悲しみの分類

最近、悲しみは大きく2分出来るのではないかと思いました。それは、「不条理型」と「エゴ型」です。

まず、「不条理型」について。ラテン語で言うところのabsurdus「不協和な」は不条理の語源であると言われているが、まさにその通りで、協和が取れなかったために生まれる悲しみのことであると考えました。例えば、偶然にも事故に遭ってしまって死んでしまうなどはこちらではないでしょうか。フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』やヘッセの『春の嵐』の主人公は、ともにこちらの悲しみを抱えていると思います。

つぎに、「エゴ型」については、個人のエゴによって、本人または他人が悲しむと言うものだと考えました。例えば、LINEいじめや、不倫などの問題はこちらではないでしょうか。これは、ニーチェ以後の個人主義化、そして、人と人とのチャネルの高速化によって生まれたものなのではないかと思います。インターネットの発展とともに、人間関係というチャネルは高速に建設され、高速に使用されるものとなりました。それに伴ってそのチャネルの管理は大変になり、きっとこの種の悲しみは生まれたのではないでしょうか。カズオ・イシグロの『夜想曲集』の登場人物たちは、典型的なこの例の悲しみを抱えていると思われます。

「不条理型」は透き通った悲しみ、「エゴ型」はどろっとした悲しみ。僕のイメージはこれなのですが、論証しろと言われても無理だなあ、このテーマはもう少し分析を広げる必要があるなと思いました。

あと、シェイクスピアの悲劇は、どちらにも分類できないなあとも思っています。例えば、オセローは、イアーゴがいなければ、という偶然性の悲しみと、自分が嫉妬しなければ、というエゴから生まれる悲しみと、2つの悲しみを兼ね備えているな、と。

カプースチンのハッピーな曲を聴きながら、そんなことを考えているお昼時です。今日は麺類の気分です。

#コラム #悲しみ #不条理 #エゴ

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