たった一人のために書いた清少納言
2024年現在、NHKで放送されている大河ドラマ「光る君へ」。
紫式部の生涯と平安貴族の権力争いを描きながら、脚本が大石静さんということもあって、まるで少女漫画のようなきらきらとした恋愛模様も見どころとなっていて、私もすっかりハマって見ている視聴者の一人です。
その第21回の放送時、清少納言を演じているファーストサマーウイカさんが、日本中の人に観ていただきたいとXにポストしたのが、世界最古のエッセイ文学と呼ばれる「枕草子」誕生の物語でした。
春はあけぼの〜から始まる、あまりにも有名なこの作品。みんな学校で暗記させられたこともあって、諳んじることのできる日本人は、かなり多いと思います。
例に漏れず私もその一人で、何度もめくった教科書の挿絵すら記憶に残っているくらいです。
これは、夏は夜、秋は夕暮れ、冬はつとめてと続き、当時はちゃんと最後まで覚えていたけど、今となっては春はあけぼの〜の段しか記憶していませんでした。
それでも訳も分からず暗記させられたものが、こうやって巡り巡って作品の理解へと繋がったという事実には、深い感動がありました。
学校の勉強って無駄じゃない。
そして、今回のドラマにおける枕草子の解釈については、書くことを愛する人間には、とても響くものがありました。
私が今まで持っていた清少納言のイメージと言えば、気位の高い陽キャという感じ。紫式部とは相反する人で、自分の教養の高さや華やかな暮らしぶりを書物として残したという理解でした。
きっと、小さい頃に読んだ歴史偉人伝のマンガの印象そのままだったと思います。
ただ今回のドラマにおいての「枕草子」は、清少納言がたった一人の悲しき中宮のために書き始めたという解釈で描かれていました。
これは、決して学校では教えてもらえなかった、違う視点からの解釈となっていて、すっと胸に落ちてきました。
清少納言が仕えた中宮定子は、若くして一条天皇に入内し、寵愛を受けるもののなかなか子に恵まれず、父が死に、兄や弟が失態を犯しても母はそれを咎めるどころか庇うばかり。
誰も自分の立場や気持ちには耳を傾けてはくれず、どんどん孤立してしまい、ついには出家してしまう。
世界が色を失くし、生きながら死んでいる。そんな状態になった中宮定子に語り掛けるように始まるのが枕草子だったというストーリーでした。
ドラマでは清少納言が書いたものをそっと献上し、それを中宮定子が読んでいる姿を見て感激するといった流れが、全て映像で表現されていて、テレビドラマ史に残るのではと思えるほど素晴らしい構成となっていました。
そこには一切の邪心が無く、ただただあなたのために書きたいという一人の女性の姿があり、愛する人のために書いたものを、愛する人が読んでくれたという喜びが溢れていました。
書くという行為の純粋な原動力そのままを見せられたような気がして、涙がぼろぼろ落ちてきて、清少納言という文学者の凄さをまざまざと感じさせられたのです。
史実というのは、結局のところ誰にも分からないし、歴史というのは後世の人間が残されたものを、どう解釈するか理解するかで見方が変わっていきます。
だけど、これから私は枕草子において、この解釈を支持したい。
清少納言の一筆一筆に込められた気持ちが確かだったから、千年もの間、読み継がれている。残っている。そう思いました。
例えば、大学生の時。
朝帰りの道を、自転車でふらふら帰りながら見た遠くの山々。少しずつ白じんでくる様子は、まさに春はあけぼのの一節を思わせて。
清少納言が言ってたのはこれかぁ。千年前の人もこんな風に空を見てたのかなぁなんて趣深い気持ちになったことがありました。
たった一人のために書いたものが、千年後も誰かの心を照らしているなんて清少納言は思いもしなかったでしょう。
だけど、文学にはそんな力がある。千年の時を経て、それは証明され続けている。
まさかここにきて、清少納言にそんなことを教わるとは思っていませんでした。
私のnoteがいつまでここに存在するのか、書いたところで一銭にもならないことを続けて何になるのか、書いたことをネットで公開するなんて恥ずかしくないのか。
いろんな意見が耳を塞いでいても聞こえてきます。
でも、やっぱり書きたい。書きたいと思うことがまだまだある。
だから続ける。続けていいんだよねと思える、そんな勇気をもらいました。
千年後とはいわなくとも、明日か明後日、あるいは数年後の誰かに届けばいいな。そう思いながら、私もこれから書き続けたいと思います。
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