょっと言いにくくて」
「そんなの気にしなくていいのに。恋バナはみんな好きじゃん」

 この人はつい先日も、彼氏にもう一人付き合っている人がいたとかで休憩所で泣いていた。三宅さんに背中をさすられながら涙を流し続ける茜さんを見て、なんでそんなことができるんだろう、と同情するより先に不思議に思ってしまう自分がいた。わたしは、瑞希と付き合っていることをこうして彼女がバイトを辞めた今になってようやく打ち明けることができたのに。

 三人のグラスが同じタイミングで空になったのを合図に、三宅さんが「そろそろ」と口を開く。テーブルの隅に置いてあったスマホを確認すると、時刻は二十三時を回っていた。明日の予定はお昼過ぎのゼミだけだし、今から帰れば充分に眠れそうだった。三宅さんに言われた通り彼女に二千円を渡し、茜さんと先に店を出る。

 九月の上旬。昼間は三十度を上回ることもしょっちゅうだけれど、夜になれば秋がすぐそこまでやってきていることを感じる。夜空を見上げると、星は見えないものの、月のまわりがぼんやりと白く光っていた。

 ちょっと寒いね、と茜さんはトートバッグから取り出したカーディガンを羽織った。
「そうだ、有紗ちゃん。尾崎穂乃果って知ってる?」
「え?」
 手鏡を覗き込みながらリップを塗り直していた茜さんは、はみ出たグロスを指先の腹で拭った。

「ほのちゃんとは本職の関係でちょっと交流があるんだけど、この前バイト先に来てくれてさ。有紗ちゃんに見覚えがあるみたいで、知り合いな気がするって言ってたんだけど」

 ドクドクと心臓の動く音が体内に響く。
「聞いたことある名前のような気もしますけど、あんま覚えてないですね」

 声の震えを抑えながらそう返すと、茜さんは特に気にはならなかったようで「ただ知り合いに似てたってだけなのかもね」と、手鏡をバックの中に戻した。

「お待たせ」
 かなりの量のお酒を飲んでいたはずの三宅さんが、凛とした姿勢のままこちらに近づいてきた。この人が潰れるのを見たのは、一昨年の忘年会だけだ。

「ガムもらったけど食べる?」
 差し出されたガムを受けとり、口に入れた。鼻へと抜けていくハッカの香りで、崩された頭の中が少しだけ整理される気がした。

 朝の空気が好きだった。自分以外誰もいない教室。サッカー部の朝練をする声だけが風に乗って聞こえてくる。窓からは朝日が差し込んで、優しく机の上に光を落としてくれる。ホームルームが始まる四十分ほど前に登校しては、この穏やかな空間で予習をするのが中学二年生のわたしの日課だった。

 バタバタとクラスメイトたちが登校してくるまでの、約二十分間。朝独特の、知識が脳にするりと入っていく感覚や、人目を気にせずに伸びができる快適さに、普段は何かに押しつぶされている心が解放されるのを感じていた。

 一年から二年に上がるタイミングでクラス替えがあった。そうして新しく始まったクラスの中で、わたしは誰の一番にもなれなかった。体育の授業などで「三人組を作りなさい」と言われれば誰かが声をかけてくれるけれど、それが二人とかそれを基準に作られる四人、六人などの偶数だとわたしには行き場所がなかった。どこに入れてもらえばいいかがわからず、ただまわりをきょろきょろと見渡すだけの時間。恥ずかしさと申し訳なさに心が板挟みにされる。

 いじめられたわけではない。物を隠されたりとか、話しかけても無視されたりするようなことは一度だってなかった。その「考えすぎなだけかもしれない」と思えてしまえる程度の孤独が、さらにわたしを追い詰めていたと今ならわかる。

 その日もいつものように、わたしは一番乗りで教室に到着していた。肩にかけていたスクールバックを机の上に置いて、取り出した教科書やノートを今度は机の中に入れる。

 さて、この静かな時間をどう過ごそうかと椅子に腰をかけたところで、カラカラと扉が開けられる音がした。顔を上げる。教室の前扉のところにクラスメイトの尾崎さんが立っていた。スカートを二回ほど折っているのか、紺色の布から膝が顕になっている。

「おはよう」
 尾崎さんがこんな時間に来るなんて珍しい。ほぼ毎朝一番乗りに教室に来ているわたしは、大体誰が何時くらいに来るかを把握していた。

「はあ」
 返ってきたのは、挨拶ではなかった。決して大きな音ではなかったのに、尾崎さんがついたため息がはっきりと耳に届いた。朝の教室はあまりにも静かだったから。

「なんか」
 咄嗟にその先に続く言葉を聞きたくないと思った。わたしへの苛立ちや嫌悪、そういう負の感情を彼女が抱えていることを瞬時に感じ取れてしまった。

 これ以上一秒でもこの空間にいたら、明確に傷つけられる。そうわかっていたのに、指先はかすかに震えていたのに、それでも尾崎さんの決して鋭くはない視線から目を逸らすことができなかった。釘に打たれ、身体を壁に固定されたかのようだった。

