統合失調症の私が伝えたい5つの事Vol26

37 断薬・4回目の入院

私の入院中に、隆道の大学時代の友人で、フリーライターの哲男が、寺の仕事や子供たちの世話を手伝うために、寺に住み込んでくれていた。皆、私の退院を喜んでくれた。特に亮純は、私が家にいるのを喜んでくれた。亮純とキャッチボールをしたり、サッカーをしたりして、よく遊んだ。

病院でやめていた、煙草だったが、隆道も哲男も喫煙者ということもあり、私はまた煙草を吸うようになってしまった。子供たちに隠れて吸うことに、後ろめたさがあった。
すると、隆道は、
「大智、亮純、お母さんは煙草を吸いまーす」
と、子供たちに言った。亮純は、
「煙草を吸うお母さん、大好き」
と、言って、私の背中に抱きついてきた。
 
隆道や哲男とともに、寺の雑務をしたり、家事をしたりと、完全に復調したとは言えなかったが、それなりに平穏な日々を送れるようになった。
 
そんな日々が半年ほど続いた頃、私は、ふと、薬をやめたくなった。
(別に薬を飲まなくてもいいのではないか?)
そんな思いがよぎったのだ。

私は、隆道に内緒で、勝手に薬をやめてしまった。でも、通院は続けていた。薬を飲んでいるふりはしていた。忙しい隆道は、それに気づかなかった。断薬しても、何も症状は変わらなかった。むしろ、頭と体が軽くなったような気がした。
 
そんな頃、やよいから、中学校・高校の同窓会の案内の往復はがきが届いた。
(みんなに会える!)
私は、出席の返事を出した。そして、ダイエットのためにジムに通った。体重が70キロを超えていたのだ。
 
同窓会も近づいたある日、節子から、祖母の季美の死を知らせる電話があった。私をとても可愛がってくれた季美。ショックだった。常夫と江美子の離婚後に、私と孝也の世話を献身的にしてくれた季美の姿が浮かんだ、季美の笑顔が浮かんだ、

隆道と大智と亮純と私は、通夜と葬儀に参加するために、車で京都に向かった。節子の家に着くと、時子たち夫婦や、父の弟の恭二夫婦、父の一番下の妹の利子夫婦がすでに来ていた。私たちは祖母の遺体に手を合わせた。
 
節子と時子は、葬儀の進め方をめぐって、言い争いをしていた。
「あんた、いい加減にしいや!」
時子は節子に大声で、何度も怒鳴っていた。遅れてきた房恵が、
「時ちゃん、やめとき」
と、取りなした。

節子は季美の前の夫との連れ子だった。常夫や時子とは、半分しか血がつながっていない。時子は、節子に、
「あんたなんか、暮島と違うんやから!」
と暴言を吐いた。葬儀は大混乱だった。私の頭も頭が混乱してきた。なんだかわからないが、不安な気持ちになってきた。薬を飲めば落ち着くのではないかと、思ったのだが、あいにく薬を持ってきていなかった。私の不安感は、強まっていった。
 
葬儀の次の日が同窓会だった。楽しみにしていた同窓会。でも、とても参加できるような精神状態ではなかった。時子、恭二、そして利子。みんなが私を非難しているような気がした。小声で話しているのが、私の悪口に聞こえてしまう。被害妄想だった。完全に被害妄想だった。

私の精神状態は、とても悪かったが、こんなに急にキャンセルしては、幹事をしているやよい達に迷惑がかかると思い、私は出席しようと思った。そして、節子の家に残った。隆道は大智と亮純を連れて、車で帰った。房恵は、隆道が駅まで送って行った。

私は、節子や時子夫婦と恭二夫婦、利子夫婦と、香典の計算をしたりした。私は無性に煙草が吸いたくなったが我慢した。
 
時子夫婦、利子夫婦が帰り、恭二だけが、節子宅に残った。私はじっとしていられなくなってきて、廊下を行ったり来たりした。
「葉月、どないしてん!座れや!落ち着けや!」
恭二が、私を叱った。
「煙草が吸いたいねん。おっちゃん、煙草が吸いたいねん!」
私は叫んだ
「煙草?お前タバコを吸うんか?」
恭二は驚くように言った。
「何言うてるのん!葉月ちゃん!」
節子が、声を荒げた。それでも廊下を行ったり来たりして落ち着かない私の様子を見て、恭二は、
「わかった。買って来るさかいに、じっとしとけ!」
と、言った。
 
