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しゃぼん玉に帰した恋

すごくすごく好きな人がいたことを最近思い出しました。
もう9年くらい前のお話。思い出したのも突然だったけれど、そもそもなんで忘れていたんだろう。そんな大切な記憶を。

アロマンティックを自認しています。20数年生きていて、恋をしたことがありません。これからしそうな兆しもありません。

きっと一生私は恋のときめきを知らないで死んでいくんだろうなと気がついたのは、高校1年生の秋のことでした。

それからいろいろなことがあって、今は付き合っている人がいます。私が好きになりました。

家族に、友だちに、推しに。たくさんの「好き」を知っていたのに、その人に向ける「好き」はどうしてもそれらのどれとも同じには思えなくて、これは何なんだろうと思っているうちに2年記念日を迎えていました。

でも、これは恋じゃない。ずっとそう思っています。

会いたくて震えたことも、想うほどに胸が苦しくなったこともないから。そりゃあ、枕にたくさん涙を吸ってもらった夜も、電車の中で泣きながら友だちにDMを送って相談に乗ってもらった夜もあるけれど。
少し離れたところから見たら、とても穏やかで凪のような愛だと思います。

この人の何をそんなに好きなのかしらと考えて、ああかつて自分には同じ色の、でももっと濃度の濃い好意を寄せていた相手がいたなということを思い出しました。

それが私がずっと忘れていた、9年前に好きだった人。

会えただけで心拍数が上がって、心臓のあたりから全身にむず痒い感覚が広がって。なぜかそれらが全て指先に集中して、数10センチ先にいるその人の温度が腕に伝わってくる気がする。

苗字以外、もう何も覚えていません。声も、顔も、背丈も、下の名前も、全てすべて忘れてしまった。今どこで何をしているかもわからない。

それでも覚えてる。

話しかけられるたびに、暖色に染まったいろいろな感情が溢れ出して泣きそうだった。

きっともう会えないということを悟った後も、もしかしたらという希望が捨てられなくて、次会えた時にと消費期限の長いお菓子を買った。

話している時の高揚感も、ぼんやりとした心地良さも、彼氏に向ける「好き」と限りなく近いけれど、違う。

もっと苦しくていつだって形容できない感情が零れそうで。
当時の私は真っ暗な世界を生きていたけれど、その人の存在は間違いなく、私の人生における数少ない光の一つでした。

あれこそが恋だったんじゃないかと今になって思います。

叶わなかったからでしょうか。でも、あの時の私はまさか自分がその人のことを好きだということにも気づいていなくて、今の関係以外の何かに自分たちがなることなんて1ミリも想像できなかった。そんなこと望んでいなかった。

ただひたすらに、見返りなんて求めていないが故の真っ直ぐさで、私はその人のことが好きでした。

本当はもっと当時のことを書きたいんです。でも、書けない。
もっといろいろなことがあったはずなのに、思い出そうと記憶の棚を開けて中にしまってあったものに触れると、それらは空気に溶けるように跡形もなく消えてしまいます。

模擬テストの時に時計を忘れてしまったら、銀色の少しゴツい腕時計を貸してくれたこと。
今夜のアメトーークが高校野球だよと教えられた時に、あまり興味がなくて首を捻ったら苦笑されたこと。

こうやって触れて、言葉にしていくたびに、あの時のまま大切にしまってあった記憶の欠片が、色褪せてしまう。まるでそんな事実なかったかのように。

私、彼氏に何回も「あなたのことを人生で初めて好きになった」と言いました。

でも、そうじゃなかった。あの時の私は生きることに必死で、そこに差し込んだ光がただただ愛おしくて、それが恋だったことにまわりがすっかり明るくなった今になってようやく気づくことができました。

だから今回、敢えてその人のことを書きました。

どうせ私の中に残っていたって何の意味もない思い出です。触れたら消えてしまう泡沫のような記憶なら、もういっそ全部自分で消してしまえばいい。そう思って。

当時はもちろん、思い出してからも誰にも一度も話していなかった私の初恋のお話でした。

(書ける範囲で)近況。Twitterとかでもそうだけど、もの書きとしてあれこれもいいけど、もっとみんなだらだら日常をつぶやいてほしい。そう言う自分も最近はあまりしてないけど。 / amanatz先生より

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