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さいりうむ

 すべての花の色が夕闇に沈みはじめる頃、庭を掃いていると、子どもが手を光らせて帰ってくる。通りすぎた後ろ姿に「あんた」と声をかけると拳をぎゅっと握って立ち止まるが、親指の付け根や指の股からこぼれる青白い光は隠せない。「またやったんか。やめ、言うてるやろ」子どもは振りむき、ふてくされたように腕を組んで、手首から先が見えないようにする。「一匹だけやもん」それが嘘であることは、半ズボンにまで飛んだしぶきが夜空の星のように点々と光っていることからもわかる。はー、とため息をわざと聞かせてから、「しっかり手え洗い。服も着替えるんやで」と言うと、がっかりしたようにうつむいて玄関の方へと歩いていく。きっと手を洗わないまま布団にもぐりこんで光を楽しむつもりだったのだろう。
 「でもさあ、お母さんもちっちゃい時やらんかった?」子どもが夕食の席で話を蒸しかえす。親も昔子どもだったのだと理解する歳になったことに軽い感慨をおぼえながら、「お母さんの頃はあんなんおらんかったわ」ときっぱり答える。「へー、そうなんや。ちきゅう、おんだんかのせい?」そう言いながら、ミートボールを箸でまっぷたつにしようとやっきになっているのを「はい、食べ物で遊ばない」と注意する。「とにかくいらん殺生はせんこと」「せっしょうって何」「殺すこと」どういう字かと聞いてくるので教えてやると、「ふーん、殺すのに生きるって字書くんや」とずれたところで感心している。
 食器を食洗機に片付けているところに、子どもが「お母さんお母さん」と呼びに来る。指をさした網戸のこちら側に見たこともないほど大きいあれがいて、思わず湯呑みを取り落しそうになる。でっかいねえ、とくすくす笑う子どもに「いやっ、はよつかまえて、追い出して」と頼むとしぶしぶといった態度で窓に近づいていく。「殺したらあかんで、ぜったい」と背中に指示を飛ばすが、逃さないよう忍びよるのに夢中で聞いているのかいないのかわからない。小さな手がぱっとひらめいて獲物を押さえこみ、その無駄のない動きに川魚を狩る白い鳥の姿を思い出す。暴れた拍子に、細長い糸のような肢が二本床に散らばり、悲鳴をあげそうになる。危険を感じると肢を切り離す習性があるらしい。「あー」と子どもは残念そうに言いながら、もう片方の手で網戸を開け、外に向けて思いっきり放る。すっかり暗くなった庭先に、肢の抜けた傷からにじんだ体液が光って放物線を描くのが、遠巻きにしているこちらからも見える。「足切れちゃった。かわいそう」と言いながら子どもが戻ってくる。数時間前まで何匹も、もしかしたら何十匹も殺していたはずなのに、どうしてかわいそうだと思うのだろう。わからない。「手え洗うんやで」とうながすと素直に洗面所に入っていって、水音が聞こえてくる。
 国内で初めて見つかったのはもう十年以上前だったと思うが、最近とみにその数が増えている。嫌われ者の外来種としてニュースで報じられていたのに、ある年からいきなり夏の風物詩という扱いに変わったのは、あれはいつのことだっただろう。ナナフシの仲間で、大きさは十五センチ程度、明るいところでは枯れ枝のようにしか見えない。身体を引き裂くと体液が青白く発光するのは、敵の目をくらませるためなのだそうだ。捕食者が驚いている間に他の仲間を逃がす。けれども子どもたちはその光が大好きで、昼の光の下では見えず、暗闇でだけわかるそれを見るために、日没から家に帰るまでの間、せっせとつかまえては殺す。ときどき強烈な光を発するものがいて、それが面白いらしかった。遠い国の学者の名前を冠した正式な呼び名があるはずだが、響きが耳慣れないせいか誰もおぼえておらず、この国ではサイリウムと呼ばれている。
