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『MIYAMA #3 権兵衛』

清水権兵衛の机は、いつものように無造作に積まれた曖昧な書類で埋め尽くされていた。彼のデスク周りは、他の職員のそれとは一線を画しており、その独特な乱雑さが彼の仕事ぶりを如実に物語っていた。たまに聞こえてくる「権兵衛部長は一体全体、何の仕事をしとるんじゃろ」という同僚たちの愚痴にも似た声は、彼にとっては風に吹かれる葉のささやきに過ぎない。

権兵衛はそんな周りの雑音を耳にしながら、ゆったりとした時間を過ごす。彼の存在は市役所という組織の中でぼんやりとした輪郭を持ち、捉えどころのない影を落としていた。そんなある昼下がり、彼の静かな日常に予期せぬ電話が響いた。
 
三条宗春の側近である黒木からの電話が、権兵衛あてにかかってきた。
「権兵衛さん、黒木さんから電話です」と取り次ぎの声が聞こえると、権兵衛だけでなく、その場の空気がぴしゃりと水を打ったように静かになる。黒木という名前は職員の間でも悪評高い。
 
「権兵衛さん、宗春さんから特別なお願いがあるんじゃけど、不比等という若者の採用を見送ってもらえんじゃろか」黒木の声には、冷徹さが漂っていた。
権兵衛はため息をつきながら、ゆっくりと口を開いた。「黒木さん、久しぶりになんかと思うたら、そんなことか。ようわからんなあ。なんであんたがそんなことせにゃあいけんのか、ようわからんわ。いったいなにがあったんじゃ?」
 
黒木の答えは簡潔だった。「彼は危険人物じゃけえ、この町に置いとっちゃあいけんで。三条グループも彼をクビにしたんじゃし、役所もな、あんな危険なのを置いとくわけにゃあいけんわ。そんなことしてみいや。面倒なことになるで」
「えらい急な話じゃな」
「じぇけえ、電話しとんじゃが」
 
権兵衛は受話器を置くと、ため息混じりに小さく言った。「まったく宗春さんはこわい人じゃなあ。じっさいあの人がこの町を動かしとるで」
 
権兵衛の机の上には、不比等の履歴書があった。「不比等くんかあ、彼はこの町の出で、最近戻ってきたというのに、こんなことになるとはなあ。かわいそうじゃけど、わしにはどうにもできんしなあ。久々の若い人じゃし、採用の方向で進めるつもりじゃったけど、宗春さんの言うことは聞かにゃあいけんしなあ」とぶつぶつと独り言をしつつ権兵衛は、結局は不比等の履歴書を不採用として、また深いため息をついた。
自分の職務において、宗春の影響を感じざるを得ないこの不条理。深山市の息苦しさを、彼は痛感したのだった。
「ほんま、この町は宗春さんのもんじゃ。わしらはただのコマじゃのお、 なにが変わらんのじゃろうなあこの町は。不比等くん、申し訳ない。じゃけど、ここは深山市じゃし、わしらも生きていかんといけんしなあ
「じゃけど、わしもそろそろ定年じゃし、あんまり気にせんようにせんとなあ。あとは若い人がやってくれるじゃろお
 
不比等の将来も深山市の将来も権兵衛には分からない。ただ、この町の閉塞感を打破するのは彼の世代ではないことだけは、確かなようだった。



昼山牧場センターには、週末の朝から活気が溢れていた。家族連れやカップルが入り口で入園券を手にし、子供たちはわくわくした様子で親の手を引いて中へと急いでいた。そんな中、権兵衛も家族と一緒にこの牧場センターに訪れていた。休日の彼は、日常の仕事から解放され、といってもどんな仕事をしているかは本人も周囲も正確にはわかっていないが、それでもいくぶんリラックスしている様子だった。
 
羊の群れがのどかに草を食む牧場の光景は、心を和ませるには十分だった。権兵衛はベンチに腰掛け、妻と一緒に子供たちが羊にエサをやる姿を眺めていた。子供たちの笑顔、動物たちの穏やかな目。平日には感じることのない満たされた幸福感が、彼を優しく包み込んでいた。
 
