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「ジョニィが悪党ではないのですか?」ジョジョ第7部感想振返書

ジョジョの奇妙な冒険第7部~スティール・ボール・ラン~(以下、SBR)に納得できない時間が長かった。

「何をやっていたのか、したかったのかよくわからない」それが読み終えた感想だった。
ジョースター家の運命の消失とともに物語の前提がなくなり、スタンドはより複雑化し、セリフや展開はより抽象的に。私の理解が追いつかなかったのだと思う。

去年の8月には読み終えていた第7部の感想を今さら書いているのはそういう理由からだ。「7部は傑作」との声をよく聞いていただけに、当時は自分の感受性がひどくみじめなものに思え、うじうじしていた気がする。納得からほど遠い日々が続いた。

私にきっかけをくれたのは、昨年末に届いたお題箱の投稿だった。

「SBRとはジョニィ・ジョースターが悪役の物語ではないのか?」

ジョジョ7部感想文は、この問いから始めたいと思う。

正義からエゴのぶつかりあいへ


SBRことジョジョ7部はジョジョシリーズの大きな転換点となった話だ。「ジョジョの奇妙な冒険」は第6部ストーンオーシャンをもってジョースターの運命に終止符を打ち、第7部からはまったく新しい世界でのストーリーになったためである。

ジョナサン・ジョースターから空条徐倫まで続いたジョースターの運命は悪を裁く戦いの連続だった。それぞれの部に明確な"悪"が登場し、ジョースターの血統が"正義"の心を持って打ち砕く。マフィアのボスになったジョルノでさえ街を救うためにギャングスタをめざす男であり、彼の敵となったディアボロは同情の余地のない悪として描かれる。
1部~6部までのジョジョは、正義が悪を倒す勧善懲悪の性格が非常に色濃かった。

一方、7部はシンプルな対立構造では語れない。SBRレースという熱狂におびき寄せられた人々の群像劇だからだ。そして――馬にしろ遺体争奪にしろ――物語の中心がレースである以上、本質的には「他人を蹴落として自分が利益を得る」話でもある。

主人公のジョニィ・ジョースターは「自分の足を治す」という自分の利益のためなら殺人もいとわない固い決意がある。作中では『漆黒の意思』と表現されるものだ。他者を害するしか使い道がないスタンド『牙(タスク)』を発現したあたりからも、その精神性はうかがえるだろう。

自己の欲望のために他者からためらいなく奪おうとするジョニィの行動原理は、ジョジョ第6部までのラスボスに通ずるものがある。さすがに吉良吉影やプッチらと完全な同類というとジョニィがかわいそうだが、自身の弱さを克服するため殺人に手を染めるジョニィの精神性は"悪"といって差し支えないはずだ。

ともすれば、最初の問いは「その通り」だろうか。私は「半分そうだし、半分違う」と答える。SBRにおいて"悪"はジョニィだけではない。むしろ、この物語に出てくる人々の9割なんじゃあないか。

ジョニィの相棒であるジャイロは、社会的規範を捻じ曲げるためレースに参加する。国家反逆罪を犯したとされる少年の処刑を見逃せなかったためだ。刑を執行する立場にある人物が法に逆らい、特例を求める。国家を疑ったと言いかえればかなりスケールの大きい悪だろう。

主役2人のライバルとなるディエゴ・ブランドーは幼少期の復讐のために社会の頂点に立とうとする。中盤の強敵サウンドマンはジャイロを倒すために人1人を容赦なく殺害した。他のキャラも清廉潔白とは言い難いくせものばかりだ。

SBRとは、自分の目的のために他を壊す"悪"が衝突する、エゴまみれの物語ではないだろうか。

この考えを補強するのが、ジャイロがたびたび語る『納得』の話だ。

ジャイロ「『納得』はすべてに優先するぜッ!!」(8巻35話)
ジャイロ「有罪か無罪か!『納得』は必要だッ!『納得』は誇りなんだ!」(4巻20話)

納得とは徹底的に自己完結した行為である。そこに社会がつけこむ隙はない。「納得は全てに優先する」はなんとも響きのいい名ゼリフだが、常識的に考えれば個人の納得なんかより集団が決めたルールを優先すべきに決まっている。それが社会だ。

たとえば子供を殺された親がいるとして、犯人が無罪になればどうか。その親は『納得』できないだろう。公正な裁判の結果だろうと納得できず、個人的な報復に走りたくなる……仇討ちこそ社会が許さない行為なのだが、それでも「やりたい」と願わずにはいられない。そしてその親の心情を私たちは、ある程度理解できてしまう。