 それにしてもよく見かけるなと思っていたら、今年はどうもこのあたりで異常発生が起こったらしいと、網戸での出現事件があった数日後の朝のニュースで知る。家を出る間際だった子どもはそれがよほど気になるのか、ランドセルのベルトをつかんで中腰になったままテレビを見ているが、「遅れるよ」と注意するとはっと我に返ったようになって登校していく。
 ニュースで見たせいなのか本当に大量発生しているのか、庭で花の世話をしているとやたら目について困る。火ばさみでおっかなびっくりつまみあげ、家の敷地から追い出しているところになんとなく見覚えのある女性が通りがかって「あら」と言う。たしか自治会のバス旅行で隣の席になった人だ。会釈をすると向こうもやわらかく会釈を返し、「増えましたよねえ」と、こちらからは見えないが柵の向こうの溝に落ちているらしいそれを指さす。「いやですねえ。それに子どもがね、いじめるんですよ」「あ、うちもうちも」と声がワントーン高くなって、しばらくその話題で盛りあがる。「なんであんな残酷なことするんでしょうね」「光るのが面白いみたい。今日ニュースであったでしょ、うちの子が夜公園に行っていいかってうるさくて」と女性はきれいに描かれた眉をゆがませて言う。ほんとに、と答えながら、幼稚園の頃は虫が平気で蟻の巣のそばにしゃがみこんでよく肢や触角をもいでいたことをふいに思い出すが、そのことは話さない。
 子どもがいつもより早く帰ってくる。すぐに居間で宿題のドリルを開き、そのあとは自分の部屋でおとなしく本を読む。夕食作りを手伝ってくれて、いつもより小さくちぎられたレタスのサラダが食卓に乗る。「今日、学校は?」と聞くと、道徳の時間に発表をして先生にほめられた話をしてくれる。おやすみを言って一時間ほどたった頃、ふいに胸騒ぎがして防犯アプリを開く。子どもに持たせた端末は間違いなくわが家にあることを示している。それでもいやな予感がおさまらず、子どもの部屋を静かにノックするが、返事はない。光で起こさないよう廊下の灯りを消してからそっとドアを開ける。ベッドは空っぽで、枕元の端末だけが光っている。真っ暗な部屋の中、友人たちとオンラインゲームをするために作ったチャットルームに新しいメッセージがあることを知らせる通知が次々と現れては消えていく。
 言いつけどおりロックのかかっていない端末を開きメッセージを確認すると、公園、という文字が見える。サンダルをつっかけて家を出る。走り出してから、運動靴にするんだったとすぐに後悔する。公園が見えてくると、うっそうとした木々や垣根の向こうが青く輝いてるのが遠くからでも見える。光はうごめき、うねり、走り、踊って、あちらこちらで新しく生まれている。きゃあきゃあという押し殺した笑い声と走る足音がそこらじゅうから聞こえてくる。子どもたちはみんな我を忘れて顔や腕や脚を青い光にまみれさせ、街灯の下では影になり、暗いところでは残像のようになって、誰が誰なのかちっともわからない。「やめなさい、みんな家に帰りなさい」と怒鳴ってみるが、声はむなしく暗闇に吸いこまれる。そばをかけ抜けたひとりが子どものような気がしてとっさに腕をつかまえると、その子はまったく見知らぬ子で、顔に青い光を放射線状に幾筋も塗りたくり、宇宙の穴のように見える。突然後ろから思いがけない力で突き飛ばされ、よろけて膝をついたすきにその子は逃げていく。体当たりしたらしいふたりの子どもが遠ざかりながらハイタッチをしたのが、光の動きでわかる。濡れた感触にふと目をやると、左手の甲が青く燃えるように光っていることに気づく。とっさにこすって落とそうとするが、ぬるぬるとした体液はますます広がって右の手のひらが光で汚れる。パニックに襲われ、手をこすり続けながら、子どもの名前を呼ぶ。子どもたちはみんな光る手を天に向かって振りつづけている。

(了)

初出:2020/07/29 犬と街灯とラジオ#12 15:00~


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