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ファイナルファンタジーⅡ二次創作小説 『野ばらの旗』 第五章 天衝の風


   一


 吐く息が白かった。 
 四日前に、大雪が降ったらしい。通りにはさほど残っていないが、日かげになるところには、まだかなりの雪が残っている。
 ポフトの民は、せわしなく働いていた。
 七日前に、大戦艦の爆撃を受けている。港や船も破壊され、ポフトの産業は壊滅的な状況となった。救援物資を送る余裕もなかった。まだ、アルテアも復興途中なのだ。フィン脱出の際に持ち出した金銀は、すべて溶かし、貨幣として鋳造し直している。それでも、あらゆるものが、叛乱軍には足りなかった。
 特に足りないのは、人だった。直接、叛乱軍に味方しなくてもいい。帝国へ協力する諸侯が多い。そういった諸侯たちを説得するため、ヒルダはポフトへ来ていた。
 侍女たちを連れずに旅をするのは、ヒルダにとってはじめての経験だった。身のまわりのこともすべて自分でやり、時には自ら食事も作る。新鮮な気分だったが、旅を愉しむような気分ではなかった。アルテア、そしてここポフトでも、民は苦しんでいる。
 宿をとり、馬で諸侯たちの領地へおもむいていった。
 ヒルダが自ら足を運んだことに、大抵の諸侯たちは驚いたが、さほど協力は得られなかった。叛乱軍についたとなれば、いつ大戦艦が領内に飛来するかわからないのだ。
 大戦艦はまだ完全ではないと思われたが、フィンの北に築かれた補給基地で整備を受け、各地の都市を攻撃しはじめた。そして、大戦艦の驚異的な破壊力を、誰もが目の当たりにした。
 各地で賊徒が横行し、叛乱軍の領地でも、一時は治安が悪化した。民の不安を思えば、賊徒に走る者の気持ちもわからなくはない。賊徒の説得には、ミンウが当たった。説得に応じない賊徒はやむを得ず鎮圧し、軍に組みこめる者は組みこんだ。いまアルテアにはおよそ一千の兵がいて、町の外で野営をし、調練を重ねている。
 ミンウは、各地の人員や、装備、兵糧の備蓄など、常に正確な数を把握していた。しかし、政務に追われるいまは、なかなかそこまで手は回らない。若い文官の中から何人か選び出し、少しずつ仕事を教えている。兵站は、スティーヴが担当していた。
 ヒルダがアルテアの外へ出ることに、最も強く反対したのがスティーヴだった。
 五十年以上もフィンに仕えている老臣で、ヒルダが叛乱軍の指揮を執るようになってからは、目付役のようなかたちとなった。口やかましいところはあるが、国家のことを第一に考える忠臣である。フリオニールたちのことをあまりよく思っていないようだが、彼らが旅をするのに必要なものは、大抵スティーヴが用意していた。
 結局、供をつけるということで、フィン国王である父の許可を得て、渋々スティーヴも同意した。
 供は、ゴードンと、二人の兵だった。先頭がゴードン、その後ろがヒルダ、二人の兵はそのあとに続き、ヒルダの背後を守るというかたちで歩いている。
 目立つのを避けるために、二人の兵は具足を着けず、得物も懐の短剣のみだった。ヒルダはつばの広い帽子を深く被り、あまり顔を晒さないようにしていた。民の中には、叛乱軍に対してよく思わない者もいる。叛乱軍が抵抗をやめないから、帝国軍は見せしめにポフトを爆撃した、という見方もできるのだ。
 帝国の間者が、ポフトの民に紛れている可能性も否定できない。最も気をつけるべきは、暗殺だった。二人の兵は、手練れを選んである。道中では、ゴードンに剣や体術の稽古をつけたりもしていた。
 ゴードンは、以前よりもずっと逞しくなっていた。兄の死と自分の不甲斐なさを嘆き、酒に溺れる日々だったが、フリオニールたちが同志に加わってからは、溌剌としている。
 当然ヒルダにとっても、スコットの死は衝撃だった。翌年、ヒルダが二十歳を迎えた時、スコットと結婚するはずだった。親同士が決めた縁談ではあったが、ヒルダは喜んで受けた。はじめてスコットに会った時の爽やかな笑顔は、いまでも忘れない。やさしく、それでいて峻烈な男だった。スコットへの想いは、心の奥底にしまった。パラメキア帝国との闘いに勝利することが、スコットへの弔いにもなる。そう信じている。
 宿に着くと、ヒルダは帽子を脱ぎ、旅装を解いた。
「お帰りなさいませ、マリア様。風呂が沸いております。夕餉ももう間もなく」
 宿の主人は、腰の曲がった老人だった。宿の台帳には偽名を使った。身分も、ポフトから麦や布の買い付けに来た商人と、その従者たちということにしている。
 偽名を書くという時に、ふと浮かんだ名前がマリアだった。ありふれた名で、怪しまれることもないだろうと思った。
 十六歳の女でありながら、マリアは実際に戦場で闘っていた。並の兵よりも弓をよく遣い、最近ではミンウから魔法を教わり、少しずつものにしているという。正直、マリアを羨ましいとも思う。
 自分は、戦場で闘うことはできない。できるのは、耐えることだけだ。耐えて、旗を降ろさない。旗を掲げ続けていれば、必ず人は集まってくる。そしていつの日か、パラメキア帝国を打ち倒す。
 ゴードンと二人の兵が、外に出ていった。夕食の前に、稽古をするのだろう。
 ゴードンだけは、腰に剣を佩いていた。スコットの形見の剣だ。以前は、あの剣を見るたびに胸が締めつけられたが、近ごろは馴れた。人はそうやって、時とともにいろいろなものに馴れていくのだろうか。
 窓の外に、ゴードンの姿が見えた。
 ゴードンの腰の剣に、もう一度だけヒルダは眼をやった。

 扉を叩く音で、眼が醒めた。
 窓の外は暗い。夜明け前だった。
「起きてくれ、ヒルダ殿」
「なにがあったの、ゴードン?」
「蝙蝠の者からの知らせだ。セミテの山塞が大戦艦の爆撃を受けた。それだけではない。十日以上も前に、サラマンドが三百ほどの軍に襲撃され、守兵の五百が全滅したそうだ。大雪が降ったことで、連絡が遅れたのだろう」
 急いで着替えると、ヒルダは荷物を持って外に出た。ゴードンと二人の兵も、すでにそれぞれの荷物をまとめていた。
「いま、アレキシの部隊は?」
「サラマンドが襲撃されたと聞いて、三百を追って行ったそうだ。ミスリルの鉱山が潰されたのは痛いが、いま気にするべきは、サラマンドを襲った三百の方だな。フリオニールたちの動きは、捕捉されたと考えていいだろう」
「そうね。ひとまず、シドのところへ行きましょう」
 起き出してきた主人に多めに銀貨を支払い、ヒルダたちは宿をあとにした。
 街はずれの酒場へむかった。暗いが、もうすぐ夜明けである。シドがいてくれればいい。そう思いながら、速足で歩いた。
 これまで、シドとの接触は避けていた。シドが帝国軍への協力を拒んだことが、ポフトが爆撃された一因と考えられなくもない。むやみに飛空船を飛ばして、気が立っている民を刺激したくなかった。
 店の扉を開け、中に入った。客はいない。店主と思しき男と眼が合った。
「悪いが、もう看板だよ」
「いいんだ、親父。あれは俺の客だ」
 店の奥から声がした。十数年ぶりに聞くが、すぐにシドの声だとわかった。
 いちばん奥の卓に、シドはいた。煙草の煙を吸って吐き出すと、灰皿で揉み消した。
「久しぶりね、シド」
「ご無沙汰しております、ヒルダ様。これはまた、美しくなられた」
 髭を蓄え、顔にはやや皺が刻まれているが、間違いなくシドだ。双眸は、昔と変わらず、鷹の眼のような力強い光を放っている。
 ヒルダの脳裡のうりに、幼いころの記憶が蘇った。白馬に跨る騎士団長を、兵だけでなく、女たちも眩しそうに見あげていた。一度だけ、シドに抱きかかえられたことがある。恥ずかしさで顔が赤くなったのが、自分でもわかった。大きな手で頭を撫でられたことと、胸板が厚かったことは憶えている。それからは、城内でシドを見かけるたびに胸が高鳴った。いま思えば、あれが初恋だったのかもしれない。
 十五年ほど前だったろうか、パラメキアとの国境付近の小競り合いで、民にも多くの犠牲が出たことがあった。その後しばらくして、シドは騎士団長の地位を返上し、フィンから出て行った。批判の声もあがったが、父がそれを許したことで、表立って言う者はいなくなった。繊細な男だ、と父は言っていた。当時、ヒルダは四歳だった。
「お目にかかれて光栄です、ヒルダ様。店主の、ケニーと申します」
 言って、ケニーが卓に人数分の水を置いた。緊張しているのだろうか、手が小刻みにふるえている。
「この親父は信用していいですよ。こう見えて、叛乱軍の同志だ。おや、そちらの御仁はもしかして、ゴードン様では?」
「はい。お初にお目にかかります、シド殿」
「ゴードン様というと、カシュオーンの。たまげたな。こんな薄汚い店に、王族の方がお二人も」
 引きつった笑みを浮かべながら、ケニーが言った。
「世話になる、ケニー殿。われらは志で結ばれた仲間だ。身分などは気にしないでくれ」
 ゴードンがにこやかに言った。
「さて」
 言って、シドが一気に水を飲み干した。
「俺のところへ来るからには、飛空船を使いたい、ということですかな?」
 フィンにいたころ、シドは自分のことを私と言っていた。いまは俺と言っている。その方が似合っているような気もする。
「サラマンドが、襲撃されたのよ。雪原の洞窟へむかったフリオニールたちが危険なの。サラマンドの町がどうなったのかも気になるわ。お願い、シド。飛空船を出して欲しいの」
「私からもお願いします、シド殿。大戦艦を破壊できるかどうかは、フリオニールたちに懸かっているんです」
「しばらくは大人しくしてようと思ったが、仕方ないですね。ヨーゼフだけじゃ、子守りもきついだろうし。しかし、頭が痛いな。あんな小僧どもに重大な任務を任せるほど、叛乱軍は人が足りないってことか」
 大きく息をついて、シドが立ちあがった。
 店を出た。空は白みはじめていた。
「相変わらず、朝の冷えこみは厳しいな。しかし、おかげで酔いが醒めた」
 大きく身震いしながら、シドが言った。
 かつてシドは、こんなにくだけた男だっただろうか。市井で暮らすからか。あるいは、歳のせいだろうか。いずれにせよ、こういうシドも悪くない、とヒルダは思った。