しかし、そんな穏やかな時間の中でも、権兵衛の心の隅には先日の出来事がひっかかっていた。市役所での総務部長としての彼の決断が、不比等という一人の若者の未来を暗転させてしまった事実。このようななことは深山ではよくあることだと彼は自分に言い聞かせたが、それでも不比等の将来がこんなことで一蹴されてしまい、権兵衛は少なからず自責の念に囚われもした。
 
自販機コーナーでコーヒーを飲んでいると松本静江に会った。静江は不比等がアルバイトをしていたスーパーマーケットでパートをしている女性である。彼女も家族と一緒に牧場センターに訪れていて、ひと息つこうと飲み物を買いにきたのである。
 
「権兵衛さんじゃがあ。えらい偶然じゃね。なにしようるん」
「なにしようるんってコーヒー買いにきたんじゃけど、静江さんこそなにしよん?」
静江は明るく挨拶を交わしたが、話が進むにつれて会話は自然と不比等の話題に移っていった。というのも、不比等の一連の出来事には権兵衛も関係しているとの噂を静江は耳にしていたからである。実際に権兵衛がどのように関係していたか具体的なことはなにひとつとして知らないが、うっかりにでも権兵衛が口を割れば、静江は明日の職場でそれネタに盛りがろうと考えた。
「不比等くんは今頃どうしるんじゃろな。私らみんな彼がいなくなって大変じゃで。どうしてクビになったんじゃろな」
権兵衛は、内心で彼女の言葉を苦々しく思いつつ、彼女の魂胆も見抜いていた。「静江さんたちはほんに噂話が好きじゃからな。ほんとうかどうかなんて関係ないんじゃで。面白いかどうかでこの人たちは話すからな。手に負えんわ」権兵衛は何も言わずにただ静かにコーヒー缶を手に持ち続けた。
「静江さん、そうじゃな…彼のことはわしも聞いとるけど、なんかいろいろややこしそうじゃな」と彼は言葉を濁し、話題を変えようとした。「ようわからんわ」
 
静江は権兵衛が口を割らない様子を感じ取ると、少し矛先を変えて、不比等がSNSに投稿したXの件に触れた。
「みんな、黒木さんのことは遠慮しとるから、本音は言わんのよ。でも、あの子があんなにはっきりと言ってくれて、みんな喜んどるわ。黒木さんにゃあ悪いけど、少しはすっきりした気持ちになったけえ」
静江は黒木のことを悪く言って、権兵衛の警戒を解こうとしたが、権兵衛は静江の誘いには乗らずに何も喋らずにすませた。しかしそのかたわで、権兵衛は自分の決断がもたらした影響を痛感した。静江のように噂好きの連中が鼻をきかせて集まってくるのは辟易するが、事実、総務部の部長として宗春の意向を優先させ、不比等の採用を見送ったのは自分であり、不比等のみならず、不比等の周辺の人々までもがざわめきはじめている。

子供たちの歓声が牧場を埋め尽くす中で、権兵衛の心には疑問が渦巻いていた。彼が下した決断は本当に正しかったのか。そして、その決断が彼自身にどのような影響を与えるのか。牧場の緑の草原を背に、権兵衛は家族と共にその場を後にした。



権兵衛は家に向かう車の中で、ここ数日の深山市で起きたことを思い出していた。不比等のことを考え、宗春のことを考えた。宗春の存在が自分にどれほど影響を及ぼしているのか、そして彼に従うしかない自分をみつめ直した。そして今回の決断はけっして正しいとは思わないが、これも家族を守るためと自分に言い聞かせた。
 
不比等の市役所の採用が見送られた事件は、深山市で小さな波紋を広げていく。噂は市役所の廊下を流れる風に乗って着実に住人たちの耳に届き、市役所内外での権兵衛への見方に微妙な変化をもたらしていた。
 
権兵衛も日々の生活は以前と変わらず過ぎていくものの、心の中には新たなる波乱の予感が芽生え始めていた。彼の心に渦巻く後悔と自己正当化の葛藤、そしてもしまた同じ状況が訪れたなら、自分は再び同じことをするのだろうといった諦めともとれる開き直りが自身の矮小化をさらに推し進めていくのだった。


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