 どれほどの時間、そうしていたのだろう。その時まわりでどのような音が鳴っていたのかを一切覚えていない。自分の体内をドロドロと血液がまわるのだけを感じ取る。

「いいや、やっぱり何でもない」
 もう一度ため息をついて、尾崎さんは席についた。

 朝日を受けて、いつもより白くぼんやりとした世界の中で、拒絶されたという感覚だけがわたしに残された。

 挨拶を返してもらえなかった。顔を見てため息をつかれた。たったそれだけのこと。そう言われたらそれまでだけれど、それまでだってぎりぎりのところで保っていたわたしの心を壊すには、充分すぎるくらいの出来事だった。

 その日を境に、ホームルーム前の時間を教室で過ごすことをやめた。遅刻ぎりぎりの時間に登校して、誰にも声をかけることなく自分で自分の存在を殺しながら、席についた。昼休みは図書館に駆けこんで、それ以外の十分休みでも決まって本のページを捲るようになった。誰かの機嫌を損ねたり、悪く思われたりする言動はしたくない。でも、何かの動作をしていないと、このまま自分が空気に溶けてなくなってしまう気がした。

 紙の上に並んだ文字を目で追う。頭の中が物語で満たされる瞬間だけは、嫌なことを考えないで済んだ。元々は趣味だったはずの読書が、たった一つの残された味方になったのはいつからだったのだろう。あの頃のわたしにとって、小説を読むことは呼吸に等しかった。

 お風呂から上がり、ポンポンとタオルで髪の水分を拭き取りながらベッドに腰をかける。スマホがいくつかのメッセージを受信していた。指先でそれらをタップすると、通知の一番下に瑞希からのメッセージがあった。

『今日はもう寝るね。土曜日に会えるの楽しみだな。おやすみ』

 一つ年上の瑞希は、今年の四月に一足先に社会人になった。研修やら何やらと毎日やることに追われている。そんな瑞希と反比例するように、わたしは就活もひと段落し授業も残すは週に一回のゼミだけと、どんどん自由な時間が増えていく。暇な時間が増えれば増えるほど、瑞希と一緒にいられない寂しさが浮き彫りになってわけもなく叫びたくなることがあるけれど、それでもわたしが彼女からの愛を疑わずにいられるのは、こういう些細な気配りの数々なのだと思う。相手の中にちゃんと自分の存在があると思える瞬間。

『わたしも楽しみだよ。おやすみ』とメッセージを返してから、スマホをテーブルの上に戻した。
 髪の毛を拭いていた左手が動きを止めて、そのままだらりとタオルケットの上に落ちる。

 尾崎さん、か。

 まさか今になって当時のクラスメイトの名前を耳にするなんて思いもしなかった。尾崎さんはあの頃のわたしにとって、真っ黒な日々を象徴するかのような存在だった。中学を卒業してからもう何年も顔も見ていないけれど、彼女に対する恐怖心は今でも心臓に刻まれている。

 上半身をベッドの上に倒した。まだ湿った髪が布団に触れている感覚はあったけれど、今はドライヤーを取りに行く気力もない。嫌なことを思い出した。ずるずると引きずられてくるあの頃の記憶を断ち切るように、わたしは瞼を下ろした。

 休日は夜遅くよりも、夕方くらいの時刻の方が電車は混んでいるのかもしれない。そんなことを考えながら、瑞希の家へと向かう。

 瑞希が社会人になってから、わたしは金曜か土曜の夜に、こうやって瑞希の家を訪ねるようになっていた。今週は金曜の夜に瑞希が同僚との飲み会の予定を入れていたから、土曜日。前までは曜日なんて気にせず好きな時に好きなだけ一緒にいることができたから、寂しくないと言えば嘘になる。でも、瑞希が忙しい中でも何とかわたしとの時間を作ってくれていることはわかっているから、我儘は言えない。

 駅前のコンビニで何本かお酒を買った。学生の頃はサワーばかり飲んでいた瑞希の最近のお気に入りはビールだ。おつまみを買い忘れたことにコンビニを出てから気づいたけれど、きっと瑞希の家に何かしらあるだろうからそのまま彼女の家に向かった。

 家の前に到着してから、瑞希に電話をかける。数回のコールの後、カチャッと扉の奥でドアチェーンの外れる音がした。

「じゃじゃん」
 ドアの隙間からちょこっと覗いた瑞希に見せるように、コンビニの袋を持ち上げた。

「わ、ありがとう。助かる」
 正確に数えてはいないけれど、おそらく百回は来たことがある瑞希の家に足を踏み入れる。靴を脱ぎ、瑞希が出してくれたわたし専用の水色のスリッパを履いた。

「おつまみ買ってくるの忘れちゃった」
 前を歩く背中に声をかける。「適当に何か出すよ」と瑞希は台所に戻った。

 瑞希の家は白を基調としている。最初の頃は思わず背筋が伸びてしまうくらい気を緩められなかったけれど、いつだか瑞希が「センスがないから、ニトリにあったモデルルームのをそのまま買ったの」と少し恥ずかしそうに目を逸らしながら教えてくれた時から、だらりと身体を崩せるようになった。