   二


 サラマンド一帯は、雪に覆われていた。
 ポフトからここまで、一日半で着いた。馬ならば、その倍はかかる。
 飛空船は、実に不思議な乗り物だった。
 動力は、石炭を燃やし、蒸気を利用することで得ているらしいが、これだけでも驚くべき発明である。いずれは、馬がなくても荷車を走らせることのできる時代が来るだろう。蒸気は船体に付いたいくつもの羽根を回転させ、それが推進力となっている。
 最大の特徴は、宙に浮くということだった。細かい仕組みはわからないが、魔石と呼ばれる触媒に蒸気の熱を送りこむことによって、浮力を得ているらしい。シドの話では、羽根の回転だけでも浮力は得られるとのことだったが、それには蒸気機関に代わる新たな装置を発明する必要があるのだそうだ。操縦席には計器類や梃子がたくさんあって、ヒルダが見てもなにがどういう役割かわからなかったが、シドはそれらを巧みに扱い、飛空船を操縦した。
 町には、堂々と着陸した。サラマンドは、完全に叛乱軍側の町である。正確には、ヨーゼフの町と言った方がいいかもしれない。サラマンドの民にとって、ヨーゼフは英雄なのだ。
 案内されて、ヨーゼフの家にむかった。
 歩きながら、街の様子を見た。
 襲撃を受けたのは、十五日前とのことだった。あちこちで建物が焼かれてはいたが、大戦艦の爆撃を受けたアルテアや、ポフトほどひどくはない。積もった雪が、襲撃の爪痕を覆い隠しているのかもしれない。
 ヨーゼフの家に着いた。
 玄関に出てきたのは、夫婦とおぼしき中年の男女だった。
「叛乱軍の、ヒルダです。サラマンドが帝国軍に襲われたと聞いて、やってきました」
「なんと、ヒルダ様自ら。どうぞ、居間の方へ案内いたします。私たち夫婦は、日ごろからヨーゼフ様と親しくしていただいておりまして」
 男の方が言った。柔和で、人のよさそうな表情だ。
 奥の部屋から、十歳くらいの少女が顔を覗かせた。表情は暗い。ヒルダと眼が合うと、顔を引っこめ、扉を閉めた。
 居間は、暖炉に火が入っていて暖かかった。女が茶の仕度をはじめる。ヒルダたちは椅子に腰かけた。男も、空いた椅子に腰を降ろした。
「あの娘は、ネリーといって、ヨーゼフ様のひとり娘です」
 茶を卓の上に置きながら、女が言った。
「どうも元気がないように見えましたが」
 出された茶をひと口飲んで、ゴードンが言った。
「帝国軍が街から去ったあと、私たち夫婦は心配になって様子を見に来たのです。この家には、ネリーと、ケイトという下働きの女がいるだけだったので」
「ケイトという方は見えないようですが、まさか」
「私たち夫婦が来た時、ケイトはむごい姿で殺されておりました。ネリーの姿が見えなかったので、大声で呼びました。ネリーは、地下の貯蔵庫から出てきました。ケイトが、そこへ隠れているよう、指示したそうです。それからずっと、二人でネリーの面倒を見てきましたが、ほとんど部屋に籠もりきりで、あまり食事もとっておりません」
 男の話を聞きながら、ヒルダは床にかすかな血の染みがあることに気がついた。
「しばらくここに留まり、同志と連絡を取りたいと思うのですが」
「かしこまりました。食事は、私どもがご用意いたします」
 ヨーゼフたちがここを出立したのは、ひと月近く前になる。計算からすれば、そろそろ戻ってきてもいいころだった。無事であればの話だ。
 翌朝、山を降りてくる者がいるとの知らせを受けた。
 ヒルダたちは、町の北の、山へと続く道へむかった。
 フリオニールたちだった。しかし、ヨーゼフの姿がない。こちらを見て、驚いたような表情をしたが、すぐに駈け降りてきた。
「女神の鐘は、入手しました」
 フリオニールが取り出した鐘を見て、ヒルダは頷いた。
「詳細の報告を」
「洞窟からの帰途で、伏兵に遭いました。ボーゲンの軍です。俺たちを逃がすため、ヨーゼフ殿はひとりで踏みとどまりました」
「三百を相手に、ひとりで」
 ゴードンが、唸るように言った。
「それは、何日前になるのかしら?」
「七日前になります。四日前には、山頂付近でアレキシ殿の部隊と行き合いました。ヨーゼフ殿の話をすると、進軍を速めました」
 話を聞くかぎり、アレキシの動きは迅速だった。精兵といわれるボーゲンの三百を相手にしても、充分闘えるだろう。しかし、ヨーゼフの生存は諦めるべきだった。味方を逃がすため、三百の敵を相手にひとりで残ったのだ。そんな真似は、ヨーゼフにしかできないだろう。
「ヨーゼフ殿と約束をしました。必ず、大戦艦を破壊すると。俺たちは、いますぐカシュオーンにむかいたいと思います」
「気持ちはわかるわ、フリオニール。しかし、すぐというわけにもいかないわ。ひとまず、ヨーゼフの家に行きましょう」
「ケイトさんや、ネリーは無事なのでしょうか?」
 マリアが言った。
「ネリーは無事よ。ケイトという方が、地下の貯蔵庫に匿っていたらしくて」
「ケイトさんは、死んだのですね」
 言ったフリオニールの肩を、シドが無言で叩いた。
 ヒルダは、ゴードンに目配せをして歩き出した。二人のあとを、ほかの者が続く。
 ヨーゼフの家に戻ると、居間で会議をした。
 出立は、明朝ということになった。カシュオーンまでは、飛空船で四日というところだ。途中、ポフトの北、ランディッシュ山の近くに着陸する。シドが蓄えた石炭が、山の付近に隠してあるらしい。
 飛空船に乗る人員は、操縦をするシドを除いて、ヒルダ、ゴードン、フリオニール、ガイ、マリアの五人だった。船内の広さから言っても、五、六人が限界らしい。護衛としてついてきた二人の兵は、サラマンドに残り、部隊を編成することになった。二人とも、二、三百を指揮するだけの能力はある。二人はすでに、軍営での仕事にかかっていた。
 ネリーが、熱を出しせっていた。
 雪原から帰ってきたフリオニールたちの中に、父親の姿がないことに気がついた。ヒルダがありのままを話すと、ネリーはその場に倒れた。
 ボーゲンの軍にケイトが殺されてからは、食欲もあまりなく、躰も弱っていた。そういった精神状態のところへ、追い打ちをかけてしまったのだ。会議は、別のところで行うべきだった。いまさら思っても、もう遅い。
 夜、ネリーの部屋へ行った。
 中年の女が、ネリーの看病をしていた。
「ひどく、うなされております」
「あとはわたしが看ましょう。あなたは、もう休んでください」
「ヒルダ様に、このようなことをさせるわけには」
「よいのです。わたしに思慮が欠けていたせいで、ネリーは熱を出してしまったのですから」
 ヒルダが言うと、女は申し訳なさそうに部屋から出ていった。
 ネリーの額には、汗の粒が浮かんでいた。これまで、何不自由なく王宮で暮らしてきたヒルダは、人の看病をしたことがない。ヒルダが熱を出した時は、何人もの侍女が付きっきりだった。その時のことを思い出し、侍女が自分にやっていたように、水で濡らした布で、ネリーの額を拭った。
 ネリーは、なにかうわ言を呟いていた。ヨーゼフと、ケイトの二人を呼んでいるようだった。
 フリオニールたちの話では、ネリーは、母のようにケイトを慕っていて、三人はほとんど家族のように暮らしていたという。ヨーゼフは早くに妻を亡くしたらしいが、いずれはケイトを後妻に迎えるつもりだったのかもしれない。
 しかし、ケイトは殺された。ヨーゼフも、もはや生きてはいないだろう。二人の親が、相次いでこの世から消える。十歳の少女にとって、それはあまりにも酷な現実である。
 人の死に、心を動かさない。それは叛乱軍の総帥としての覚悟であって、他人も同じであるわけはないのだ。ましてネリーは十歳の少女で、打倒パラメキアの志に生きているわけでもない。それを、忘れていた。反帝国の志などと言って、自分は闘っている気になっているだけではないのか。この少女の方が、自分よりはるかにつらい思いをしているではないか。
少女ひとりの気持ちを理解できなくて、世のありようや、民の暮らしなどということを考えられるはずがない。思いながら、ネリーの汗を拭い続けた。
 鳥の啼く声が聞こえてきた。外はまだ暗いが、夜明けが近いようだ。
 ネリーは呼吸が落ち着き、静かに寝息を立てていた。額に手を当てる。熱も下がったようだ。きちんと食事をとれば、じきによくなるだろう。
 ヒルダは安堵の息を漏らした。急激に、眠気が襲ってくる。馴れない旅で、ヒルダにも疲労が溜まっていた。
 朝食をとったら、サラマンドを発ち、カシュオーンにむかうことになっている。少しは休んでおかないと、躰に障る。立ちあがり、手足を曲げ伸ばしすると、ヒルダは再び椅子に腰を降ろし、眼を閉じた。
 扉の開く音がした。
 中年の女が、様子を見に来たのだろうか。ヒルダは、半分眠っていて、半分起きているという状態だった。夢か現実かも、判別がつかない。
 足音が近づいてきた。ヒルダの背後で、足音は止まった。恐怖はない。刺客でないことは、雰囲気でわかった。
 ヒルダの躰に、毛布がかけられた。さらに、毛布の上から肩に手を置かれた。
 毛布越しに伝わる手の温もりは、スコットのものだった。かぎりなくやさしく、それでいて力強い温もりは、眼を閉じていてもわかる。
 やはり、これは夢だ。ただ、夢の中でもスコットに逢えるのは嬉しかった。スコットの前では、自分は叛乱軍の総帥ではなく、ひとりの女に戻れる。
 心地よい夢の中で、ヒルダはスコットの手の上に、自分の手を重ねた。

