統合失調症の私が伝えたい5つの事 vol2

私が、統合失調症を発症して、経験したことから、多くの人にお伝えしたいことは5つあります。「何だろう?」と思われるかと思います。その5つをお伝えする前に、私の不安定だった子供時代の事や、結婚生活、発病、入退院生、そして離婚して京都に戻って来るまでの事を先に書きたいと思います。私という人間を知って欲しいからです。そして、統合失調症という病気がどんな病気かを知ってもらいたいからです。

1 幼少期

 昭和44年8月29日に、神戸の小さな産婦人科の医院で、私は父の常夫と、母の江美子の長女として生まれました。江美子によると、大変な難産だったらしいです。本当は28日に生れるはずでしたが、日にちをまたいで、29日の真夜中に私は生まれたらしいです。                
 その年の7月にアポロ1号が、月面着陸を果たしました。母方の祖父隆雄が、どうしても、「月」という字を入れた名前をと、葉月という名前を付けてくれました。常夫31歳、江美子21歳の年でした。
 私の父、常夫は高校を卒業してから、道を逸れ、神戸のやくざの組事務所に出入りしていました。やくざになろうとしていたのです。そんな常夫を何とかしようと、常夫の母、私にとっては祖母になる季美は、ある日、その組事務所に出向いたそうです。季美は、着物の下には包丁を挟んださらしを巻いて行ったのです。何かあったら、やくざと刺し違えるつもりだったのです。
「私は、この子をやくざにするために、産んだのでも育てたのでもありません」
組長に、季美はきっぱり言いました。組長は季美の眼をじっと見つめ、そして、静かに常夫に言いました。
「暮島、お前はこの事務所に出入り禁止や。こんな立派なお母さんがいる者は、やくざになんかならんでええ」
 こうして、季美は、常夫を京都へと連れて帰りました。でも、常夫は、また神戸へと出て行ってしまいました。でも、組事務所には出入りせず、やくざにもなりませんでした。
 江美子は、中学を卒業した後、家を出て、大阪や松山の夜の街で働いていました。そして、江美子は男にとてももてたそうです。別れ話を切り出した江美子に、相手の男が、木刀を持って殴りかかろうとしたこともあったそうです。
 

パチンコと麻雀が好きだった江美子は、神戸の雀荘で、常夫と知り合っいました。知り合ってしばらくして、常夫が、
「京都について来てほしい」
と、江美子に言いました。そして、一緒に比叡山に登りました。花を持って上った常夫は、比叡山の中腹でその花を置き、江美子に言いました。
「俺の親友がここで、心中したんや」
そう言って、常夫は手を合わせて祈りました。その祈っている常夫の横顔に、江美子は心惹かれました。比叡山から降りてきた、常夫と江美子は、愛し合いました。その時、江美子の中に宿ったのが、私です。
 

常夫は、江美子と本気で付き合う気ではなかった。遊びのつもりだったのです。でも、常夫の子を妊娠したと、江美子が大きなお腹で、常夫の前に現れて、二人は籍を入れました。式も何も挙げず、ただ籍を入れただけの結婚でした。
 

私が生れてから間もなくして、江美子は、育児ノイローゼになったのです。私の夜泣きがひどくて、夜に睡眠がうまく取れなかったことと、
「きちんと育てられるだろうか?」
という重圧も原因の一つでした。台所で、包丁を見ると、
(葉月ちゃんを差してしまうかも知れない)
と、江美子は、おびえて震えました。そして、包丁やハサミなどを隠しました。江美子は眠りと安定を求めて、ハイミナールというきつい薬を服用するようになり、次第に薬に依存していきました。
 

常夫は、薬を絶たせるために、江美子を精神病院に入院させました。そして私を知人や親類の家に預けました。生まれて間もなくて、首の座らない私を抱いて、神戸から、京都の常夫の実家まで連れて行ったこともあったそうです。

そう、生まれた時から私の生活は、不安定だったのです。そして、それと同時に色々な人たちの愛情を受けていました。独身で、公務員だった、常夫の姉、節子は、私を養女にしたいとまで言ってくれたのです。
 

 私が3歳の時には、江美子は退院していたが、それでも不安があった常夫は、神戸の知人の酒井という洋画家夫妻の家に、私をよく預けました。私は酒井夫妻によくなきました。顎髭を生やした酒井氏を「髭のおっちゃん」と呼び、小さなリュックを背負って泊まりに来る私を酒井夫妻は、とても可愛がってくれました。子供のいない夫妻も、私を養女にしたいとまで言ってくれたらしいです。もし私が、酒井夫妻の養女になっていたら、全く違った人生を送っていたかも知れないです。常夫は、養女に出そうかどうか、少し悩んだのですが、江美子が反対していました。そして、この話は流れました。
 

そして私が3歳の時には、弟の孝也が生まれた。孝也は、産声を上げず、生れてすぐに保育器に入れられました。
 

母方の祖母の千代に手を引かれて、病院まで行った、その日の事を私は今でも覚えています。たぶん私の一番最初の記憶だと思います。。
「どの赤ちゃんが、私の弟だろう?」
私は、ワクワクしながら、ガラス越しに、新生児室を眺めた。ガラスの保育器に入れられた、赤紫色の赤ちゃんがいた。
(あの赤ちゃんじゃなければいいな)
と、心の中で思いました。看護師さんが、その保育器の中の赤紫色した醜い赤ちゃんを指さし、
「この子が、あなたの弟ですよ」
ということを、手ぶりで教えてくれました。ショックでした。
「可愛らしいなあ。なあ、葉月ちゃん」
孝也を見て、千代は、吞気に言いました。私は、保育器の中の赤紫色した孝也を見ても、可愛いとは思えませんでした。病院のガラス越しに、孝也の姿をただ、不思議な気持ちで眺めていました。

 その産院を江美子は退院の日の夜まで、退院できませんでした。常夫がお金の工面ができなかったためです。あちこちからお金を借り集めて、やっと常夫がお金を持ってきたのは、江美子が退院する日の夜遅くでした。
 

 孝也が生まれても、常夫は定職には就いていませんでした。ある日私は、常夫に聞いた。「お父さんって、何の仕事をしているの?さっちゃんのお父さんは、パン屋さんで働いているよ。ねえ、お父さんのお仕事は何?」
(あかん!子供に何の仕事をしているのか、答えられへんようではあかん!俺、いったい何をしているんや!)
と、常夫は思いました。
 

それからしばらくして、常夫は知人を頼りに、軍手の仕事を学びに、単身で盛岡に行きました。江美子と私と孝也は、東大阪の江美子の実家で、千代と隆雄たちと暮らしていました。隆雄と千代は、家の庭で、近所の子供たち相手に、金魚すくいと、たこ焼き屋をやっていました。
 

隆雄は、私をとてもかわいがってくれました。カブの後部座席に私を乗せて、近所の親戚の家によく連れて行きました。その親戚は養鶏場をやっていました。鶏たちの啼く声、雑多な街並み、その街のざわめき。それらを私は、今でもよく覚えています。私の原体験と言ってもいいです。

隆雄の親戚の家で、私は、大人たちを前に森昌子の唄を歌って、踊ったりして、皆を喜ばせたそうです。そんな私を隆雄は、ますます可愛がってくれました。よく遊んでくれて、色々なところに連れて行ってくれました。たぶんお酒が入っていたのだと思います。親戚の家からの帰りに、私を乗せたカブごと、田んぼに突っ込んだことがありました。懐かしい記憶です。

明日また、続きを書きます。よろしくお願いいたします。

最後まで読んで下さって、ありがとうございました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?