統合失調症の私が伝えたい5つの事Vol5

5 京都での暮らし

こうして、私と孝也は京都の祖父母、義夫と季美そして、伯母の節子の家で暮らし始めた。 私たちの学校の転入の手続きなどを済ませた常夫は、仕事のために、盛岡へと帰って行った。 常夫にとっては、岡山は辛い土地になったのだろう。 会社のビルを売却して、私たちの住んでいた家を親戚に安く譲って、会社の拠点を盛岡に移していた。

京都の水が合わなかったのか、それとも常夫と江美子の離婚による精神的なストレスからなのか、私と孝也は、激しい下痢に悩まされた。 時には嘔吐もした。 私は蕁麻疹も出た、季美は、私たちを医者に連れて行ってくれたり、食べやすいものを作ってくれたりと、本当によくしてくれた。

京都の学校に転入したのは、私が4年生、孝也が1年生の3学期だった。 岡山の学校の時のような、無邪気で天真爛漫な雰囲気はクラスになかった。 先生が、
「これ、わかる人?」
と、聞いたら、岡山の小学校の時は、何人も、
「はーい」
と、手を挙げた。 中には、椅子に立って、当ててもらおうとする男子もいた。 でも京都の学校では、先生が問いかけても、だれも手を挙げない。 その雰囲気の違いに、私はかなり戸惑った。

参観日も、私にとっては嫌な思い出だった。 きれいな服で着飾った母親たちの中に、黒い服を着て混じる季美。 私はそんな季美が、恥ずかしかった。 お弁当もそうだった。 カラフルなみんなのお弁当とは違い、季美の作るお弁当は、茶色かった。 本当に一生懸命、私と孝也に愛情を注いでくれた季美、今ではそんな季美に、感謝の気持ちでいっぱいなのだが、当時は、恥ずかしくて仕方なかった。

でも、優しく声をかけてくれる子もいて、徐々にではあったが、学校に馴染んでいった。 昭代もそんな風に声をかけてくれた一人だった。 昭代の父は歯科医だった。
「私も歯医者さんになりたい」
と、私に話した。

昭代は中学受験を目指して、小学校4年生の時から、塾に通っていた。 節子は、昭代の家に菓子折りを持って訪れ、昭代がどこの塾に通っているかを聞いてくれた。 そして、私に、塾通いを勧めた。
(昭代と一緒に勉強できるのは、楽しそう! )
と思い、私は5年生になってから、昭代と同じ塾に通い始めた。 塾での勉強はとても楽しかった。 私は勉強に夢中になった。 特に、国語と社会が好きだった。 算数は少し苦手だった。

時には、昭代の母に、昭代の自宅で、昭代と二人で、算数を教えてもらった。 昭代の母は、きれいな女性だった。
(こんなお母さんがいるなんて、いいなあ)
と、羨ましく思った。
家でも、塾で習ったことを復習したり、宿題をしたりして過ごした。 私が塾に通うまでは、いつも一緒に遊んでいた幸也は、少し寂しそうだった。
塾には、昭代と一緒にバスで通った。 私は塾に行くのが、楽しみで仕方なかった。 友達もたくさんできた。 塾が終わるのは、9時くらいで、やはり昭代と一緒に、バスで帰った。 家からバス停までは、徒歩10分くらいかかる。 そのバス停まで、市役所の仕事を終えて、夕飯を食べてから、節子はいつも歩いて迎えに来てくれた。 季美は、私にお弁当を作って持たせてくれた。 塾で食べるお弁当だった。

塾の先生や、学校の担任の先生の勧めもあり、私は、同志社中学校を受験した。 入試の前の日は、朝から夕方まで、塾で勉強した。 私は、滑り止めは、どこも受けなかった。

試験は緊張したが、やり切ったという思いの方が強かった。 そして、同志社中学校に無事に合格した。 季美は、私の合格を祝って、赤飯を炊いてくれた。 節子も、とても喜んでくれた。 私が同志社に合格できたのは、塾代を出してくれた常夫のおかげでもあるが、季美と節子のおかげである。 その二人が、喜んでくれて、私は心底嬉しかった。