 眼が醒めると、ヒルダは窓の外を見た。すっかり明るくなっているが、それほど長く寝ていたわけではないようだ。
 卓の上を見ると、汁物が湯気をあげていた。
 汁物の匂いに空腹を覚えると同時に、ヒルダは、自分の躰に毛布がかけられていることに気がついた。
 あれは、夢ではなかった。しかし、いったい誰が。シド、あるいはゴードンだろうか。ヒルダはそこで想念を切った。ネリーが眼を醒まし、上体を起こしていた。
 なにも言わず、二人は黙々と汁物を口に運んだ。汁物の具はやわらかく煮こんだ野菜で、いまのネリーでも食べやすいだろう。眼が合うと、ネリーは微笑んだ。
 居間に行くと、シド以外はみんな集合していた。シドは、庭で飛空船の点検中なのだろう。
「みんな、準備はできている。しかし、あなたは大丈夫なのか、ヒルダ殿?」
 ゴードンが言った。
「大丈夫よ。予定通り、出発するわ」
 明け方に部屋に入ってきたのは、ゴードンなのだろうか。別に、訊こうとは思わなかった。ゴードンも、それ以上なにも言わない。
 荷物をまとめ、家の外に出た。
「整備は万全。いつでも行けますぜ」
 肩にかけた手拭いで汗と油を拭いながら、シドが歩いてきた。うっすらとかいた汗のせいか、陽に焼けた肌は、さらに引き締まって見える。
「では、行きましょうか」
 ヒルダの声で、全員がぞろぞろと飛空船に乗りこみはじめた。
「ヒルダ様」
 いよいよ機関を始動させようという時、家の方から声がした。声の主はネリーだった。こちらにむかって、走ってくる。
「どうしたの、ネリー。走ったりしたら、躰に障るわ」
「ヒルダ様に、どうしてもお礼が言いたかったのです。昨夜は、ありがとうございました」
「そんなことを言うために、わざわざ」
「わたし、熱にうなされながらも考えました。お父様が、なんのために闘ったのかを。お父様が生きて帰ってくることは、ないだろうとも思います。そしてケイトさん、わたしの二番目のお母様も、わたしを守って死にました。残されたわたしにも、きっとなにかできることがある。そう思ったのです」
「気持ちはありがたいわ、ネリー。でも、これは戦なの。これからも、多くの同志たちが次々と傷つき、斃れていくでしょう。さらにあなたを巻きこんで、これ以上あなたの心を傷つけたくはないの。それにあなたには、まだこれからの人生があるわ。わたしたちは、この戦に必ず勝利する。そして、いつかみんなが安心して暮らせる世を創るわ。その日まで、あなたには健やかに生きて、待っていて欲しいのよ」
「待つのはもういやです。お父様や、ケイトさんを、わたしは待ってきました。そして、二人とも帰ってきませんでした。お願いです、わたしを、ヒルダ様のおそばに置いてください。身のまわりのことなど、なんでもやります。ひと晩じゅう、わたしを看てくれたヒルダ様のやさしさに触れて、わたしは心の底から、ヒルダ様についていきたいと思ったのです」
 とても十歳の少女とは思えないもの言いと決意に、ヒルダは胸を打たれた。ヨーゼフの血を引く彼女もまた、叛乱軍の同志なのだ。ヒルダはうつむきながら唇を噛んで眼を閉じ、少しして顔をあげた。
「そこまで言うのなら、いいでしょう。ただ、今後の闘いのためにも、いまは各地を飛び回らなければいけないの。いずれ態勢を整え、わたしの身が落ち着いたら、正式にあなたを侍女として迎えるわ。その時までは、お願いだから、待っていて欲しいの」
「わかりました。その時まで、待ちます。必ず、わたしをおそばに置いてください。約束ですよ、ヒルダ様?」
「約束するわ、ネリー」
「そろそろ、発進します」
「お願い、シド。ネリー、危ないから、離れていて」
 返事をして、ネリーが家の方まで駈け戻った。中年の夫婦と三人で、こちらにむかって手を振っている。ヒルダは扉を閉め、硝子の窓越しに手を振って応えた。
 羽根が回転をはじめる。土埃を巻きあげながら、飛空船はゆっくりと浮上した。はじめて飛空船に乗るフリオニールたちは、興奮をあらわにしている。
 飛空船は、三人が豆粒ほどの大きさに見える高さまで浮上したところで、前進をはじめた。
 三人の姿がまったく見えなくなるまで、ヒルダは手を振り続けた。
 窓の外には、雪に覆われたムースニーの山々が、雄大に拡がっている。

   三


 ランディッシュ山付近で一度補給し、飛空船はカシュオーンにむかっていた。
 帝国軍の駐屯するバフスクを避けるため、ポフトを真っ直ぐ南下し、ラミュー半島に差しかかったところで、東に進路を取った。サラマンドを発ってから、三日が過ぎている。
 西レボネア山脈を越えたところで着陸し、夜営した。付近に帝国軍はいないようだが、見張りは交代で立たせた。朝までに、ゴードンは二度見張りに立った。
 カシュオーンは、パラメキアとバフスクのちょうど中間に位置し、東西をレボネア山脈に囲まれている。城は湖の上にあり、その湖もクワドループ山脈に覆われた、天然の要害だ。
 しかし、その難攻不落のカシュオーンも、結局は陥落した。通常の軍での攻略が難しいと見るや、帝国軍は、魔物に街を襲わせた。屍鬼という、生ける屍の魔物だ。屍鬼に襲われた者もまた、屍鬼と化してしまう。
 城には、屍鬼と化した民の群れが押し寄せてきた。防ぎきれず、城は放棄することにしたが、国王である父は、城を捨てるわけにはいかないと、ひとり残った。魔法によって宝物庫が封印され、城門は内側から閉ざされた。そして、残った手勢を兄のスコットがまとめ、フィン軍と合流した。あれからまだ半年しか経っていないが、情勢は大きく変わった。
 いま思えば、野戦に出ていたボーゲンの動きには、不審な点があった。将軍ということもあり、ある程度の独立行動も許していたが、もっと厳正に軍規を適用すべきであった。いま思っても遅いが、戦はまだ続いている。そして叛乱軍は、まだ敗れていない。
 早朝に出立、飛空船はクワドループ山脈に差しかかった。湖に囲まれた、カシュオーン城も見えてきた。
「なにか聞こえる」
 不意に、ガイがつぶやいた。飛空船の駆動音でかき消されていたが、確かになにか聞こえる。腹の底に響くような、低く重い音だ。しばらくして、船体が振動しはじめた。空気が揺れている。
「大戦艦だ」
 シドが叫んだ。全員が、右舷側の窓を見た。ゴードンが窓を覗くと、後方の雲の間から、ちょうど大戦艦がその巨体を現したところだった。
「こちらの動きを、察知していたというのか」
「振り切れないの、シド?」
「速度はこれで目いっぱいです、ヒルダ様。しかし、でかい図体のわりに、なんて速さだ。このままじゃ、追いつかれちまう」
 後方から、大戦艦が迫ってくる。まるで、鮫に追われる小魚のような恰好だった。大戦艦との差は、徐々に縮まっていく。
「並ばれた」
 フリオニールが叫んだ。大戦艦は、飛空船の横につく恰好だ。
「少し黙ってろ、小僧」
 シドが叫ぶと同時に、砲声が轟いた。船体が揺れ、窓の硝子が砕けた。空砲だった。砲弾が発射されていたならば、船体は木っ端微塵に砕けているだろう。ただ、衝撃により船体はぶれ、速度も少し落ちたように感じる。
 さらに数発の砲声が響く。今度は、鉤爪の付いた縄が発射されてきた。そのうちの一本は、窓から船内へ飛んできた。船体のいたるところに鉤爪が食いこみ、捕縛された状態だ。
「くそっ、拿捕する気だ」
 言って、シドが舌打ちした。あえて拿捕を選ぶのは、シドの技術が欲しいからか。ヒルダが乗りこんでいることまでは、掴んでいないはずだ。
「このままじゃ、捕まってしまう」
「脱出するには、飛び降りるしかないわね。でも、この高さでは」
 マリアの言葉に、すぐにゴードンは地上を確認した。飛空船は、すでにカシュオーン城の近くまで来ている。湖を見た。湖にうまく落ちることができれば、助かるかもしれない。
「シド殿。いま、風の流れは?」
「東から、弱い風が吹いていますが、まさか」
「飛び降りる。湖に落ちることができれば、助かります」
「湖は、凍ってるんじゃないのか?」
「その点は大丈夫だ、フリオニール。あの湖は、それほど厚い氷は張らない。危険ではあるが、このまま捕虜になるよりは、ましだと思う」
「そうだな。ちょっと度胸は要るが、いまなら風もそれほどない。まず俺が行く。ガイは、マリアを抱えて続いてくれ。ゴードン、ヒルダ様を頼む」
 言って、フリオニールが扉に手をかけた。
「俺は残るぜ。飛空船は、俺の命と同じだ。捨てるわけにはいかねえ」
 煙草に火をつけながら、シドが言った。シドのことは、まだよくわからない。ただ、己の信念を決して曲げる男ではない、ということは確かだ。眼が合うと、シドはにやりと笑った。口もとと眉間に刻まれた皺が、これまでに幾多の修羅場をくぐり抜けてきたことを、物語っているような気がする。
「わたしも、残ります」
 言ったヒルダの方を、全員が見た。
「なぜだ、ヒルダ殿。叛乱軍の総帥であるあなたが、敵に捕まったらどうなるのか、わかるだろう。もう少し、自分の立場というものを考えてくれないか」
「言いたいことはわかるわ、ゴードン。でも、シドに飛空船を出すよう頼んだのは、わたしだわ。そのわたしが、逃げるわけにはいかない。軍の指揮は、あなたが執ればいい。あなたが斃れたら、また別の者が代わる。そうやって、叛乱軍は闘い続けるのよ」
「ネリーとの約束はどうする。アルテアに戻ったら、ネリーを侍女としてそばに置くのではなかったのか」
 少しだけうつむき、ヒルダは息をついた。
「ネリーを看病するわたしの肩に、毛布をかけてくれたのはあなたね、ゴードン?」
「そうだ」
「あなたの手、やさしかったわ。そして、以前よりずっと、あなたは強くなった。わたしが帝国の捕虜になっても、きっと助けてくれる。そう信じているわ」
「しかし」
「行こうぜ、ゴードン。ヒルダ様がああ言ってるんだ。それに、もうすぐカシュオーンの上空も過ぎちまう」
 フリオニールが、肩に手をかけてきた。
「頼んだわよ、フリオニール」
「はい」
 返事をし、フリオニールは機敏な動作で扉を開いた。
「せいぜい死なないこったな、小僧」
「あなたこそ、シド殿」
「口の減らねえやつだな。大戦艦とやらの内部が拝める、いい機会ってもんさ」
 シドの言葉に笑いながら、フリオニールが飛び降りた。ガイが、マリアを抱えて続く。
「必ず助け出す。待っていてくれ」
 ヒルダが微笑んだ。風で乱れた亜麻色の髪が、白く細い首に絡みついている。心がかき乱された。それを悟られまいと、ゴードンは扉の方へむかった。
「待ってるわ、ゴードン」
 ゴードンは笑顔を見せた。うまく笑えていないかもしれないが、こういう時に笑えなくて、なにが男だ、とも思う。
 身を乗り出し、下を見た。湖の真上だ。やや岸に近くなってきたが、行ける。
 飛び降りた。落ちながら、飛空船の方を見た。じわじわと、飛空船は大戦艦に引き寄せられているようだ。
 背中に衝撃を感じた。着水。思っていた通り、氷は薄い。
 泳ぎながら、上空を見あげた。飛空船がどういう状態なのか、もはや判別がつかなかった。黒い点が、ひとつ空に浮いているように見えるだけだった。
 全身に、鋭い痛みが走った。水は、身を切るような冷たさだった。ただ、躰の内側は燃えるように熱い。
 黒い点は、次第に小さくなっていく。
 具足を解き、火に当たった。
 火は、ガイが熾した。旅に馴れているからか、フリオニールもガイも、てきぱきと動いた。ゴードンは、ほとんど見ているだけだった。
 マリアは、かじかむ手足を炎にかざしながら、寒さに全身をふるわせている。冬の湖に飛びこんだのだ。日中とはいえ、気温も低い。
「湯が沸いたぞ」
 フリオニールが言って、マリアに湯の入った椀を手渡した。椀で手を温めながら、マリアはゆっくりと湯をすすった。
 ゴードンにも、椀が手渡された。ゆっくり、少しずつ啜った。熱い湯が、じんわりと躰に沁みていく。
「あまり難しい顔をするな、ゴードン」
 干し肉をあぶりながら、フリオニールが言った。あたりには、香ばしい匂いが漂っている。溶け出した脂が炎の中に落ち、音をたてて燃えた。
「いまの状況がわかっているのか、フリオニール。ヒルダ殿が捕まったとあれば、司令部は降伏の決定をする、そうは思わないか?」
「思わないな。少なくとも、ミンウ殿は徹底抗戦を主張するだろう。それに、たとえ叛乱軍が降伏したとしても、俺は大戦艦を破壊する。それが、ヨーゼフ殿との誓いだからだ」
「誓いか。ヒルダ殿は、私のことを待つと言っていた」
「おまえは、なんと言った?」
「必ず助け出す、と」
「ならば、その誓いを果たせ。ここに、女神の鐘がある。大戦艦の破壊には、カシュオーン城の宝物庫にある、太陽の炎が必要だ。おまえが案内をしてくれ、ゴードン」
「言われなくても、最初からそのつもりだ」
 フリオニールの手から干し肉をひったくると、ゴードンはそれを齧った。肉の旨味が、口の中に拡がっていく。
「おい、俺の肉だぞ」
「体力をつけておかないとな。私は、おまえたちについていくのがやっとだ」
「なに言ってやがる。おまえが飛空船から飛び降りるといった時は、顔に似合わず大胆なやつだ、と思ったぜ」
「マリアの言葉で、とっさに思いついただけさ。ところでフリオニール。自分で気づいているかはわからないが、おまえ、口調がだんだんシド殿に似てきたぞ」
「まいったな、ほんとうかよ。マリアとガイも、そう思うか?」
 フリオニールが言うと、二人は何度も頷いた。ガイも干し肉を炙り、マリアと分けて食べている。
「でも、シド殿はすごいな。かつては、フィンの騎士団長をつとめていた。いまは、飛空船なんてものを発明し、科学のあり方について考えている」
「すごいのは認めるが、どうもあのおっさん、いつも俺を小僧呼ばわりしやがる」
 言いながら、フリオニールが干し肉を齧った。口のまわりについた脂が、炎を照り返し光っている。
「大戦艦に乗りこんで助け出せば、少しは認めてくれるかもな」
 言って、ゴードンは袋から干し肉を取り出すと、炙りはじめた。
 フリオニールが、こちらを見てにやりと笑った。    