社会のルールと道徳に背いてでも「やりたい」「やるべきだ」。その衝動こそがジャイロが語る『納得』であり、SBRの誰もが求めたものだと思う。
『納得』を求めるジャイロに父グレゴリオが「納得など存在しない」と語ったのは、ツェペリはそのような個人の不満を優先すべきではない……そんな究極の秩序としての考えからかもしれない。

こう考えると、スティール・ボール・ランは徹頭徹尾アウトローの物語だと感じる。ジョースターの血統が歩んできた絶対的な正義どころか、社会的には悪と蔑まれる男たちが相対的な望み、すなわちエゴのためにぶつかりあう闘争の物語なのだ。
だからこそ初見では「なにをしているかわからない」なんて思ったのかもしれない。6部までは正義と悪の衝突だったジョジョが、多種多様な主義主張が混ざりあう群像劇に変化し、一筋縄ではいかなくなった。それを受け入れられないまま24巻まで読んでしまったのだろうか。

古いと新しいが同居する時代

「エゴのために互いを破壊しあう行い」をわかりやすくかみ砕いているのが、リンゴォ・ロードアゲインの『男の世界』だ。作中で「反社会的」「遅れた価値観」と語られる彼の哲学は、第7部を考える上でとても象徴的である。

リンゴォ「『社会的な価値観』がある そして『男の価値』がある」「昔は一致していたがその『2つ』は現代では必ずしも一致はしていない」「『男』と『社会』はかなりズレた価値観になっている………だが『真の勝利への道』には『男の価値』が必要だ…」(8巻35話)

リンゴォは公正な殺しあいを通して自己を高める殺人者として、ジョニィとジャイロの前に立ちはだかる。自分の都合のために他者から奪おうとする行為は第7部を通して敵味方関係なく行われる。リンゴォの価値観は、そのまま第7部全体を貫いているものだ。

リンゴォが語るように闘争の成果をもって男が尊ばれる時代は確かに存在した。それは動物相手の狩りだったり、あるいは戦争だったりした。
私たち現代人は資本主義のおかげで血まみれの価値観から脱却して久しいが、SBRの舞台は1890年のアメリカである。戦いが至上の古い価値観(=『男』)と経済活動によってシステムを構築する新しい価値観がギリギリで同居し、もうすぐ新しい価値観だけが正義になろうとしている時代だ。

これについては第1話のサンドマンの発言がわかりやすい。白人に関わるすべてを暴力で排除しようとする部族に対しての言葉だ。

サンドマン「部族のみんなの考え方はもうこの時代では通用しない」第1巻1話

リンゴォが語る『男の世界』、ひいては遺体争奪レースに参加する悪党たちのやり方はこの先の時代では通用しない。なんなら彼らが生きる1890年のアメリカでさえ異常な行いである。もちろん読者の私たちには真似できない。時代遅れの悪たちが見せる最期の輝きは激しく、同時に妙な寂しさを感じさせる。
SBRの報酬が「社会的に絶対正しい『あの男』の遺体」というのはひどい皮肉だ。道徳から目を背けた連中が道徳の頂点を追い求めているのだから。

この節の最後に少し横道にそれるが、リンゴォはジャイロを『対応者』と蔑み、最初はまるで相手にしようとしなかった。
これは、ジャイロがこの時点ではまだツェペリ家のジャイロ・ツェペリに囚われていたからだと思う。正当防衛はできるが先制攻撃はできない。もっと彼の気持ちに踏みこむなら、やむをえないなら確実に殺すができれば殺したくない。

他者を極力害そうとしない精神は新しい価値観ではとても尊い。が、男の世界では邪魔なだけだ。だからこそジャイロは「納得しなきゃ進めない」とあらためて叫んだのだろう。
少年の命を救うのが目的ではなく、自分がただ納得したいのだと願った。他者より自身を優先する精神の芽生えによってジャイロはリンゴォと、ジョニィと真の意味で対等になれたのだと思う。

大統領は正義なのか?

もう一度、冒頭の投稿を確認しよう。

この投稿者はおそらく「(ジョニィが悪役なのだから)ヴァレンタイン大統領はむしろ正義の人間では?」というニュアンスで書いたのだと思う。私も気になるので、ここからは「ヴァレンタイン大統領は正義なのか?」を考えてみたい。

ファニー・ヴァレンタインはSBRの黒幕であり、遺体争奪レースの中心として暗躍しつづけたアメリカ合衆国大統領だ。その最終目標について、彼はこう語る。

ヴァレンタイン「わたしには『愛国心』がある」「全てはこの国のために『絶対』と判断したから行動した事……」(第22巻88話)