7 同志社での日々

同志社は、1875年に新島襄が創立した、クリスチャンの学校だ。 校風はとても自由で、細かい校則も、制服もない。 先生も生徒も、個性的で、どこかのんびりとしていた。

今は岩倉に中学校の校舎はあるのだが、私が入学したころは今出川に校舎があった。 私は、バスと地下鉄で、中学校に通った。

毎朝、授業の前にチャペルで礼拝を守った。 毎朝、色々な先生や、校外から来て下さる方がお話をしてくださった。 礼拝中に友達とおしゃべりして、先生に、注意されることも何度かあった。 今振り返ると、本当にもったいないことをしたと思う。 戻れるものなら戻って、貴重なお話を真剣に聞きたいと思う。

私が特に印象に残ったのは、名前は忘れてしまったのだが、ラグビーをされていた方が話してくださった、
「努力は運をも支配する」
という言葉だった。 努力すれば、持って生まれた運すらも変えることができるのだという、力強い話だった。

毎朝、読む聖書。 皆で歌う讃美歌。 オルガンの音色。 ありがたい説教。 ステンドグラス越しに差し込む日の光。 本当に、素晴らしくて貴重な時間だった。 ステンドグラスから差し込む日の光は、本当にきれいだった。 このチャペルでの経験が後々の私のアイデンティティの確立に寄与したところは大きい。

私は、部活の体験入部を経て、バスケットボール部に入部した。 バスケットボールが楽しかったからなのだが、綺麗な先輩や、面白い先輩がたくさんいたというのも、入部した理由の一つだった。 後に親友になるやよいとも、バスケットボール部で出会った。 やよいは、頭が良くて、面白かった、そして、優しかった。
部活の練習では、よく御所に走りに行った。 内御所の塀に近づくと、ブザーが鳴る。 私は、わざと塀に近づいて、ブザーを鳴らしては、みんなを笑わせた。 リバウンドの練習をしたり、ドリブルの練習をしたり、パスの練習をしたりと、練習は厳しかったが、仲間と共に頑張るのは、本当に楽しかった。 バスケットボールが上手になりたくて、私は家に帰ってからも、一人で、ドリブルなどを練習した。 それくらいに打ち込んでいた。

その頃、私は、常夫にギターを買ってもらって、やよいたちとバンドを組んで、ギターの練習もした。 でも、私は、ギターのセンスは全くなかった。 バンドのみんなにずいぶんと迷惑をかけた。

クラスでも、すぐに友達ができた。 そのころは、「たのきん」と、「ひょうきん族」が大人気で、休み時間に、アイドルの話をしたり、お笑い芸人の話などをしたりして、盛り上がった。 私は、近藤真彦が好きだった。
友達もたくさんできて、中学校生活はとても楽しかった。 授業では、特に英語が好きになった。 同志社中学校に私が通っていたのは、もう40年近く前になるが、その頃から、ネイティブの先生の英語の授業があった。
(英語ができたら、外国の人と友達になれるのだな。 外国に行ってみたいな。 アメリカに行ってみたいな)
と、ぼんやりとだが、アメリカに留学したいという夢を抱いた。 私は英語の授業が大好きになった。 そして、家でも予習復習をしっかりやった。

私は、本もたくさん読んだ。 国語の先生が紹介してくださった、三浦綾子さんの「塩狩峠」や「氷点」には、心打たれた。 国語の先生は、中年の女性で、陰があって、どこか江美子に雰囲気が似ていた。 私はその先生が大好きになり、先生の薦める本は、片端から読んだ。 太宰治の「人間失格」もそんな本の一つだった。 その本は、まるで、私一人に語り掛けているように感じさせる本だった。

常夫は、月に一度ほど、盛岡から京都の節子の家に泊まりに来た。 お酒の好きな常夫は、酔うと必ず私の布団に潜り込んできた。
「お酒臭い!あっちに行って!」 と、私は照れくさくて、常夫に背を向けた。 孝也は、はしゃいで、常夫とプロレスごっこをしたがった。 そんな風に私たちの日々は過ぎていった。



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