   四


 跳ね橋を踏みしめ、堀を渡った。
 城門の前に立ち、ゴードンは城を見あげた。
 煉瓦は苔むし、剥がれ落ちた外壁の上には、蔦がびっしりと張っている。まるで、古城だった。半年前までは、この城に住んでいたのだ。しかし、誰もいなくなれば、こんなものなのだろうか。
 城門をくぐり、広間へ進んだ。
 幼少のころの思い出が、ふっと蘇った。兄と二人で広間を走り回り、よく叱られたものだ。いまは、すっかり変わり果ててしまった。垂れ幕は引き裂かれ、絨毯には血が染みついている。
 先に立って、ゴードンは歩き出した。太陽の炎が納められている宝物庫は、四階にある。
 二階を抜け、三階に進んだあたりから、なにか違和感を覚えた。かすかに、饐えた臭いのようなものを感じる。
「なにかいる」
 ガイが呟いた。ふだんは寡黙だが、気配に敏感な男だ。その勘は、動物的とも言える。
「帝国軍か、それとも魔物か」
「屍鬼だ、フリオニール」
「屍鬼?」
「動く屍体の魔物さ。そいつに殺された者もまた、屍鬼になってしまう。この城は、屍鬼の群れによって陥落したのだ。その屍鬼が、まだ城内をうろついているのかもしれん」
「屍鬼か。気味の悪い魔物だな」
 吐き捨てながらも、フリオニールは周囲に細心の注意を払っていた。いつの間にか剣も抜いている。ゴードンも剣を抜いた。掌に、じっとり汗をかいている。
 自分の息遣いが聞こえる。ガイもマリアも、緊張してはいるが、落ち着いた様子だった。ゴードンにも、実戦の経験がないわけではない。ただ、それまでの戦では、ほとんど逃げているだけだった。アルテアに来てからは、ガテア周辺で遭遇した、帝国の斥候を打ち払ったことがある。しかし、自分よりもずっと多くの闘いを、彼らは経験しているのだ。
 臭気が、いっそう強くなった。飾り柱のかげで、なにかがうごめいている。
 現れた。屍鬼。柱のかげから次々と現れ、群れを成していく。
「これが屍鬼か。具足まで着ていやがる」
「もとは、カシュオーンの兵士だった者たちだ。考えにくいことではあるが、生前の記憶が残り、城を守っているのかもしれん」
「なるほどな。しかし記憶が残っているなら、カシュオーン王子である、ゴードンの顔を憶えていてもいいものだが」
「言ってみただけだ。そもそも、彼らに意思というものがあるのかがわからん。この先に進むには、斃すしかないだろう」
「斃してやるのが、せめてもの慈悲か」
「そういうことだ」
 言って、ゴードンは駈け出した。フリオニールたちが続く。屍鬼は、のそりとした動作で、こちらにむかってくる。
「いいか、首を飛ばせ。屍鬼の動作は鈍いが、力が強く、痛みも感じないようだ。首を切り離せば、仕留められる。それと火炎だ。屍鬼は、火に弱い」
「わかったわ」
 言いながら、マリアが火炎の魔法を放った。五、六体の屍鬼が、炎に包まれながら、その場に崩れ落ちていく。屍体の焼ける強烈な臭気が、ゴードンの鼻を衝いた。
 二体の屍鬼が、炎を越えてきた。鋭い爪で斬りつけてくる。紫色をした屍鬼の爪には、毒がある。かわしながら一体の首を飛ばすと、すぐにゴードンは横に跳んだ。もう一体が、剣で斬りつけてきていた。屍鬼とはいえ、もとはカシュオーンの兵士である。眼が合った。黄色いうつろな眼には、意思というものがまったく感じられない。頬からは、緑色の爛れた皮膚が、だらりと垂れ下がっている。間合いを詰め、首を刎ねた。どす黒い血を噴き出しながら、屍鬼は倒れていく。
 フリオニールとガイも、何体かの屍鬼を斃していた。首さえ確実に飛ばせば、それほど手強い相手ではない。
 屍鬼を斃しながら、さらに奥へと進んだ。さすがに数が多く、ゴードンの呼吸は荒くなっていた。こめかみを伝う汗を拭いながら、マリアの方を見た。魔法による消耗だろう、マリアの呼吸も荒かった。フリオニールとガイの二人は、うっすらと汗をかいている程度である。
 四階に上がった。宝物庫はこの階にある。歩いているうちに、呼吸も整ってきた。
 宝物庫の前には、これまでにない屍鬼の群れがいた。およそ三十。
 最奥にいる一体を見て、ゴードンは肌が粟立った。王冠を被り、外套を羽織った屍鬼。カシュオーン国王である、父の成れの果てだった。生前からの執念なのだろうか、やはり屍鬼となった兵をまとめ、宝物庫を守っているようだ。
「ゴードン。あの屍鬼は」
「言うな、フリオニール。あれは私が斃す。ほかの屍鬼は任せた」
「わかった」
 フリオニールの返事を聞きながら、ゴードンは剣の柄を握り直した。掌が、再び汗ばんできた。
 王冠を被った屍鬼が、呻き声を発しながら、頭上に剣を掲げた。屍鬼の兵たちが、ゆっくりと動きはじめる。ゴードンも身構え、攻撃の機を窺った。
 炎があがった。マリアの魔法だ。密集していたこともあり、十体ほどが炎に包まれた。屍鬼は、横に拡がりはじめた。
 散開しながら駈けた。中央がゴードン、フリオニールとガイはその両脇というかたちだ。
 拡がった群れの中に飛びこんだ。行く手を阻む屍鬼の首を、ひとつ、二つと飛ばした。左側では、ガイの双斧が唸りをあげている。ガイが斧をひと振りするたびに、いくつもの肉片が飛び散っていく。前方で、再び炎があがった。三、四体の屍鬼が崩れ落ちていく。
 炎と煙のむこうに、王冠を被った屍鬼が見えた。国王であり、父であった男。眼はやはりうつろで、表情はない。自分のことなど、もはや憶えてはいないだろう。いまは父ではない。魔物なのだ。息を吐きながら、ゴードンは雑念を払った。
 屍鬼の懐に飛びこんだ。左から右へ薙ぐ。いなされた。ほかの屍鬼と違い、動きが速い。斬りかかってきた。かわす余裕がなく、剣で受け止める。ものすごい剣圧に、ゴードンは弾き飛ばされた。体勢を立て直し、再び突っこむ。屍鬼の剣が振り降ろされるより速く、ゴードンの剣は相手の首を飛ばしていた。一瞬、屍鬼が笑ったような気がした。首を失った躰が、血を噴き出しながら倒れていく。飛ばした首を見た。なにも表情は浮かんでいない。ただうつろな眼を見開いているだけだ。笑ったように見えたのは、気のせいなのだろうか。
「終わったぜ、ゴードン。さすがに、少しくたびれたな」
 声にふり返ると、フリオニールが剣を拭っているところだった。三十体いた屍鬼は、一体残らず斃されている。全員と眼を見合わせ、頷き合った。
「よし、行こうか」
 剣を拭い鞘に収めると、ゴードンは前に進んだ。
 宝物庫の扉は、青い光の幕で覆われていた。フリオニールが、女神の鐘を取り出した。手首を振って鳴らすと、澄んだ音色が山彦のように反響し、光の幕がすっと消えた。
「これで、封印は解けたのか」
 フリオニールの横から、ゴードンは扉の把手に手をかけ、力を入れた。開いた。扉の奥に進む。宝物庫の床には、宝飾品や金塊などが無造作に積まれていた。
 正面奥の壁龕へきがんに、台座が置かれている。その台座の上に、紅玉のように輝く石があった。太陽の炎。手に取った。人肌よりやや温かい。この人間の頭部ほどの魔石ひとつに、大戦艦を破壊できるかどうかが懸かっている。床に落ちていた天鵞絨ビロードの布を拾いあげると、ゴードンは太陽の炎を包み、物入れの中に収めた。
 城外に出た。もうすっかり陽が暮れている。
「アルテアまで、どうやって帰るか」
 フリオニールが呟いた。
「南下して、パラメキア領内を通るのが最短の道のりではあるが、これは無理だろう。砂漠を越え、なおかつ大戦艦の補給基地付近も通過しなくてはならない」
「バフスクを抜け、北から行くしかない。それはわかっているんだが、いまの俺たちは、帝国の支配地域で孤立している状態だ。どこかで、馬を手に入れないと」
 フリオニールの言う通りだった。かちで進むには、アルテアは遠すぎる。そして、いつ帝国の兵に見つかるかわからない。バフスクに駐屯する軍が出てくれば、それまでだ。
「静かにしろ。蹄の音だ」
 ガイの突然の言葉に、フリオニールは、素速い動作で地面に耳を当てた。
「間違いない、馬だ。数はわかるか、ガイ?」
「多分、三騎」
「帝国の斥候かもしれんな。隠れるぞ、マリア、ゴードン」
 フリオニールの指示に従い、木かげに分散して隠れた。
 馬蹄の音が、ゴードンでもわかるほどに近づいてきた。掌の汗を拭い、息を吐いた。
「大丈夫だ、ゴードン。たかだか三騎、斬り捨てて馬を奪ってやればいい」
「お前の落ち着きが羨ましいぞ、フリオニール。やはり私などとは、くぐり抜けてきた修羅場の数が違うのだな」
 なにも言わず、フリオニールはゴードンの肩を叩いた。
 馬蹄の響きに、木々が揺れていた。木立のむこうに、馬の姿がちらちらと見える。マリアは、弓を引き絞っていた。
 現れた。帝国兵。二頭の馬は、帝国兵の馬に繋がれている。伝令か。いずれにせよ、単騎なら討つのはたやすい。ゴードンは飛び出そうとしたが、フリオニールに肩を掴まれた。
「敵ではない。落ち着いて、相手をよく見てみろ」
 視線を正面に戻し、ゴードンは立ち止まった相手を注視した。
 馬上の男は、帝国軍の具足を着けたポールだった。兜は着けていない。
「伝令に偽装してきたんだが、よく気がついたな、フリオニール」
 言いながら、ポールが馬から降りた。
「伝令だったら、もっといい道を選ぶでしょう。兜を着けてたら、斬っていたかもしれませんが」
「そいつはおっかねえな。まあ、一瞬でよくそこまで見てとったよ。しかし、万が一に備えて馬を用意してきたんだが、皮肉にも役に立つことになっちまったな」
「いまの状況は、把握しているのですね、ポール殿?」
「はい、ゴードン様。常に部下と連絡を取り合い、馬を替えながらここまで来ました。馬は全部で三頭ですが、駿馬を選んであります。うち二頭に二人乗ることになりますが、なんとかポフトまで行けば、あとはどうにかなると思います」
「よし。まずは、ガイひとりで一頭。フリオニールとマリアで一頭。そして、私とポール殿で一頭に乗ろう」
 言って見回すと、全員が頷いた。
「アルテアまでは遠いが、バフスクを過ぎるまでは、慎重に進む必要がある。とりあえず今日のところは、少しだけ進んで、あとは森の中で夜営にしようか。西に少し行けば、適した地形があるはずだ」
「そういえば、こんなものもあるんですがね」
 ポールが言って、すぐ後ろの馬を指さした。道中で獲ったのだろう、兎が二羽、鞍の脇にぶらさげられている。
「なにからなにまで、ポール殿には世話になりっ放しだな」
 ゴードンが言うと、ポールは髭を擦りながら笑った。

