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ハリケーン。幸せ馬鹿と、恋の行方①

「2005年に、アメリカでハリケーン・カトリーナってあったの覚えてます?私、あの時ニューオリンズにいたんですよ。」

といっても、ハリケーン上陸の前日に、街から避難していたので、本当の地獄は見ていない。

甚大な被害をもたらしたカトリーナ。政府の対応の悪さや、浮き彫りにされた格差社会などが取り上げられ、「あれは”天災”ではなく、”人災”だった」という意見も聞かれた。私が現地にいて、感じたのは、悪い意味での「慣れ」だった。ニューオリンズのようなハリケーン銀座では、大きなハリケーンが接近するたびに、避難勧告が出される。避難と言っても、行政から具体的な指導や、サポートがあるわけではない。自己責任で、街から離れて、ハリケーンが過ぎ去るまで、待機する。これが避難。ハリケーンの被害も、停電や街路樹が倒れるという程度のものが多い。2005年。私が覚えているだけでも、カトリーナの前に2回の避難勧告が出されていた。カトリーナの時も、「今度のは本当にヤバイ。」という話を聞いてはいたものの、内心「2−3日、街の外にいれば大丈夫でしょ。」と楽観視していた。ただ、これは私の感じ方で、街に危機感がなかった、というわけではないと思う。危機感はあっても、なにか具体的な対策を講じるための手段や資金の配分が不平等だったのは事実だ。

ともかく、私は、ルームメイトのスペイン人、カルロス、その友人たちと一緒に避難した。カルロスとその友人たちの多くは、公立学校でスペイン語を教える教師だったので、ルイジアナとテキサスの州境近くの、サルファーという街で、同じようにスペイン語教師をしている同僚の家に転がり込むことにした。正直、出発前のノリは「仕事も大学も休みになるから、2−3日、みんなでどこかに出かけようぜ」だった。

出発の朝、私、カルロス、その友人4人と犬1匹は、3台の車に乗り分けてニューオリンズを出た。高速道路はしばらく進むと、ひどい渋滞になった。州と州を繋ぐ、インターステートという幹線道路の数は少ない。そこへ街中の人が詰めかける訳だから、渋滞になるのは当然だ。長い車列の一部となり 亀のあゆみを続ける。途中、ガソリンスタンドで簡単な食事を済ませた。ガソリンスタンドの横の用水路に、小さなワニがいたので、写真を撮ったりしたりして、カルロスと盛り上がった。この時はまだ旅を楽しむ余裕があった。渋滞の車列に戻り、再び亀のあゆみ。航空写真でもあるなら、見てみたいと思うが、本当にニューオリンンズから州境まで、300kmの渋滞だった。

途中、高速道路の路肩に乗り捨てられた車を何台も見た。きっと、数時間におよぶのろのろ運転に車が耐えられなかったのだろう。中央分離帯で炎上しているバスもみた。数十人の乗客は路肩に立ち、唖然としていた。なんでそうなったのか、今でもわからない。エンジンがオーバーヒートして火でも吹いたんだろうか。

どれくらい時間がたっただろうか? カーステレオに入れっぱなしのCDも、何周したか覚えていない。サルファーの手前に、レイクチャールズという大きな都市がある。高速道路沿いに、化学プラントの工場がたくさんあって、そびえ立つ煙突から上がる、オレンジ色の炎が闇夜を照らし、とても綺麗だったのを覚えている。サルファーに着いたのは夜の9時近くだった。他の2台の車はもう先に到着していた。

家主夫妻の奥さんがトルティーヤを作ってくれた。とても美味しかった。その夜はみんなで賑やかにすごした。避難組の男子たちは、リビングルームで雑魚寝。私はヨガマットの上で寝たが、長旅の後だったので、石ころのようにぐっすり眠った。

続く



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