恭二から渡された煙草の封を開けて、私は、何本も立て続けに吸った。
「そんな吸い方したらアカン!やめとけ、葉月!」
恭二は、私を叱った。それでも吸い終わった煙草をもみ消すと、また新しい煙草に火を点ける私を見て、恭二は、
「アカン。隆道さんに電話しよう」
と、節子に言った。節子は、隆道に私を迎えに戻って来るように頼んだ。
 
私はやよいに電話した。
「やよい、ごめん。明日の同窓会に行かれへんわ。大丈夫かな?」
「それはええけど、どうしたん?」
やよいは聞いた?
「おばあちゃんのお葬式があって、なんか頭が混乱しているねん。」
私は、答えた。
「大丈夫か?ゆっくり休みや。同窓会の事は気にせんでもいいから」
と、やよいは言ってくれた。
 
岡山まで、車で帰っていたのに引き返してきてくれた隆道。その車に乗り込むと、私はまた、煙草に火を点けた。
「車内では、吸うな!」
隆道がきつく怒鳴った。苛立っていた。大智も亮純も、押し黙ってしまった。
(煙草、煙草、煙草・・・)
私は、煙草の事ばかり考えた。私は、明らかにおかしかった。
 家に着いてからも、私は立て続けに煙草を吸った。込み上げてくる不安を煙草が解消してくれる気がしたのだった。
「我慢しなさい!」
隆道は、私の煙草を取り上げようとした。私は、それを振り切って、また煙草に火を点けた。

「ダメじゃ。明日、病院に連れて行く!」
隆道は、怒って言った。

次の朝、隆道と私は、山陽病院に行った。中嶋先生に、隆道は、
「ひっきりなしに、煙草を吸うんです。それに、薬を飲んでいなかったみたいなのです」
と、言った。
「それは、だめだわ。何があったん?」
中嶋先生は、私に訊いた。
「みんなが、私の悪口を言っている気がするんです。煙草を吸うと、落ち着くんです」
私は、小声で答えた。
「みんなって?」
「時子おばさんとか、利子おばさんとか…」
「被害妄想が出とるわ。入院して治そうや」
中嶋先生は言った。
「入院は嫌です!」
私は、言った。
「どうします?」
中嶋先生は、隆道に訊いた。
「入院させてください。これじゃあとても私、仕事ができないです」
隆道は答えた。
「じゃあ、保護入院じゃね」
そう言って、先生は医療保護入院の書面を読み上げて、私に署名を求めた。私は、自分の名前をうまく書くことができなかった。
「どうしたん?字が書けらんが。これは頭がちゃんと働いとらんね。入院して治そうや」
と、中嶋先生は言った。こうして、私は4回目の入院をすることになった。暮れも押し迫った頃だった。
 
その年は、お正月を病院で迎えた。せめて、お正月だけでも家で迎えさせてあげようとする家族の人も多く、病棟の中の患者の数は、少なかった。私は、落ち着かず、病棟の廊下を行ったり来たりした。
「これじゃあ、とても家におれんわ」
と、中嶋先生が言った。

中嶋先生も、看護師も、前回の入院の時より、冷たいように、私は感じた。中嶋先生は、ジプレキサに加えて、リスパダールも処方した。相変わらず便秘には苦しんだが、病状は徐々に落ち着いてきた。2週間ほどで、廊下を行ったり来たりするのもおさまった。
 
隆道が面会に来てくれて、本をたくさん、差し入れてくれた。
「本を読んで、時間をつぶして、家に電話をかけるのを控えてね」
と、隆道は言った。
「子供たちは?」
私は、尋ねた。
「子供たちも一生懸命頑張っているよ。あなたもしっかり、病気を治して」
と、隆道は言った。
  
私は、本を読んだり、入院患者と談話したりして、極力、家に電話をかけるのを控えた。私の状態が落ち着いてきたので、入院してから一か月ほどしてから、中嶋先生は、外泊の許可をくれた。家でも問題なく過ごせたので、その後も外泊を繰り返して、私は退院した。
「やっぱり家はいい。外の世界はいい」
と、私はしみじみ思った。



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