 カシュオーンからポフトまで、八日かかった。
 バフスクを過ぎてからは、しばしば蝙蝠の者たちが替えの馬を連れてきた。同時に、ポールに各地の状況を報告し、それに対しポールは短く指示を出す。その任務ゆえに、ポールのもとには、常に最新の情報が入ってくる。ヒルダを乗せた飛空船が拿捕され、カシュオーンで太陽の炎を入手したという報告も、もうアルテアに届いているはずだ。
 ポフトを過ぎたあたりで、アレキシの部隊がボーゲンの軍を撃破した、という知らせが届いた。ただ、アレキシ自身は戦死したらしい。
 ゴードンはアレキシと直接面識はないが、フリオニールの話によると、セミテの闘いでは、アレキシの騎馬隊が決め手になったという。またひとり、叛乱軍は惜しい男を失った。
 報告によれば、敵の数は二百五十ほどで、ボーゲンの姿もなかったという。想像もつかないことではあるが、ヨーゼフはたったひとりで数十人を倒し、さらにはボーゲンを討ったことになる。フリオニールとの誓いを、ヨーゼフは果たしたのだ。ヨーゼフだからこそ、それだけのことをやれたのだ、とも思う。
 ビリセント湖からは、用意されていた馬車に乗った。全員が疲労のきわみにあり、風邪をひき熱が出たマリアは、特にひどい状態だった。
 アルテアに到着したのは、ポフトを過ぎて七日目だった。カシュオーン上空で飛空船が拿捕されてから、実に半月が経っている。
 マリアを居室に寝かせ、残りの者は大会議室へむかった。
 ミンウとスティーヴ、ほかには何名かの若い文官が仕事をしていた。
「お疲れ様でした、皆様。蝙蝠の者からの報告で、どういう状況かはわかっています。おや、マリアはどうしました?」
「熱を出し、居室で臥せっています」
「そうですか。次から次へと任務を与え、あなたたちにはいつも無理させています。ほんとうに申し訳ありません」
 激務によって、ミンウは眼の下に隈が張りつき、頬がすっかりこけていた。戦場に出るだけが闘いではない。自分にはできない闘いを、ミンウはしているのだ。
「私がついていながら、申し訳ございません」
 心の中の重圧に耐え切れず、ゴードンは、ミンウとスティーヴに頭を下げた。
「ゴードン様が、責任を感じることではありません。ヒルダ様は、常に自分にもなにかできないかと、悩んでおいででした。できることならば、自らが戦陣に立ちたいとも。そんなヒルダ様のご決断を、いったい誰が止められましょう」
 うつむきながら、スティーヴが言った。言葉に、諦念の感情が表れている。もともと老人ではあるが、しばらく見ない間に皺は深くなり、さらに老けたような気がする。
「いまはとにかく、大戦艦への潜入を考えましょう。ここに、蝙蝠の者が入手した、艦内の見取り図があります」
 言って、ミンウが卓の上に紙を拡げた。紙には、大戦艦内部の見取り図が描かれている。乗員は二百名で、さらに三百の兵を輸送することもできる、とミンウが付け加えた。
「ヒルダ殿やシド殿は、ここの営倉に入れられているのかもしれないな。移送されていなければ、の話だが」
 見取り図を指さしながら、ゴードンは言った。
「お二方についてはわかりませんが、シド殿の飛空船が外に運び出された、という情報はありません。おそらく、ここの格納庫に飛空船があると思います」
「その飛空船で脱出、というわけにはいかないかもしれんが、二人の救出と、機関の爆破となると、二手に分かれて行動する必要があるな」
「現場の判断は、ポール殿にお任せします」
「任せとけ。あとは、補給基地の様子について、なにかわかったことはないかな?」
「ダークナイトという男が来てから、軍規が厳しくなったようです。ダークナイト率いる騎馬隊が、補給基地周辺を守備しているのですが、どうもバフスクの工廠でも、この男が守備に当たっていたようなのです」
「とすると、ジェイムズ殿を討ったのは」
「おそらく、このダークナイトの部隊でしょう。この男は、全身を黒の具足でかため、常に顔を兜で覆った剣士だそうです。そして、やはり黒い装備で統一された騎馬隊は、数は百騎と少ないものの、その強さはかなりのものと見られます」
「黒い剣士か。そのダークナイトってやつは、俺が斬る」
 拳を握りながら、フリオニールが言った。双眸は、鋭い光を放っている。
「おい、フリオニール。目的はあくまで二人の救出と、大戦艦の爆破だからな」
 ポールが、たしなめるように言った。
「わかってますよ。ただ機会があれば、ジェイムズ殿の仇を討ちたい」
 口調は落ち着いていたが、フリオニールの眼光は、鋭いままだった。
 その後、細かいことを話し合い、散会した。
 出立は明後日。風邪で寝こんでいるマリアは、アルテアに残ることとなった。大戦艦への潜入は、帝国の兵に偽装するということもあり、女の身では難しくもある。
 フィン国王、ロベールとも謁見した。
 恰幅のよかった躰はすっかり痩せ細り、かつての威厳はなかった。ゴードンの手を握りながら娘の救出を懇願する姿は、ただの老いた父親だった。ロベールの手を握り返し、ゴードンはヒルダの救出を誓った。
「ゴードン、少し付き合ってくれるか。稽古がしたい」
 ロベールの部屋を出ると、フリオニールが言った。軽く頷き、二人で町はずれの宿営地にむかった。
 町は、かつての姿を取り戻しつつあった。新たな建物も建てられ、人々からも活気は失われていない。
「ジェイムズ殿の仇を討ちたい気持ちはわかるが、あまり、ダークナイトとやらにこだわるなよ」
 町の様子を見ながら、ゴードンは言った。もしかしたら、フリオニールは思いつめているのかもしれない。ゴードンも、さきほどからヒルダのことばかり考えていた。
「わかってるさ。ただ、俺はジェイムズ殿やヨーゼフ殿、アレキシ殿のような男になりたいんだ。そして俺は、剣以外に能がない」
「なるほど。ただな、フリオニール。決して、雄々しく死のうとは思うなよ。私は、友を失いたくない」
「ヨーゼフ殿たちは死なん。少なくとも俺の心の中では、生き続けている」
「そうか。そうだな」
「俺の身を心配する前に、まずおまえだ。俺から一本でも取ってみろ。もっとも、軍を率いての闘いとなれば、おまえの方が上だろうが。俺は、軍略に関してはさっぱりだからな」
「今度、調練に参加してみるか。おまえを私の隊に加えて、指揮してみたいものだ」
 ゴードンが言うと、フリオニールは勘弁してくれとでも言いたげに、手を振りながら苦笑した。
 宿営地が近づいてきた。二人の姿を見て、兵たちが直立する。兵たちにむかって、ゴードンは片手をあげて応えた。
 立ち並ぶ幕舎を通り過ぎ、練兵場に着いた。
 フリオニールが、棚にかけてある木剣を選びはじめた。ゴードンも、木剣を手に取った。
 ヒルダのことは、頭の隅に追いやった。    