その言葉に嘘はない。ヴァレンタインは尊ぶべき愛国心を原動力とした、ジョジョのラスボスとしてとても奇妙なラスボスだ。

SBRはエゴがぶつかりあう戦いだ。それは究極の"私"と"私"のコミュニケーションであり、どこまでいっても個人同士の共食いに終始する。ただし、ヴァレンタイン自身の認識は異なるはずだ。彼の願いは国のためであり、公共性が極めて高い。この男だけ"私"ではなく"公"のために行動しているのだ。

国のために奉仕をためらわず、並行世界のヴァレンタインが喜んで犠牲になる献身性を見せた場面も多い。愛する国やその背後に存在する国民を守るため闘争に飛びこむヴァレンタインは、アメリカを救うスーパーマンともいえる。つまり正義の存在だ。

正義と悪の衝突は第7部のクライマックス、ジョニィとヴァレンタインとの対決でより色濃く描かれる。『タスクact4』が放つ無限の回転に襲われたヴァレンタインは、別世界のジャイロを条件にジョニィに聖人の遺体から手を引くよう訴える。

ヴァレンタイン「わたしの大統領としての絶対的「使命」は! この世界のこの我が国民の『安全を保障する』という事! それひとつに尽きるからだ!」(第22巻88話)

社会的な正しさを語る大統領にジョニィも「僕のほうが悪なのかもしれない」と心が揺らぐ。主人公が悪を自覚し、ラスボスが正義をうたう。第6部までのジョジョとはまったく正反対の"正義"と"悪"の構図が成立しているのだ。

ともすれば、ヴァレンタインは悪党が集う第7部においてまぶしく輝く正義の人だったのか。これはさすがに違うと思う。思想は清らかでも手段があまりにも邪悪だからだ。

遺体を集めるためにジョニィら参加者に刺客を送りこむのはもちろん、遺体を処女懐胎してしまったルーシーを骨の髄まで利用したり、何も知らない運転手を拘束したり、失敗した部下を粛正したり……ヴァレンタインの悪行をあげていけばキリがない。

ジョジョの過去シリーズにおいてヴァレンタインのこういった言動を表する言葉がある。第5部の「吐き気をもよおす邪悪」と第6部の「もっともドス黒い悪」だ。

ブチャラティ「吐き気をもよおす『邪悪』とはッ!なにも知らぬ無知なる者を利用する事だ……!!」(ジョジョの奇妙な冒険第5部第78話)
ウェザー「自分が『悪』だと気づいていないもっともドス黒い『悪』だ…」(ジョジョの奇妙な冒険第6部136話)

遺体回収のためなら無辜の民をためらわず犠牲にし、すべてを「アメリカ合衆国のため」というお題目で正当化するヴァレンタインはどちらにも当てはまる。正義でありながらまぎれもない悪だ。

ならば「ヴァレンタイン大統領は正義なのか?」の問いは、こんな答えになる。「半分そうだし、半分違う」。ジョニィと一緒だ。ヴァレンタインもまた、願いのために他を蹴落とすSBRの一参加者に過ぎない。

最終局面ではそんなヴァレンタインにジョニィが「あんたが正しいと信じたい」と告げ、ピストルを投げ渡すシーンがある。

「我が心と行動に一点の曇りなし…………!全てが『正義』だ」(第23巻89話)

ヴァレンタイン本人がハッキリと『正義』を宣言するこのセリフは名場面としても有名だ。しかし実際は、ヴァレンタインがジョニィとの取引を反故にして彼を射殺しようとする直前のシーンである。そして殺され、ヴァレンタインはSBRから退場した。

ヴァレンタインが本当に正義の人ならば、ジョニィとの取引を破ったりしなかったのだろうか。その場合、別世界のジャイロが基本世界に現れる。その時ジョニィはどうするのか……。

「もしも」としてはとても気になるが、ヴァレンタインは無限の回転を撃ちこんだジョニィを憎み、彼への殺意を優先した。"公"から"私 "のエゴを選んで大統領は負けたわけだ。

エゴまみれの男たちの奇妙な友情

SBRの表のレースは、ひたすらにラッキーな男ポコロコの優勝で幕を閉じる。ポコロコは遺体争奪レースには一切参加せず、まっとうに馬を走らせつづけた男だ。序盤であんなにクローズアップされたのに中盤以降は一切出てこなかったので、初見では残念に思った記憶がある。

遺体争奪レースで踊り狂った悪党たちはものの見事に敗北した。ジョニィは最後に遺体を奪われ、ジャイロはヴァレンタインに殺された。ヴァレンタインやディエゴといった敵も大半が死んでいる。ピカレスクロマンのお約束通り、悪はもれなく裁きを受けたのだ。

ヴァレンタインが倒れた後に別世界のDioが出現してジョニィを下す展開を私はかなり気に入っている。Dioが『世界(ザ・ワールド)』を使うファンサービスもたまらないが、なにより好きなのはジョニィを裁くのがDioである点だ。

