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HDの幽霊

 ちかごろ妙な現象がある。それは突然起こる風で、より正確に言えば突然起こる風の感覚だ。概要は以下の三点。(1)時々温かい風に手を撫でられる。(2)その現象は手が濡れた時にだけ起きる。手洗いの後やアルコール消毒の後、雨に濡れた時など。(3)風はあくまでも感覚で、他者が知覚したり、手に持った物が影響を受けたりすることはない。たとえばA4の紙を持っていても紙は微動だにしない。自炊や入浴の際はしょっちゅう手が濡れるので、そのたびに風が吹き付けることになる。できる範囲で使い捨てのゴム手袋を導入しているが煩わしくて仕方がない。
 という話を昼休みに弁当を食べた後で派遣社員の木村さんにしたところ、「心霊現象じゃないですか、それ」と何でもないように言うので、あっやばい、スピ系というのだったか、木村さんはそれかもしれないと身構えた。どうもそういう非合理的なものに抵抗があるのだ。木村さんは二月に入った人で、いつも薄いピンク色のマスクをつけている。派遣社員と正社員が雑談をすることはあまりないのだが、たまたまその時派遣されていたのは木村さん一人で、そして話し相手がいるとすれば、職場で長年かけて些細なコミュニケーションの齟齬や不義理を積み重ねた結果今は昼休みに雑談をするような同僚がまったくいない自分が適任だった。弁当を黙食する間に素顔を見ているはずなのだが、いつまで経ってもまつ毛の濃い吊り気味の目元しか印象に残らない。
「怪談でよくありますもんね。どこからともなく生暖かい風が、って」

「そういうのとは違います」

「どう違うんですか」

「生暖かいのではなく明確に暖かくて、三十八度くらいあります。勢いもゴッ! という感じで、強くて局所的です」

 ふうん、と木村さんは考えたあと「まあ、一度視てもらうのも手だと思いますよ。高田さんそういうの嫌いそうですけど」と言い、かばんから取り出した名刺を一枚渡してきた。安い印刷の名刺に「霊視鑑定・個人セッション エターナルアドレッセンス橘花」と書かれていた。「嫌いですね」と言うと「ですよねー」と木村さんは微笑み、話はそこで終わった。
 一ヶ月ほどで木村さんは派遣期間が終了し、会社に来なくなった。それが春先のことだ。次に名刺の件を思い出したのは本格的に暑くなり始めた七月だった。ゴム手袋をしてもあっという間に内側が汗で湿るので、妙な風を防げなくなってきていた。感染者が右肩上がりになっているから手洗い消毒を減らすわけにもいかず、一日に何十回も風に吹かれた。風の話をした時、馬鹿にするでもなく表面的に流すでもなく、大真面目に「心霊現象じゃないですか」と言った木村さんの吊り目を思い出した。名刺はかばんの底に折れ曲がって沈んでいた。エターナルアドレッセンス橘花が鑑定をするのは火曜と土曜だ。スマホから鑑定所の予約サイトを開くと五十人くらいの怪しげな名前がずらりと表示された。曜日や時間でかわるがわる出演するらしい。次の土曜に予約を入れた。
 場所は繁華街の小さなビルの五階だった。無人の待合でしばらく待った。案内の張り紙も置かれた雑誌も占いや霊に関するものばかりで、変な群青色やもやもやした黄色やピンク色をしていて、早く帰りたいと思った。どうぞ、と呼ばれて奥の部屋に入ると、エアコンで冷えた空気に包まれた。テレビで見たことがあるような、色とりどりの布が何重にも垂れ下がった室内に小さな机が置いてあり、その向こうに若い女性が座っている。鼻から下を光沢のある赤くて長い布で覆い隠していたが、化粧濃いめの吊り目に見覚えがあった。

「木村さん」

「お待ちしてましたよ」と木村さん、いやエターナルアドレッセンス橘花は言った。うながされて座ったが、どう切り出していいかわからなかった。「こんなうさんくさいところでバイトしてたんですね」と言うと「私としてはこっちが本職ですけどね」とエターナルアドレッセンス橘花は首をかしげた。長いので以下、橘花とする。

「これは何をどう視るんですか」

「高田さんは自覚がないようですが多少素質があるみたいです。だから私を媒介にして直接見てもらうのが早そうですね」

 橘花はアルコールスプレーで両手を消毒し、私に手を出すように言った。消毒されながら、こういう人でも消毒はするのだな、と考えた。じゃあ手を握りますよ、と前置きしてから橘花は手を握ってきた。次に起きた出来事は以下の三つだ。(1)部屋の中に第三の人物が現れた。(2)その人物は揃えた両手を腹のあたりに持ち上げてだらりと垂らしており、足はかすれて見えなかった。(3)その人物はうつむいていて、顔は長い髪の毛に覆われて見えなかった。
 つまり古典的な幽霊の姿をしていた。椅子から転げ落ちそうになったが手をぎゅっと掴まれてなんとか踏みとどまった。「あなたは誰ですか」と落ち着いた声で橘花が言った。幽霊は戸惑うようにゆらゆら頭をゆらしていたが、やがて「ハンドドライヤーです」と小さな声で言った。その声に違和感があった。