   五
 

 年が明けていた。
 フィンの北にある大戦艦補給基地まで、アルテアから、馬で十二日だった。いまは、補給基地の少し手前で、小休止をとっている。
 帝国の占領下にあるフィンは、大きく迂回した。
 ゴードンの話によると、フィン占領軍とは、ガテア近辺で二度対峙したことがあるらしいが、本格的なぶつかり合いはしていないようだ。
 占領軍の総数は八千。アルテアの叛乱軍は一千で、まともに闘いようはない。しかし、八千の軍を動かすだけの軍費が、帝国軍にはないらしい。フィンやバフスクの生産で、なんとか軍を維持している状態なのだ、とポールが教えてくれた。
 占領軍の司令は、ゴートスという肥った将軍で、それほど戦はうまくないようだ。それでも、八千の軍がいれば、フィンを守ることはできる。司令部としても、いずれはフィンを奪回することは考えているようだが、一千の兵力ではどうしようもない。少しずつでも兵を増やし、精強に鍛えあげていくしかなかった。
 フリオニールは、物入れの中から木の椀を取り出し、見つめた。ガテアの宿で使われていたものだ。少し、焦げた痕がある。
 大戦艦の爆撃により、ガテアの村は完全に破壊されていた。戦で男手はなく、村に住むのは、老人や女子供ばかりで、生き残ったのは、ほんのわずかな人数だった。
 宿の主人である老婆は、脚が悪かったため逃げ遅れ、崩れた建物の下敷きになったのだという。焼け跡で木の椀を見つけ、それをフリオニールは使うことにした。
 大戦艦の建造には、莫大な費用がかかっただろう。戦のために、パラメキアの民は重税を課され、人が人を食う光景も、めずらしくないのだという。
 しかし、そこまでして戦をすることに、なんの意味があるのだ。政事については、よくわからない。戦場で剣を振っている時、フリオニールは全身の血が沸き立ち、生を実感できる。それでも、戦は終わらせたかった。そのためにも、大戦艦は破壊する。改めて誓いながら、物入れに椀を収った。
「それじゃ、行こうか」
 ポールが言って、先頭に立って歩き出した。全員が帝国軍の具足を着け、偽装している。偽造した立ち入り許可証を見せ、基地の中に入った。
 基地の中では、大戦艦の補給や整備が行われていて、さまざまな物資も運びこまれていた。年が明けたばかりだったが、兵たちに浮ついた雰囲気はなく、慌ただしく働いている。ざっと見回したが、黒い騎馬隊はいないようだ。原野で、調練でもしているのだろうか。
 大戦艦へむかって歩いた。間近で見ると、その巨大さに圧倒された。
 舷梯の手前の警備兵に、ポールが乗艦許可証を見せた。これも、偽造したものだ。偽造を見破られないか心配だったが、精巧にできているようで、なんの疑いも持たれなかった。
 舷梯を昇り、艦内へ入った。床も壁も、鉄でできている。通路は狭く、壁の上方には、何本もの鉄管が走っていた。蒸気のせいだろうか、艦内は少し蒸し暑い。
「こっちだ」
 言いながら、ポールが進んでいった。まず目指すのは、営倉だった。フリオニールは、見取り図を見ながらついていった。ポールは、すでに艦内の構造が頭に入っているらしい。さすがは、元盗賊というところか。
 艦内はいくつかの区画に分かれていて、同じ階層でも、区画によっては通り抜けができないところがある。そういった場合は梯子を昇降し、一旦別の階層に移ってから区画を変え、再びもとの階層に移動する必要がある。まるで、迷路だった。
 何度か梯子を昇り降りして、営倉のある区画に着いた。二名の兵が、扉の前にいる。
「おまえたち、どういうつもりだ。営倉には近寄るなと、ダークナイト様からの命令が出ているだろう」
「そのダークナイト様から、捕虜を移せという命令を受けてきたんだ」
 言いながら、ポールが眼で合図をしてきた。
「なんだと。命令書を見せてみろ」
 帝国兵が一歩踏み出してくると同時に、ポールが短剣を走らせた。帝国兵ののどが裂け、血が噴き出てくる。もうひとりがなにかを叫ぼうとしたが、その前にフリオニールは首を飛ばしていた。
「これが、営倉の鍵だな」
 屍体から鍵の束をもぎ取り、その中のひとつでポールが扉を開け、奥に進んだ。
 もともと営倉は、兵の懲罰のためにあるものだ。小さな部屋がいくつかあって、扉には格子の嵌まった、小さな窓がある。いくつかを覗いてみたが、入れられている兵はいないようだ。
 いちばん奥の部屋に、シドがいた。ヒルダの姿はない。いままで見た部屋にも、いなかった。ヒルダは、どこかに移送されたのだろうか。
「よう、シド。元気にしてるか?」
「ポールか。それに小僧たちも。ヒルダ様は、パラメキア本国に移送されちまった」
 小僧と言われても、不思議といやな気はしなくなっていた。それよりも、ヒルダだ。最悪の事態を想定してはいたが、やはりパラメキア本国に移されてしまった。ゴードンは両肩を落とし、うつむいている。
「待ってろ。いま開けてやるからな」
 言って、ポールが鍵の束を探った。
 扉が開き、シドが出てきた。薄暗くてわかりづらいが、シドは全身が傷だらけだった。
「拷問を受けてな。飛空船のことや、叛乱軍のことをいろいろ訊かれたぜ。どうやったらこんなでかい飛空船が作れるのか、逆に俺が訊いてやったけどな」
 シドは笑っていたが、傷が痛むようで、少し表情が引きつっていた。
「ここから先は、二手に分かれる。手筈通り、フリオニールとガイの二人で、機関室にむかってくれ。俺たち三人は格納庫にむかい、脱出の準備をする。うまくやれよ」
「任せてください。それより、シド殿は傷が痛むようですが」
「小僧に心配されるとは、俺もやきが回ったかな。言っておくが、おまえのような小僧には、まだまだ後れは取らんぞ」
 シドは、敵兵の屍体から奪った剣を何度か振って、感触を確かめていた。屍体から剥ぎ取った具足を着け、帝国兵に偽装もしている。
 かつてシドは、フィン王国の騎士団長だったのだ。無用な心配をするよりも、自分の任務に専心すべきだろう。
「頼むぞ、フリオニール」
「あまり気を落とすなよ、ゴードン。いまは大戦艦を爆破して、無事アルテアに帰ることを考えよう。ヒルダ様の救出は、この任務を成功させてから考えればいい」
 言うと、ゴードンは力強く頷いた。眼にも、光がある。
 ゴードンと何度か稽古をしているうちに、十本に一本は取られるようになっていた。我流のフリオニールと違い、ゴードンは幼いころから、父や兄に、剣や槍を基礎から教わっていたのだ。
 フィンの酒場で、ゴードンの兄、スコットの死に立ち会った。命の灯が消えようとしているにも関わらず、スコットはすさまじい闘気を放っていた。
 あれから何度かの闘いを経験し、北辺の勇者といわれたヨーゼフに、稽古もつけて貰った。強くなったという思いはあるが、それでもあの時のスコットには、まだ遠く及ばないだろう。そのスコットが、ゴードンには素質があると言ったのだ。
 ゴードンとは、いつかもっといい勝負ができる日が来る。そう考えると、愉しくて仕方がなかった。レオンハルトとの稽古も愉しかった。いつか、レオンハルトと再会できる日も来る。そう信じている。
「さあ、ぐずぐずしてる暇はない。行くぞ」
 言って、ポールが移動をはじめた。そのあとを、ゴードンとシドがついていく。
「よし、俺たちも行くぞ、ガイ」
 ガイが無言で頷いた。寡黙で、あまり感情を表に出さない男だ。稽古では五分五分というところだが、組み打ちになると、まったく歯が立たない。躰の大きさが違うだけでなく、ヨーゼフから教わった体術も、かなりものにしていた。そして、戦場ではこれほど頼りになる男はいない。背中を預けられる友。そういった男とは、なかなかめぐり逢えないものだ。
 機関室を目指し、速足で進んだ。急いでいても、走るわけにはいかない。見取り図も極力見ず、怪しまれぬよう、細心の注意を払った。
 途中で何人かの兵とすれ違い、適当に挨拶をした。整備中ということもあり、兵の出入りは多い。疑われることもなく、順調に進んでいった。
 中枢に近づいていく。ところどころに通気孔のようなものがあるが、熱気はいっそう強くなっていた。
 梯子を昇ると、これまでよりも広い通路に出た。角を曲がったところに、扉があった。扉の両脇には、二名の兵士が立っている。
「ここから先は管理区画だ。立ち入り許可証の提示を」
 フリオニールのこめかみを、冷たい汗が伝った。わかっているのは艦内の構造だけで、立ち入りが制限された区画があるとは、考えてもいなかった。そのことについては、ミンウも、ポールも知らなかったはずだ。
「貴様ら、叛乱軍だな」
 叫びながら、ひとりが斬りかかってきた。抜き撃ちに斬った。もうひとりが、壁の装置に触れている。すぐにガイが叩き斬ったが間に合わず、装置は作動し、艦内に警報がけたたましく鳴り響いた。
「どじを踏んじまったな。急ごう」
「ひとりで行ってくれ、フリオニール」
「どういうつもりだ、ガイ?」
「ここから先は、一本道だ。俺がここで敵を食い止める。その間に、おまえは機関室にむかい、太陽の炎を投げこんでくれ」
 ガイの言うことはよくわかる。狭い通路に追いこまれるよりも、ここで迎え撃った方が有利でもある。しかし、ひとりで持ちこたえられるのか。
「早く行け。もう敵が来た」
 具足の鳴る音。敵が殺到してきた。十人、二十人、数はさらに増えていく。ガイの表情は、穏やかだった。眼が合うと、静かに頷いた。
「わかった。死ぬなよ」
 フリオニールが言うと、ガイは背中をむけ、二丁の斧を構えた。広い、大きな背中だった。ガイを信じよう。信じて、背中を預けよう。友なのだ。フリオニールは、ガイに背をむけ、走り出した。
 腰の袋に手を当てた。袋には、ゴードンから預かった、太陽の炎が入っている。急いでこの石を投げこみ、戻る。それだけだった。
 後ろで、争闘の気配がした。警報は、まだ鳴り続けている。     

