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さびしい日には、らーめんをたべる
ひとりの時間はらーめんが食べたくなる。ふくろに入った、家での鍋でらくらく作れるタイプがお気に入りだ。
ひとりの時間は寂しい。
まいにち人と顔を合わせて暮らしていると、急なひとり時間のさびしさに、すこしずつ体温が下がるような気がする。そんな時、わたしは決まってコソコソとらーめんを食べてしまう。
しょっぱくて、あたたかくて、食べた後に思わず(ふう)と言いたくなる。やりきったぞ、と一つ仕事を終えたような達成感。そこからくる満足感。身体がぽかぽかしている、安心感。
さっきまで冷え切っていたからだをめぐる血液が、ぐんぐんスピードアップする。(よ〜し)と心でつぶやく。気づけばさっきまでピューピュー吹いていた隙間風のような寂しさが、シンと止んでいる気がした。
らーめんの消費量ナンバーワン、山形県。
さいきん新潟がナンバーワンになったらしいよ、と久しぶりに同級生から連絡がきた時はおどろいた。その報告の声には、わらい半分、くやしさ半分の声だ。何人もの友人が、インスタグラムでらーめんアカウントを運用していて、上京した今も続けているようだ。
しかし一部の人のらーめん愛は、やはり並じゃない気がする。ダテに元ナンバーワンではないのだ。
わたしも思い返せばらーめんの消費量にはずいぶん貢献したと思う。
小学生から中学生くらいまでの週末は家族そろって毎週のようにらーめん屋に通った。なんと毎週、毎週、ランチはらーめんだ。
父と母が、今週はここのらーめん屋にいくけど、くる?と聞いてくるので、じゃあ、と言ってついて回った。たべるために車を1時間走らせることは、なにも珍しいことではない。2時間程度なら、迷いなくエンジンをブルルンとかけて、うきうきしながら向かった。
無事らーめんを堪能したかえり道は、ここが美味しかったとか、こっちの店の方が好きだったとか、この店と似てるだとか、らーめんトークに花を咲かせた。らーめんオタク一家。姉のお気に入りの店も、母のお気に入りの店も、父のお気に入りの店もだいたい見当がつく。レモンが浮いているすっぱいらーめん、煮干しの聞いたダシのらーめん、ニンニクと唐辛子のきいた辛味噌らーめん。
もう亡くなってしまったが、父はとびっきり汗かきで、らーめんを食べるためにタオル生地のハンカチがかかせなかった。
道中ハンカチを忘れたことに気づいた父が、取りに帰りたいと家までのUターンを申し出た時は、ブーイングにあった。お店が混み合うランチタイムを外していくために、早めに家を出たと言うのに。まったく、らーめん前の準備は、きちんとしておいて欲しいものである。わたしと母は、割とすずしい顔をして食べれる体質であったので、「どうしてそんなに汗をかくのだろうね」とよくわらった。
母の週末出勤の時はさびしかった。
そんな時、祖母が近所の中華蕎麦やさんに電話をかけてらーめんの宅配を食べさせることが多かった。おっきな丼にラップがピチッとかかっている、まだアツアツのらーめん。小銭を玄関でちゃりんと渡す。口にすると、案の定(ふう)と言いたくなり、さびしさが紛れた。
しょんぼりしていた身体が温まって、ひんやりしていた心が溶けていく。食べ終えると、らーめん丼をゆすいで玄関前に置いておいた。
わたしが上京して、年に数回帰省した時。母はいつも車で駅まで迎えにきてくれる。そしてその足でらーめん屋に向かうのだ。近況報告はらーめんを食べながら。定年が近い母が涼しい顔で麺をすすっている。80歳を超えた祖父母もずるずると麺をすする。胃もたれとは無縁なのか。やはり我が家のらーめん愛も並ではない。
こんなにらーめんが好きなのに、私は自作して人にふるまったことがない。品よくないな、と思いながらもインスタント麺を鍋でつくって、そのまま一人でたべるのが好きだ。つくるより、たべる派なのだ。
さびしくなると私はらーめんが食べたくなる。
ずっと不思議だったけれど、最近そのワケが、わかってきた気がした。
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