統合失調症の私が伝えたい5つの事Vol30

41 離婚

隆道がお盆参りに行き、大智と亮純は登校日なので、学校に行っていた。私は何の気なく、房恵に電話した。
「お母さん、元気?」
「私は元気やけど、あんた、大丈夫なん?」
「大丈夫って、何が?」
私は聞いた。
「隆道さんが、私に電話かけてきたんよ。あんたと離婚したいって。」
「えっ?」
「子供らにも、もう話してあるって。もうこれ以上は、支えられないって。」

(どういうこと?)
(離婚?)
(子供たちには、もう話してある?)
房恵の言葉が、頭の中をぐるぐるとまわった。

とにかく、隆道さんが、明後日に来て欲しいって言うから、私、そっちに行くから」
そう言って、房恵は電話を切った。
 

房恵を駅まで迎えに行く車中で、隆道も、大智も、亮純も、私も、押し黙ったままだった。重い沈黙だった。房恵を車に乗せてから、私たちは、ホテルのカフェで、遅めのランチを食べた。
 食べ終わると、房恵は、大智と亮純に聞いた。
「お父さんとお母さんが、離婚するのは、知ってるやんな?」
二人ともうつむいて、コクリとうなずいた。
「お母さんの事は、おばあちゃんに任せて、二人はしっかりと勉強して、お父さんと三人で頑張るんよ」
亮純の目から、涙がポロリとこぼれた。大智はうつむいたままだった。私の目からも、涙がこぼれた。でも、とてもそれが現実だとは思えなかった。
 

房恵を見送って、家に帰り、二人きりになった時に、隆道は私に言った。
「あなたは、ここにいたらよくならない。私なりにあなたを支えてきたつもりじゃけど、もう限界じゃ」
「慰謝料と言ったら、私が悪いみたいだから、治療費として、まとまったお金を渡す。東京でも、京都でもいい。そのお金で、生活を建て直して、早く病気を治して、昔のあなたみたいに、輝いて生きていって欲しい。ここは、あなたには無理じゃと思う。」
 

隆道の言葉を聞きながら、私の頬を涙が伝った。ただ、哀しかった。大智の誕生。亮純の誕生。教子との葛藤。英会話教室。教子の死・・・色々なことがあった。でも、私は、確かにここで生きていた。ひたすら生きていた。自分の人生を賭けていた。それが、今、崩れようとしている。
 ひとしきり、涙を流した後、その涙を手の甲で拭いながら、私は、隆道に言った。
「隆道さん、色々と迷惑をかけて、ごめんなさい。そして今までありがとう。大智と亮純を産めて、これまで育てられたことを感謝している。私、幸せやった。」
「こちらこそ、今までありがとう。私も、あなたと結婚して、幸せじゃった」
隆道も、涙ぐんだ。
 

荷物を片付けたり、色々と手続きをしたり、引っ越しの準備をしたりして、私は過ごした。喜代も奈美もお寺に顔を出さなかった。私は、噛みしめるように、大智と亮純との残りの時間を過ごした。毎日の食事も心を込めて作った。

ヨガの先生の佳子が、私と隆道が離婚するという話を聞きつけて、寺にやってきた。
「和尚、葉月さんは何も悪くないです。手伝いがいらないと、喜代さんは言ったんですよ!」と、話に来てくれた。

でも、隆道の気持ちは変わらなかった。そして、2008年、8月25日に私は、隆道と離婚した。私の39歳の誕生日の4日前だった。離婚した私は、房恵や、孝也や直樹がいる、東京へと向かった。



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