   六


 格納庫まであとひとつの区画というところで、警報が鳴り出した。おそらくは、フリオニールたちの偽装が見破られたのだろう。
 こちらの偽装も、すでに見破られていた。警報が鳴った区画とは、反対の方向に移動していたところを呼び止められ、誰何された。それからは、敵を斃しながら進むことになった。
 先頭を走るのは、ポールだった。
 格納庫までの経路はおろか、大戦艦の構造のほとんどが頭に入っているという。さすがに、ゴードンは憶えられなかった。懐には見取り図の写しが入ってはいるが、ポールについていけば、間違いないだろう。
 ポールの後ろを、シドが走っている。ゴードンは、最後尾だった。
 シドの闘いぶりは、剣を捨てて十年以上経つとは、とても思えなかった。自分など、到底かなわないだろう。フリオニールならば、いい勝負をするかもしれない。体躯に似合わぬ長剣を、フリオニールは自在に遣っている。
 そのフリオニールも、マリアの兄、レオンハルトからは一本も取れなかったという。ゴードンは、ようやくフリオニールから、十本に一本は取れるようになった。歳は、ゴードンの方がひとつ上である。
 ゴードンが目指しているのは、兄のスコットだった。兄の剣は、当代随一と言われていた。兄のように強くなれば、ヒルダも自分のことを見てくれるかもしれない、と思っていた。
 ヒルダが好きだ。兄の婚約者だと、自分に言い聞かせてきた。それでも、想いだけは、どうしようもなかった。本国へ移送されたと聞いた時は、眩暈がした。しかし、約束したのだ。いつか必ず、この手で助け出してみせる。
 脇道から、敵が飛び出してきた。
 突き出された剣をかわし、下から斬りあげた。狭い通路では、工夫して剣を遣う必要がある。剣は、右脇から斜め上に入っていき、左の鎖骨あたりで抜けた。ゴードンの後ろから、シドがひとりののどを突いた。ほかに、敵はいない。
「見ろ。あそこだ」
 ポールが指さした先に、空間が拡がっていた。格納庫だ。吹き抜けの構造になっていて、天井は開いていた。シドの飛空船もある。駈け寄って、シドが飛空船の点検をはじめた。
「くそっ。帝国のやつら、好き勝手にいじくり回しやがって」
「発進まで、どれくらいかかる?」
「わからん。おまえも手伝ってくれ」
 後ろから、金属の鳴る音が聞こえてきた。敵。十人ほどが、こちらにむかってくる。
「すまねえ、シド。手伝うのは、敵を片付けてからだ」
「私が先頭で斬りこみます。ついてきてください、ポール殿」
 剣を低く構え、ゴードンは走り出した。斜め後ろを、ポールが続く。躰が熱かった。全身に、闘気が漲っている。
 雄叫びをあげながら、ゴードンは敵の中に飛びこんだ。

 やけに足音が響く。通路が狭く、壁も床も、鉄でできているからか。
 鳴り続ける警報に焦燥感を覚えながらも、フリオニールは、そんなことを考えていた。何人かの敵を斬り伏せながら、機関室にむかって走っている。
 部屋が見えた。機関室。扉はない。
 転がるように、部屋に飛びこんだ。剣が、躰を掠める。少なくとも、二人はいる。正面。起きあがりながら、股間を斬りあげた。左。横に跳びながら薙いだ。首は飛ばなかった。のどが裂け、血が音をたて噴き出している。
 首筋がひりついた。とっさに身を屈める。兜が飛ばされた。あと少し反応が遅かったら、首と胴が離れていただろう。
 転がりながら、距離をとって起きあがった。敵の位置は、変わっていないようだ。躰の正面で剣を構え、剣先は、こちらののどもとにむいている。隙のない構えだった。
 顎の先から、汗が滴り落ちていく。機関室は暑い、ということにようやく気がついた。息を吸って、吐いた。ひと呼吸、ふた呼吸。いまだ。剣を横に構え、フリオニールは駈け出した。手練れを相手に、小細工は無用だ。敵も、こちらにむかってくる。
 馳せ違い、両者の位置が入れ替わるかたちになった。
 脇腹が熱い。浅くではあるが、斬られた。ふりむくと、敵はゆっくりとくずおれた。
 部屋の中央に、巨大な動力炉があった。下の階層に突き抜けるような構造で、四方に鉄管がのび、いたるところに計器や弁などが付いている。蓋を開け、中を覗きこんだ。ずっと底の方で、なにかが煌々と燃えている。石炭か、あるいは魔石か。よくわからなかったし、どうでもよかった。
 袋から、太陽の炎を取り出した。紅に輝く石を見つめながら、ヨーゼフの姿を思い浮かべた。厳しくもやさしく、そして、強い男だった。
 誓いを果たす。心の中で呟きながら、太陽の炎を投げこんだ。石は、吸いこまれるように、炉の底へ落ちていく。
 蓋を閉め、急いで部屋を出た。やがて、暴走した触媒が、爆発を引き起こすだろう。
 どれほどの爆発が起きるかは、ミンウでも予測できないという。下手をしたら、大戦艦ごと吹き飛びかねない。爆発に巻きこまれる前に、飛空船で脱出する。そのあたりは、完全に賭けだった。
 機関室の方で、爆発が起きた。艦体が激しく揺れ、フリオニールの躰は壁に叩きつけられた。再び爆発が起きた。今度は小さい。こうやって、徐々に爆発は艦全体に拡がるのだろう。その前に、脱出しなければ。斬られた脇腹が痛むが、気力をふり絞った。
 とりあえずは、ガイだ。ひとりで、数十人を足止めしている。ガイが死ぬとは思えないが、早く行って、助勢してやりたかった。
 管理区画の入口に着いた。思わず、フリオニールは呻きを漏らした。
 通路には、無数の屍体が積もっていた。手足や首、臓物などが飛び散り、屍体というよりも、肉片の山に近かった。
 通路の中央に、全身を真っ赤に染めた大男が立っていた。ガイだ。生きている。駈け寄って、フリオニールは声をかけた。
「大丈夫か、ガイ。怪我はないか?」
「全部、敵の返り血だ」
 言って、ガイが歯を見せて笑った。赤い顔に、眼と歯の白さが際立っている。ひとりで数十人を相手したにも関わらず、傷ひとつ負っていない。敵に回せば、これほど恐ろしい男もいないが、やさしい性格で、これまでにガイが怒ったところは見たことがない。兜を脱ぎ捨て、ガイは頭から水を被ると、布で顔を拭った。
「急ごう。ゴードンたちが心配だ」
 言うと、ガイは力強く頷いた。お互い、まだ余力はある。
 見取り図を見ながら、格納庫へむかって走った。後方では、小さな爆発が断続的に起きている。
 進路には、敵の屍体がいくつか転がっていた。ゴードンたちの偽装も見破られたようだが、敵に斃される、ということはなさそうだ。
 騎士団長だったころのシドについて、ミンウから少し聞いていた。
 十六年前の、帝国との小競り合いを最後に、シドは戦場に出ていない。多くの民が戦に巻きこまれ、シドの家族も、帝国の兵に殺された。復讐は考えず、シドは領地と身分を返上してフィンから去り、飛空船の開発に没頭した。
 そのシドが、再び剣を手に闘っている。叛乱軍のためなのか、それとも、果たすべき夢のためなのか。別に、理由はどうでもよかった。やたらと絡んでくるところはあるが、不思議と惹きつけられてしまう、そんな魅力を持った男だった。
 格納庫が見えた。剣の打ち合う音。中へ駈けた。
 ゴードンが、敵と打ち合っている。黒い剣士。ダークナイトか。ゴードンは、ほとんど防戦一方だった。手負ってもいる。ダークナイトの猛攻を、かろうじて凌いでいる、という状態だ。奥の方では、ポールが二人を相手にしていた。
 ゴードンの剣が弾かれた。考えるより先に、フリオニールはダークナイトにむかって駈けていた。
 駈けながら、腰の短剣を投げた。こちらに背をむけたまま、ダークナイトは右手で短剣を掴んだ。驚愕を覚えつつも、フリオニールは斬りかかった。消えた。上。跳躍していた。肩が熱い。右腕の付け根に、投げ返された短剣が刺さっていた。来る。黒い剣。やられる、と思った瞬間、ダークナイトはまた視界から消えた。風の唸り。ガイの斧だ。空を切った。
 左の方で、床が鳴った。かなり離れた位置に、ダークナイトは着地していた。
 短剣を引き抜き、ダークナイトと対峙した。
 ジェイムズの騎馬隊を撃ち破った男。背丈は、レオンハルトと同じくらいか。剣も、同じように左手で遣う。しかしこの強さは、自分が知っているレオンハルトより、ずっと上だった。全身からすさまじい闘気を発し、こちらを圧している。たとえるなら、黒い闘気。双眸は、まるで肉食獣のような光を放っていた。
 隣りで、ガイが双斧を構えた。ゴードンも、ふらつきながらも剣を構え直している。しかし、三人がかりでも、勝てるかどうか、微妙なところだ。ダークナイトひとりに、完全に気を呑まれた状態だった。
 上の方から、風が入ってくる。格納庫の天井が開いていることに、フリオニールははじめて気がついた。
 ダークナイトが、視界から消えた。いや、消えてはいない。低い姿勢で、駈けてくる。黒いけもの。そう思った。フリオニールは雄叫びをあげた。やってやる。二人斃れても、残りひとりが仕留めれば、それでいい。
「伏せろっ」
 肚を決めた直後に、後ろから叫び声が聞こえた。ポールの声だ。反射的に、フリオニールは伏せた。頭上をなにかが飛んでいき、炸裂した。多分、焙烙玉だろう。
 顔をあげると、ダークナイトの全身は炎に包まれていた。
 跳び起きて、フリオニールは斬りかかった。ダークナイトが跳躍し、炎に包まれた外套を投げてきた。横に跳んでかわす。着地しながら、ダークナイトは床に転がって、具足にまつわりつく炎を消していた。一連の動作に隙はなく、ガイもゴードンも、踏みこめなかった。
 ダークナイトと再び対峙した。同時に、これまでにない大きな爆発が起きた。床に這いつくばるようにして、衝撃に耐えた。ゴードンは耐え切れず、飛空船の方まで転がっていった。
 上層でも爆発が起き、頭上から、鉄板や鉄管が落ちてきた。爆発は、艦全体に拡がっているようだ。
「退いてください、ダークナイト様。これ以上、保ちません」
 ダークナイト同様、黒い具足でかためた兵が走ってきて言った。
「わかった。兵は退避しているな?」
「はい。騎馬隊だけが、外で待機しています」
 頭全体が兜に覆われているからか、ダークナイトの声はくぐもっているが、若い印象を受けた。歳は、それほど変わらないのかもしれない。
 部下とともに、ダークナイトが駈け去っていく。一度だけ、こちらをふり返った。勝負は預けた、とでも言いたいのか。あのまま闘い続けていれば、まず自分は死んでいただろう。
「乗りこめ、小僧ども。発進するぞ」
 後ろから、シドの怒鳴り声がした。すでに機関は始動している。ゴードンに肩を貸し、急いで飛空船に乗りこんだ。
 またどこかで爆発が起きた。振動で、飛空船が大きく揺れる。
「行くぞ。なにかに掴まってろ」
 発進した。爆発に揺られながらも、飛空船は上昇していく。
 外へ出る瞬間、爆発で船体が大きく揺れ、壁にぶつかった。上の方で、なにかが折れるような音もした。
「くそっ。羽根が一本折れちまった」
 シドが怒声をあげた。それでも、飛空船はゆっくりと前進した。
「見ろ。ダークナイトの騎馬隊だ」
 ポールが外を見て言った。ポールも手負ってはいるが、傷は浅いようだ。
 フリオニールも、窓から外を覗いた。黒の装備で統一された百騎が、縦列で駈けている。先頭の黒い馬に跨っているのが、ダークナイトだろう。
「あと少し、フリオニールたちが来るのが遅かったら、私は死んでいた」
 脂汗をかきながら、ゴードンが言った。具足を解き、手当てをしているところだ。傷はかなり深いが、命の心配はなさそうだ。
「おまえはよく凌いだよ、ゴードン。俺だったら、勝負を急いで、もっと早くに討ち取られていた気がする」
「なんとなく、レオンハルトに似ていた」
「おまえも思ったか、ガイ。しかし、あれは別人だ。漂わせている闘気が、あまりにも違いすぎる」
 それに、と言いかけてフリオニールはやめた。レオンハルトであれば、叛乱軍に合流するはずである。両親を殺したパラメキア帝国は、倒すべき敵なのだ。
 遠ざかっていく黒い騎馬隊は、蟻の群れのようだった。
 轟音がして、船体が大きく揺れた。
 地上を見ると、大戦艦が爆発、炎上していた。
「ついに、大戦艦をぶっ毀したな。しかし、俺の飛空船も、ところどころいかれちまった。アルテアまでは、騙し騙しの航行になる。我慢しろよ」
 大戦艦を破壊し、ヨーゼフとの誓いは果たした。ただ、ヒルダの救出は叶わなかった。
 もう一度、フリオニールは大戦艦を見た。炎をあげながら、小さい爆発が続いている。
 黒い騎馬隊は、もう見えなかった。