「ハンドドライヤー?」

「エアータオルとも言います」

「トイレで手を洗った後に手を乾かすハンドドライヤーですか?」

「はい」橘花はこちらを見た。「高田さん、心当たりはありますか」

「ないです。あと、ちょっと顔を上げてもらっていいですか」

 ハンドドライヤーの幽霊は首を持ち上げた。髪の隙間から左の目が見えた。

「やっぱり。なんで私の姿をしてるんですか」

「急に姿を要求されたので、困ってしまって、とっさにお借りしました」自分の顔をした幽霊が目の前にいるのははっきり言って気持ちが悪い。

「高田さんの手に風をかけてるのはあなたですよね。どうしてですか?」

「どうして手を乾かす人が突然いなくなったんでしょうか」とハンドドライヤーの幽霊は質問をさえぎるように訊いた。「以前は一日に百人もの人間が手を乾かしにきました。今は一人もいません。もうずっとです。ずいぶん前にすごく揺れたあと同じことがあったけれど、少しの間だけでした」

 もしかして東北の大震災のことを言っているのかな、と考えて、ひらめくものがあった。

「うちの会社のトイレのハンドドライヤー?」

「ありましたっけ?」と橘花がささやくように言った。「あったかも。でも今どこも使ってないですよね。コロナのあれで」

 そうだった。会社のトイレのハンドドライヤーは、四角い箱の中に両手を深く突っ込むタイプのもので少し古いTOTO製だったが、一年以上前に電源が切られたままだった。今は手洗い場のところにペーパータオルが置いてある。

「あの、ハンドドライヤーさん、説明します。今、世界中で怖い病気が流行ってます。空気に乗って広がる病です。ハンドドライヤーは強い風が起きるので、あなただけでなく日本中すべてのハンドドライヤーは、ああもう言いにくいな、以下HDとします、日本中すべてのHDは病気を広める恐れがあるので使われなくなりました。あなただけではなくて全部がそうです」

 HDは、しばらく黙って両手をぶらぶらさせた後、ううーん、ううーん、とか細い声でうなった。

「わかりません。ううーん」

 やめてほしかった。わたしはいつも冷静で、そんな顔をしないし、みっともなく揺れたりもしない。

「大丈夫ですか? HDさんが高田さんに取りついているのは、どうして?」

「あっ、それはわかります。この人はハンドドライヤー、つまりわたし、を必要としているからです。この人はいつも、すごく、すごおおく、長い時間手を乾かしていました。だから困っているだろうなって」HDはうぬぼれきった表情でえへへと笑った。自分の姿でそんなだらしない顔をされるととうとう我慢ができなくなった。
「ぜんぜん違います。あなたは誤解してる。あのね、わたしは手を乾かしたくなんかなかったですよ。ただ席に戻りたくなくて、時間稼ぎのためにゆっくりゆっくりハンドドライヤーを使ってただけです。もうどっかへ行ってください、迷惑だから」

 橘花が椅子から身を乗り出して掴んだ手をぎゅっと握り直した。「高田さん、ちょっと」

「だいたいね、手が濡れたからってバカのひとつ覚えみたいに風をかけられても困るんですよ。それで手が実際乾くんだったらまだいいですけど、乾きますか? 乾かないじゃないですか。やるんだったらちゃんとやれよ。ほんとの風を起こしてみろよ」
 ううーん、ううーん、とHDは耳を塞いでうなり続けた。うなり声は高くなり低くなり、倍音のように響いて部屋を揺らし始める。エアコンが切れたようにあたりがむっと暑くなり、橘花の顔の布がぱたぱた揺れた。HDを中心に空気が渦を巻きはじめているのだった。橘花に引っ張られて立ち上がるほかなく、部屋の隅に避難した。といっても狭い部屋だから逃げ場所はない。床の上で転げ回る机や椅子を避けるのがやっとだ。部屋じゅうの布が暴れて色の洪水みたいだった。風がごうごうと鳴り、耳がトンネルに入ったみたいに痛くなった。

「高田さんて前から思ってましたけど言葉が強いんですよ」空いた手でスマホを高速で操作しながら橘花が耳元で怒鳴った。こんな時に何を、と言おうとしたらそのスマホを突きつけられた。「読んでください。大きい声で」

 ウィキペディアの画面だった。文章の一部が選択されてハイライトされていた。わけがわからないまま朗読した。
「ただし日本経済団体連合会では、コロナ対策の指針を見直す中で、世界保健機関がハンドドライヤーの利用を推奨していることを理由に使用再開を促している!」
 空気が一瞬止まり、かと思うと今までとは反対方向に渦を巻いた。その中心でHDは髪の毛を逆立て頭を振リ回していたが、輪郭がしゅわしゅわ溶け出して小さくなり、最後にはため息みたいな風を残して消えた。
スマホの画面をよく見直すと「ハンドドライヤー」の項目だった。
「なんだったんですか」ぐったりした気持ちで尋ねた。髪がぐしゃぐしゃで不快だ。橘花の髪もめちゃくちゃに乱れていて、トランス状態に入ったあとのシャーマンみたいだった。「些細な希望を示してやると意外とおさまったりするんですよ」と橘花はぜいぜい息をつきながら言った。相談料は一時間コースプラス延長分で八千二百五十円だった。消費税もとるんだ、と思った。
 あれから温かい風は出ていない。非合理的な手段で解決したことはほんのり恥ずかしいけれど、致し方なかったと思っている。昨日、会社で用を足したあと、電源の切れたHDに両手を突っ込んでみた。理由は特にない。風はもちろん出なかった。ほんとうの風も、嘘の風も。まったくの無風だった。首をひねって左にある姿見をのぞくと、幽霊みたいな姿勢の自分が映っていた。

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出典:ハンドドライヤー - Wikipedia (2021年11月20日時点)

初出:2021年11月13日(土)オープンマイク朗読会@犬と街灯

朗読:犬と街灯とラジオ #79 2021年11月17日(水) 1:07:20~


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