悪のカリスマと呼ばれた男に似た名前と同じスタンドを持つDioがジョニィを倒す流れは、悪はより大きい悪によって倒されるカタルシスがつまっている。最後はルーシーによって葬られた都合の良さもいい。「ジョニィを倒してくれたので舞台装置は用済みです」とでも言わんばかりだ。

結局、エゴで他者をふみにじる輩は全員仲良く敗北する運命なのだ。では、負けたジョニィはなぜ帰国するラストシーンであんなに清々しい顔をしたのだろうか。ジャイロは死に際にLESSON5を託せたのだろうか。

ジョニィとジャイロはそれぞれの目的のために手を組み、旅をする中で損得を超えた友情を育んだ。現代の大学生のような馬鹿な会話をしたり、致命的な失敗を互いに慰めたり、互いにとって大きな存在になっていった。

そしてジャイロはヴァレンタインに敗れながらも、ジョニィにすべてを託して散ってもいいと思えるほどの『納得』を得る。自分のために出会った他人同士は、いつしかかけがえのない他人を思いやるようになったのだ。

ジャイロのLESSON5から黄金の回転を導いたジョニィは『タスクact4』でヴァレンタインを打ち破る。ツェペリがジョースターに託す展開は第1部と第2部でもあった名シーンだが、第7部のそれはだいぶ違う。

ジョナサンとツェペリ男爵、ジョセフとシーザーと並べるにはジョニィとジャイロはあまりにも正義らしくない。彼らは悪党でありエゴイストだ。社会的規範に背く人でなしである。それでも崇高な友情を結んだのがジョニィとジャイロなのである。

「悪は利用する側の存在」を徹底していた6部までとはまったく違う悪の生き様を描く。それが私が考えるSBRだ。悪党も人間なのだから友を作ることもあるし、高潔なものを得ることだってある。それこそ正義を成すジョースターのようだ。
悪が倒すべきアイコンではなく一個の人間として掘りさげるこの物語は、運命がリセットされた新世界だからこその話じゃあないだろうか。

結果としてSBRに負け、過程で奇妙な友情を勝ち取ったジョニィ。そんな収支に『納得』しながら彼が帰国の途について、第7部は幕を閉じるのであった。

最後に

2021年末に見たNHKドラマ『岸部露伴は動かない』をきっかけにジョジョの世界に入門して1年以上が経つ。この感想文をもって、ようやく私はジョジョ1部~第8部までを完全に読み終えた。

心のどこかでずっと引っかかっていた第7部に私なりの納得を得られたのは、とっかかりをくれた冒頭の投稿のおかげだ。本当にありがとう。それしか言う言葉が見つからない。

本記事を書きながら「もしかしてそうなのかな?」と考えるようになった予感をここでざっくりまとめておきたい。

第7部は悪党たちの物語であり、最後に悪はもれなく敗北する。それがこの感想文の主旨なわけだが、こうなると第8部も少し気になってくる。第7部でジョニィたちを悪と判断する基準は社会の価値観、つまり国だとか法律だとかの『ルール』だ。では第8部で対決した災厄は、超自然の『ルール』といえないだろうか。

定助は災厄を象徴する透龍を乗り越えたが、ホリィの救済までは届かなかった。ジョニィは社会を象徴するヴァレンタインを打倒しながらもレースに負けている。ルールに立ち向かった主人公がどこか勝ち切れていないのだ。ジョースターの終焉とともに消えた運命とはまた違う、個人ではどうしようもない巨大なルールとの対決が第7部からのひとつのキーワードと読み解けるかもしれない。

2023年4月現在、ジョジョ9部『ジョジョランズ』が始まっている。主人公のジョディオ・ジョースターは麻薬の売人をこなし、自身が仕組み(メカニズム)側の人間になろうと夢見る少年だ。その根底には、悪人としての素質が色濃い自分へのある疑問が横たわっている。

ジョディオ「オレって幸せになれるのか?」(ジョジョランズ第2話)

ルールに立ち向かい、自らメカニズムを手にしたいと願う悪党は幸せになれるのだろうか。まだ始まったばかりのジョジョランズの物語を勝手に深読みするのもよくないと思うので、これぐらいにしておきたい。

最後に。

それにしてもディオの文字を持つ主人公がいつか「誰にも負けない男になる」とか言いだしたどうしてくれよう……とか考えざるをえない。他にもいろいろ予想や妄想をしながらウルトラジャンプの発売日を待つ日々を送っている。

ジョジョを定期的に待つ生活がとても楽しい。

ジョジョに追いついてよかったと心から思う。

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