 途中、整備のため二度着陸した。
 アルテアの西で、ついに飛空船は機関が停止し、ほとんど墜落するように不時着した。大戦艦を破壊してから、七日が経っている。
 しばらく修理を手伝っていると、アルテアの方から、十騎ほどが駈けてきた。ミンウの指示だろうか、馬も曳いている。
 用意された馬に乗り、アルテアにむかった。シドは残って、飛空船の修理を続けることになったが、ミンウに宛てた書き付けを渡された。修理に必要な物品が、いくつか書いてある。
 自分で行けばいい、とフリオニールは思ったが、どうやらシドは、スティーヴに会うのがいやなようだ。過去に、いろいろとあったのだろう。
 アルテアに着き、司令部に報告した。
 大戦艦の破壊には成功したものの、ヒルダはパラメキア本国に移送されてしまった。スティーヴは、眼をしばたかせながら、終始唸っていた。
 老齢にも関わらず、スティーヴは激務を続けている。縮んだ躰を見ていると、いたたまれない気持ちになった。怒鳴られている方が、まだましだ。
 ポールは、すぐに次の任務にかかっていた。魔法で傷を完全に治せばいい、とフリオニールは言ったが、それほどの傷ではない、と笑っていた。もともと生き物には、自分で傷を治す力があり、そういった治癒力を保つためにも、魔法に頼りすぎるのはよくないそうだ。
 ゴードンの傷は、マリアの魔法である程度まで回復させた。風邪が治ったあと、マリアはミンウのもとで、魔法の修業をしていたらしい。
 以前よりも、マリアの躰は丸みを帯び、女らしくなった、という気がする。背中まであった長い髪は、肩のあたりで切っていた。
 翌朝、重立った者がロベールの部屋に呼び寄せられた。危篤状態が続き、意識も絶え絶えなのだという。
 昨晩から付きっきりだったのだろう、部屋にはミンウとスティーヴがいた。フリオニールたちのすぐ後ろから、ゴードンも来た。
 ロベールの意識はあるようだ。こちらに気づき、力なく手招きをしてきた。
 寝台の方へ進んだ。眼が合うと、ミンウはかすかに首を振った。以前言っていた、魔法は万能ではない、という言葉を思い出した。
 寝台の前で、フリオニールは拝礼した。ロベールが上体を起こそうとしたが、首だけしか持ちあがらなかった。近衛兵に支えられて上体を起こすと、一同を見渡した。
「スティーヴ。幼いころから、ほんとうに世話になった。これからも、苦労をかける」
「陛下と過ごした五十年、いろいろありました。すべてが、きのうのことのように思い出せますぞ」
 言いながら、スティーヴはロベールの手をとった。二人の間には、主君と臣下以上の結びつきがあるのだろう。
「ゴードン。すっかり、逞しくなったな。ミンウとスティーヴを補佐として、今後の叛乱軍の指揮は、おまえに任せる。そしていつの日か、ヒルダを救い出してくれ」
「はっ。命を懸けて」
「ミンウ。アルテマを知っているな?」
「はい。最後の叡智、あるいは究極の奇跡と呼ばれる秘法で、世界の危機が訪れた時、その封印が解ける、と伝え聞いています」
「まさに、いまがその時だと思う。おまえの故郷、ミシディアへ帰り、古老たちから詳しい話を聞くのだ」
「仰せのままに」
「フリオニール、ガイ、そしてマリア。余は、おまえたちに何度も勇気づけられた。これからの世は、おまえたちのような若者が創っていくのだろうな」
「勿体ないお言葉です」
 ロベールは微笑んだが、次の瞬間、激しく咳きこんだ。吐いた血が、蒲団に飛び散る。眩しいほど真っ赤な血だった。ロベールの顔は赤紫色に変色し、呼吸も荒かったが、袖で口もとを拭うと、再び話しはじめた。
「ディストへ行ってくれ、フリオニール。ディスト王国は、飛竜に騎乗する、竜騎士団を組織していた。帝国が真っ先にディストへ侵攻したのは、一騎当千といわれる、竜騎士の力を恐れたからだ。竜騎士団は壊滅したというが、もしかしたら、生き残りがいるかもしれない。それを捜し出し、協力を得るのだ」
「わかりました。竜騎士の生き残りを見つけ、協力を得ます」
 復唱すると、ロベールは笑みを浮かべながら頷いた。
「みなが力を合わせれば、必ずや、勝利の日が訪れよう。諦めることなく、闘い続けろ。いまや野ばらの旗は、フィンの国旗というだけではなく、パラメキア帝国に対抗する、すべての者にとっての旗なのだ。決して、旗を降ろすでないぞ。おまえたちの闘いぶりを、余は天から見ることにする」
 笑みをたたえたまま、ロベールは眠るように息を引き取った。背を支えていた近衛兵が、涙を流しながら、ロベールの躰を横たえた。
 戦時ということもあり、葬儀は略式で行われた。シドも、飛空船の修理を中断して参列した。
 三日後の朝には、旅仕度を終え、馬に鞍を乗せていた。いまは、それぞれの使命を果たす時なのだ。
 馬上から、司令部の屋上の、野ばらの旗を見あげた。旗は、旗竿の半分ほどまでの高さで、弔意を表している。
 ゴードンは、兵の調練に出て行った。この三日間で、二百名が兵に志願してきた。アルテアの兵力は、千二百といったところだ。今後もさらに、帝国と闘おうという者たちが、野ばらの旗のもとに集うだろう。
 旗は、誰の心の中にもある。駈けながら、フリオニールは思った。

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