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「君たちはどう生きるか」で最もつまらない顔

映画「君たちはどう生きるか」を結構前に観た。
リアルタイムの感想は下記。(ポスト(旧ツイート)の下には息をするようにネタバレがあります。それと視聴直後に見るのはおすすめしない、読後感の映画バージョンをぶち壊しにする可能性のある記述があります)

ここでは「なんでか知らん」と書いてるけど、実は涙の理由はちゃんとある。だけど、それはあまりにもパーソナルにすぎる理由なので、真に受けた人が「泣ける映画なんだ」と思って観に行って「えー…? あの人宮崎駿オタクだったんだ…」って思われるのは嫌だからこういう表記にした。(※宮崎駿オタクが悪いのでは決してなく、私が別に全然宮崎駿オタクではないために、そういう誤解を人に与えて宮崎駿オタクの方を貶めることを畏れたためです)。
まあ、よくよく考えたら結局「なんでか知らんけど」という表現は正しい気がしてきた。

映画に対するデカい感想としては「俺はこう生きた、それでお前は?だった」「本当に自分の描きたいものを純粋に描くためには宮崎駿か村上春樹くらいにならないと許されないんだな」くらいで。

主人公の眞人くんは、亡くなった母親に関わるコンプレックスから父親の再婚相手のナツコさんを受け入れられないわけだけど、世界を滅ぼすレベルの大冒険の中で精神的な雪解けを迎え「お母さん」と呼べるようになる。その他にももろもろの成長や危機があって、やがて、もはややけっぱちみたいな大団円があってから、物語は終戦の後に家族で東京に戻るシーンで終わるんだけど、その時には、大冒険の時にナツコさんが身ごもっていた子供が生まれていて、手を引かれるその小さい姿が映し出されるのだけど……。
おい、お前そんな顔かよ! って思ってしまった。
眞人もお父さんもナツコさんもヒミも、ジブリ映画を煮詰めたようないいキャラデザだし、地下世界でわらわらを巡る生命誕生のグロテスクで奇跡的な一場面を見た後、映画の終わりで「そしてこの子が生まれた」という文脈で拝む顔にしては、もうなんというか「凡」すぎだった。もう、普通すぎて、あえてちょっと危なっかしい言葉を使うとすれば、つまらない顔をしていてびっくりしてしまった。

でも、それでいいんだろうな、とエンドロールで米津玄師の歌声が聞こえてきたあたりでなんか腑に落ちた。
この映画はX(旧Twitter)(←すべてのメディアは永遠にこの表記を続けてほしい)で「宮崎駿の原液」と言われていた。原液であるからには薄めなければならない。われわれの感受性で、表現力で、あるいは、その大衆性で……。
宮崎駿の世界は濃密すぎる。リアルよりも魅力的である。私もトトロのビデオを永劫に見ているような子供だったので、その劇物ぶりがよくわかる。

で、そういうものを通り過ぎた直後、まさにその瞬間、念頭にあったのは……。
オモコロチャンネルのじゃれ本だった。

(※リレー小説(恋文)を書く動画です)
6:18~あたりから。

俺ってマジで面白すぎるな。狙ってるわけじゃないけどね?このままだと俺の子供も面白くなりすぎて、保育園の学芸会で一本一本の設定が微妙につながってるテクニカルなコント集やっちまうよ。
たのむ!お前の遺伝子を借りて、丁度つまんない子供にしてくれ!

こんなにピッタリな表現ある?

「君たちはどう生きるか」って、もしかしてこの一文を映画化したものなのか? そう思った瞬間、なんかものすごく泣けてきた。いろいろ、いろいろな考えが寄せてきて。
そう、あの終戦の年に生まれたびっくりするほどつまらない顔の子供が戦後の困窮を生き抜いたから今があるんだとか、完成にこぎつけるための宮崎駿の七年間分の祈りとか狂気とか愛とか、それでも昇華しきれずに残ってしまったものだとか、そういうものをまるっとこちらに投げつけてくる、いや、どうしても投げつけるしかないとかそういう悲哀だとか、それでも観る者を信頼して描いてよこしてきてくれたことだとか、これを母国語で観ることのできる幸いだとか、これ観た記憶を抱えて生きていかなくちゃいけないのかよとか、この映画と俺の間にある世界が丁度つまらない愛すべき場所なのかも知れんとか、もしかしたら俺も宮崎駿の作品の間でこんな丁度つまらない顔で生まれて丁度つまらない風に生きてきたたくさんのガキのうちのひとりなのかも知れんとか、いずれ自分がこの丁度つまらない何かを生み出す瀬戸際に立つ日がくるのかも知れんとか、そういう可能性のことだとかがいろいろとワッと来て、泣けてしまった。

それにしたって、なんでだよ。今でもわからない。
以上。


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