見出し画像

2023/11/06 それって全部お前の考えた通りのお話でしかないじゃねえかよ

先月のあらすじ。パソコンが壊れた。

修理に出して直りました。メモリの接触不良だったから、頑張れば普通に自分で直せた…………が、まあ、五年間サボり続けた掃除を代わりにやってもらったので良し。埃が積もりきってダークソウル2の古竜の記憶みたいになってたパソコン内部が綺麗になった。あと一年は頑張ってほしい。

相変わらず小説公募のことしか考えていない。
8月9月と長編を出したので、先月10月はすっからかん。本を読みながら、ほとんど11月末の〆切に向けての次作のプロットを書いて過ごす。プロットとは小説、劇、長詩などの筋立て、構成のこと。
だいたい一週間くらいで通り一遍のものはできたけど、全然エキサイトしない。まさしく文字通り「通り一遍」。この他人事感、何かと思ったら「自分はハマってないけど売れ線はこのあたりだよな」という類推で仕立てたプロットであることに気がつく。借り物の面白さらしい。

ただ、それでも別に書けりゃ構わない。個人的にプロットは最低保証であるのがベストだと思っている。最低限、筋が破綻しないための防衛ラインで、番組進行用の脚本みたいなものというか。

作家の結城浩氏のMondにこういう投稿があった。

これは想像ですけれど「起承転結」は小説や物語の構成を人に説明するときにはそれなりに有効ですが、自分が執筆するときにはあまり有効じゃないんじゃないかなと思います。なぜかというと、そんなふうに「起承転結ありき」でストーリーを考えるならば、いかにも型にはまったストーリーになりそうだからです。質問に書かれているように「ストーリーに変化を持たせるため」という目的を考えるならなおさらです。

「どう起承転結を作ってる?」という同じ質問に作家の人たちも軒並み「起承転結」を意識していないと回答していて面白い。

私は多くの場合、舞台設定を終えて登場人物に問題を与えたあとは彼女たちの自由な行動にまかせます。ときには作者である私自身にも予想が付かなかった方向に話が進むこともあります。そのように書き進めていくなら「ストーリーに変化を持たせる工夫」をあまりしなくても、自然に変化がつくのではないでしょうか。

『ジョジョ』の荒木飛呂彦氏もそういう書き方をしていると読んだことがある。著者自身も丈助は吉良吉影を倒せないんじゃないかとドキドキしていたとか。しかし、ジョジョを駆動する原理は「勝利」であり、その点で破綻がなければ必ずキャラクターたちがなんとかしてくれる。作者すら知らない展開に巻き込まれることで、あの緊張感が生まれるのではないかと思う。

そういう、作者が手を離しても通るような原理をエンジニアリングするのが、プロットという工程であると現時点では解釈することにしている。
ここには起承転結や三幕構成は不要で「...承承承承承承承承承承承承承承…」と続く平面空間があるだけで良い。別になくても良い。肝心なのは自分が書くことができるかどうか、それだけの勾配を生み出すエネルギー(リビドー)がアイデアにあるかどうかである。
そこさえ保証されれば、あとは逃げない限り何かができる。取り組めば少なくとも作品というリターンはある。競馬で全馬の単勝に賭けるようなもので、どんなレースになろうとお金は戻ってくる。そういう意味での最低保証である。
だから、プロットは「全張り」みたいな、基本的に「薄っぺら」で「浅はか」なものだと心に留めておく。プロット通りに書いたものは「プロットを書き換えたもの」でしかない。それで悪いということはないけど、良くもない。それって全部お前の考えた通りのお話でしかないじゃねえかよ、という気持ちがある。
理想的なプロットとは、最終的に放棄され、忘却されるべきものだと思う。作者が最終的に作品から去っていくのと同じように。

プロットより未来のことは、「ブリコラージュ」としてやっていくしかないのだろう、と直感している。
ブリコラージュは文化人類学者のクロード・レヴィ=ストロースの提出した用語で、「エンジニアリング」と対を成す概念となっている。

ブリコラージュは、理論や設計図に基づいて物を作る「設計」とは対照的なもので、その場で手に入るものを寄せ集め、それらを部品として何が作れるか試行錯誤しながら、最終的に新しい物を作ることである。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ちなみにこれは、文化人類学的な文脈から出た用語なので、自然との対決的な側面が大きい。私がこの語を知ったのは、高野秀行氏の『イラク水滸伝』に紹介されていたからで、イラク南部の湿地帯に暮らす人々が営む、身の回りの自然物全てを利用する生活にこの表現を当てはめたのである。というか、逆に彼らには「エンジニアリング」の発想がなさ過ぎて羨ましいくらいだった。この本は本当にめちゃくちゃ面白いのでおすすめです。

話は戻ると、とにもかくにも、その辺にあるものを全て使ってプロットを乗り越えていかなくちゃいけないものだろうと思っている。
私は確かにノらないプロットを書いた。だからこそ、ブリコラージュ的にこの身にあるもの全て持ち出して、キャラクターたちの力も借りて、小説という形式も借りて、そこに宿る「浅はかさ」を転覆してやらなきゃならないわけである。それは探求に似たプロセスになる。彫刻家が一本の木から、それにふさわしい形姿を探り当てるように。あるいはSF作家の伊藤計劃が『ハーモニー』を通じて次の言葉を探ったように(そして本人曰く「なかった」と言うように……)。

何をこんな長々と、と呆れてる……要するに、いいものができるかどうか不安だから、とるものもとりあえず、正当性を担保したいというだけの話だった。来月には何言ってんだコイツとなるべきだ。今すでになっている。しゃにむにジタバタしているだけだった。
結局、根源的に必要なのは勇気しかないのだった。それが足りない。偉大な芸術家のジャコメッティだって「もうひとつまみの勇気があれば!」と大量の失敗作を散らしていたんだから、アンパンマンの友達を名乗るだけのことはある。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?