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(後入れ)サバイバーたれ(命令) 2024_6_26

今日は忙しかった。
人は忙しくすると余裕を失って、何かがむき出しのままコミニュケーションをする。職場の人たちはみんないい人たちだけど、それでもうまくいかないこともある。今日はうまくいかない方の日だった。


三月に大学を辞め、今の職場でフルタイムで働きはじめてから、だいたい三ヶ月が経った。ようやく将来のことを少しずつ考えられるくらいには回復してきたと思う。そう思えるくらいになった。すっかり閉じこもっていた一年前までは先のことなんてひとつも考えられなかったし、退学直前の数ヶ月前なんかもってのほかだったから、これはひとつみんなに近づけたということで少しうれしい。将来や生き方のことを考えられるのは、それだけ自分が今生きている社会に対して自己を開くことができているからだと思う。
今は落ち込むことも少なくなったし、その深さが変わった。苦しみに対するケアの方法がわかってきたのかもしれない。感覚的なところなのでとても難しいが、負のスパイラルに陥ることは無くなった。成長している。うれしい。


今の社会に対して自分を開くということは、社会に適応していくことと同義だ。今の悩み・苦しみは、やはり仕事とお金だ。この世界で将来のことを考え生きていくというのは、どうしたって市場の原理に身を投じることにつながる。それはどうやっても逃げられない。


八時間働くことはやっぱり苦しい。ただ仕事のやりがいとか、その意味を掴んでいられるうちはたぶん続けられる。今の僕は、社会から孤立した状態がいつまでも続くことの方が苦しいことを知っている。
働く前までの、仕事に対する不安は時間のことも大きかった。疲れやすい体質、そもそもの体力の無さやこれまでのバイト経験から、自分が社会に出て働くというのは考えられなかった。
ただそう生きると決めれば、一応そう生きることはできる。毎日毎日疲労に慣れることはなくとても苦しいけど、対価の天秤は釣り合っていてやっていける。
しかしあくまでもその対価とは、時間に対する対価だ。ただその場にいるだけでお金が発生するという、マイナスではないという価値が絶望を押しとどめている。


正規と非正規ではもちろん仕事の量が違うけど、フルタイムで八時間働いていれば拘束時間はそんなに変わらない。それで給与の差は明確にある。将来を考えるとどうしてもお金がない。最近はその考えがずっと頭にあり、苦しい。


こんなことを言いたくない。考えたくない。それは僕のこれまでの生き方にはないものだからだと思う。競争や市場というものからできるだけ距離を置いて生きてきたのが、とうとう逃げられなくなってしまった。僕はやっぱりみんなみたいには生きられない。ほんとは山奥で本を読んだり短歌を作ったりしてゆっくり生きたい。合わない人とは会いたくない。人混みに行きたくない。それさえも市場が作り出した一つの理想だ。なにをしようにもお金がいる。馬鹿げている。けれども仕方がない。とてもシンプルで、陳腐で、みんななら「がんばる」のひとことで頑張れる事柄だとしても、僕は一つ一つ確かめなければ前に進めないので、こうして日記に書いている。精神を病まずに生きていけることはそれだけでとてもすばらしいことだ。だからこのままでも大丈夫、ということにはならない。立ち止まって考える時間は大事だけど、その末に孤立してしまっては二の舞になる。ほんとうに、ほんとうにすこしで大丈夫だから、と自分に言い聞かせて明日もお仕事にいく。

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