「今日は? 何か締め切り近いの?」
 台所で何かの準備をしているのか、カチャカチャと食器の音がする。

「ううん。今日は大丈夫。ノートも持ってきてないし」
 少し前に二人でクレーンゲームで取ったクマのぬいぐるみを膝の上に置いた。耳を摘んで軽く引っ張る。瑞希も同じような扱いをしているのか、先週よりもさらにだらりと耳が垂れ下がっている気がした。

 付き合う前から、わたしが小説を書いていることを知っていた瑞希は、付き合い始めてからは当然のようにわたしのことを応援してくれている。

 締め切りの直前になると、わたしは頭の中が小説を書くことでいっぱいになって、食事やら睡眠やらについて考える余裕がなくなってしまう。締め切り前だから、とお風呂に入らずもちろん着替えもせず、一週間家に閉じこもってひたすら手を動かすことも珍しくない。以前、飲まず食わずで数日過ごしていたら、利き手の痙攣が止まらなくなって執筆どころでなくなったことがあったから、最低限の食事は取るようにしているけれど。

「私が食事とかお風呂とか有紗が生きるために必要なことを全部面倒見るから、有紗は何でも好きなようにしていいよ」

 小説を書いている話の延長でわたしがそういう人間なんだということを告げると、瑞希はすぐにそう答えた。わたしのダメ人間っぷりに引くことも、そんな生活やめなよと注意することもなく、微笑みながら受け入れてくれた。そういう優しさがわたしは好きだった。憧れていた。それをわたしも瑞希に返したいと思っていた。

 ああ、なんだ。そうじゃないか、瑞希と小説、どっちが大切かなんて。

 中学生の時、この世界は汚くて醜くて辛くて、いいことなんて何一つないと思っていた。逃げ込んだ先の小説の世界は優しくて、美しくて、当時のわたしの目にはひどく魅力的に映った。わたしはここで生きていきたい。そう思ってしまうほどに。

 二年前のあの日。瑞希が本屋に行って『銀河鉄道の夜』を買い、苦戦しながらも何とか読み切ったと知った時に、わたしの身体を何かが走った。それは遠目で見れば、「この人いいな」という気持ちなのだけれど、ちゃんと手のひらに置いてまじまじと見つめた時、そこにあるのは「知りたい」という、たったそれだけの感情だった。

 いつだってわたしは、瑞希のことが知りたい。わたしのためにトーストを焼いてくれるのはどうして? わたしのためにお風呂を掃除してお湯を張ってくれるのはどうして? わたしのために本屋に行って本を買ってくれたのはどうして? 瑞希がわたしに向けてくれる感情を知りたい。それらがどのように生まれ、どのような行動へと形を変えていくのか。一つの凹凸も見落とさないように全ての角や溝に触れて、はっきりとその形を脳内に刻みたい。

「ごめん、お弁当の作り置きのあまりしかないんだけど」

 瑞希がいくつかの小鉢をお盆に載せて、運んでくる。丁寧に白胡麻が振り掛けられたほうれん草のおひたしに、人参とインゲンが巻かれた肉巻き。瑞希の前にビール、わたしの前にレモンサワーの缶が置かれる。

 中学時代から、もう七年という月日が流れた。小説だけに頼らなくても生きていけるくらいにわたしは強くなったけれど、それでも今も現実世界に起こることはどれも、ガラスの板の向こうにあるように感じられてしまう。それ自体への興味なんてなくて、ただ小説に書かれていたものの存在を確かめたり、小説に書くためのものを探したりするための場所だった。でも、瑞希だけは違う。

「ねえ、瑞希」
「ん?」
「わたし、瑞希のことが好きだよ」
「何、急に」
 瑞希が笑いながら、箸を手に取る。
「真面目に。瑞希のことがわたしは大好き」

 確かめるように言葉にすると、瑞希は持ち上げかけていた箸を戻して、ぎこちなく首を動かしながらわたしを見た。黒目に、わたしの姿が映っている。

 瑞希を知りたい。あなただけは、わたしの世界の中にちゃんと存在する。

 わたしという人間は小説をもとに作られていて、それはもう変えられない。だってあの頃のわたしを救ってくれたのは、間違いなく小説だから。そして、そうやって作り上げた世界の中で、今、瑞希のことを好きだと思っている。きっとこれからわたしの世界は、瑞希と一緒に観た風景、聴いた音楽、そうやって触れるものによってさらに広がっていくのだと思う。だからどちらも大切なのだ、当たり前に。

 腕が伸びてきて、瑞希の細い指がそっとわたしの頭を撫でた。指先が髪の間に入ってくる。社会人になった彼女の爪はただ淡いピンク色で塗られているだけでストーンなんかはついていないから、髪が引っかかることもない。するりと毛先まで滑り降りた指が、今度はそっとわたしの頬にとまった。

「うん。私も」
 瑞希がゆっくりと言葉を発して、それから急に我に返ったように笑った。つられるようにわたしも笑う。彼女の手が離れていって、再び箸を握った。


瑞希サイドのお話

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