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自伝的連載小説「僕が切り抜いたぼくと、ぼくを切り抜いた僕。」①(分冊)

自伝的小説「僕が切り抜いたぼくと、ぼくを切り抜いた僕。」
切り絵アーティストHachによる自伝的小説です。

  1. 記憶

  2. プロローグ あの人

  3. 第一部 

  4. cut 1 ぼくはまだ、僕を知らない

  5. cut2 愛の時間

  6. cut3 食い殺す

  7. cut4 その二人に、営業成績で勝つには

  8. cut5 「あんた…頭おかしなった?」

  9. cut6 サツキ

  10. cut7 シノブ

  11. cut8 恐らく、このままじっとしているとキスされるだろう

  12. cut9 江口将人

  13. cut10 「リリースに三百万かかるからさ」

  14. cut11 スタジオミュージシャンと黒スーツ

  15. cut12 死ぬわけでもなく、決別するわけでもなく、ただのさよならのはずなのに。

  16. 第二部

  17. cut1 ユヅキ

  18. cut2 人妻

  19. cut3 ぼくが所有するものを全力で使っていくしかない

  20. cut4 「いつか自分のオリジナルの作品で感動させるんだ」

  21. cut5 ジョン・レノンを切る

  22. cut6 夜叉か女神か

  23. cut7 ストレンジカフェ

  24. cut8 ユイ

  25. cut9 暴発

  26. cut10 ぼくはコンビニ店員ではないのだ。

  27. cut11 検事と似顔絵捜査官

  28. cut12 アキ

  29. cut13 両親

  30. 第三部

  31. cut1 疼き

  32. cut2 七瀬さんの作品で個展やってほしい

  33. cut3 犯人に告ぐ。

  34. cut4 想いはできるだけ早く伝えるべきだ。

  35. cut5 作品がすべてを語る、と陶芸家は言った。

  36. エピローグ 手紙

  37. 痕跡

  38. 著者あとがき

あらすじ

主人公・七瀬員也は、子供の頃から憧れていた大物漫才師が司会するテレビ番組にスタジオ出演を果たす。
切り絵アーティストとして。
華やかな舞台に立つことができた七瀬だったが、それは自分自身の努力ではなく「アートという、自分の愛するものが連れてきてくれた場所」だと知る。
そんな七瀬がこの日を迎えるまでには過酷な日々を潜り抜ける以外に道はなかった。
パワハラ、それによる性的機能の停止、見失った自分との再会、創作への情熱、恋愛、不倫、逮捕…
様々な困難は、彼にアートと人間についての問題をまざまざと突き付けるのだった。
読後、絵画教室の生徒が退会していくかもしれない覚悟で臨んだ意欲作。

記憶

 目を閉じると思い出す光景がある。
 古びた県営団地の五階。金属のドアを開いて右手の三畳の部屋で絵を描く、ランニング姿の少年がいる。サラサラの前髪に隠れそうな瞳は、爛々と燃えている。その後中学校生活の三年間を丸坊主頭で過ごしたのち、待望だった髪を再び伸ばし出すと、なぜかチリチリの天然パーマになっていることが発覚するが、それはまだ先の話だ。サラサラの長い髪のせいで少年は、よく女の子に間違えられた。
 少年は自ら滴り落ちる汗にも、部屋に差す太陽の明かりが少しずつ傾いていくことにも、一切気にかけず黙々と絵を描いている。同い年の子供たちが外で遊んでいるだろう時間。彼以外の誰かと誰かが、どこかの公園で仲良くなっていくことなんて全くおかまいなしだ。興味ない。
 彼が向かうちゃぶ台の上には何枚もの、黄色い紙が散乱している。今では見られなくなった、いかにも質の悪い折込チラシだった。スーパーとか個人商店の電器屋の、手書きで書かれたチラシの裏は何も印刷されておらず白紙で(正確には黄色だが)、少年はそこにボールペンで絵を描いている。その描きっぷりは一心不乱に、途切れることを知らない。一人っ子の彼には日中邪魔するものはなく、両親が帰ってくるのはもっと後の時間だと分かっている。
 少年は時を経てこれからもたくさんの絵を描くことになるのだが、それが自分でも何のためなのかは知る由もない。学校から応募するコンクールではほとんど優秀賞だの入選だの、何かしらの栄誉をもらう。環境や人権啓発ポスターなどの、大人が押し付ける、よくわからない教育関連の公募だけでは満足できず、少年誌や大人向けの雑誌などにも絵を送り、掲載される。小学生向けの雑誌での、自動車のおもちゃのデザインコンクールでは、グランプリをもらう。水陸両用カメラという賞品は、小学五年生の彼にとっては無用の長物と言えたが。また、のちに国際的映画監督にまでなるコメディアンのテレビ番組にも絵を送ると、その番組のファンブックにも少年の絵が掲載される。
 幼い頃の記憶。
 ぼくが最初に思い浮かぶ光景だった。その光景とともに、点で散らばった数々の出来事が、同時に呼び起こされた。
 記憶では、絵を描いている自分を別の視点から見ていた。本来なら、黄色い裏紙とそこに線を走らせるボールペン、それがぼくの見ている世界として映像化されるはずだったが。記憶の発掘作業とはそういうもののはずだ。それなのにどういうわけか、まるで映画のワンシーンを見ているかのように、ぼくらしき少年の、わき目もふらず絵に没頭する、華奢な肉体を眺めている。
 誰かに指示されたわけでもない、何かの目的を遂げるためでもない、それは屈託のない飽くなき作業だった。今やっていることがどんな場所へつながるというのか。ぼくや誰かに特別な何かを与えるとでもいうのか。どうあれ、何の思いもそこにはないのだった。
 黄色いチラシとボールペン。
 それがぼくの最初の画材だった。 

プロローグ あの人

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