二拠点生活における、自由と不自由について
二拠点生活を始めて、移動する頻度が増えた。
いや、昔の頻度に戻った、と言ったほうが正しいかもしれない。
ちょうど一昨年の今頃、わたしは狂ったように国内外のあちこちを旅行していた。
月に2回は家を空けていたと思う。サラリーマンをしている身分だと思えば、なかなかの旅狂いだ。
けれど、あのときと今では、動機が少し違う。
かつて、わたしの口癖は「自分のハンドルは自分で握りたい」だった。
何をしているときも、自由が脅かされる恐怖を感じていた。
そんなわたしにとって、旅をすることは「自分が何にも縛られない存在であることを、確認するための儀式」だったんじゃないだろうか。
会社の仕事。人間関係。
息の詰まる(ように感じていた)それらから物理的に距離を置いている間、わたしは自由を取り戻した気持ちになっていた。
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自由は不自由とセットだ、ということを受け容れたのは、きっと島を数回訪れた頃だと思う。
きれいな海。美味しい空気。穏やかな島民の方々。
島で暮らし始めたばかりの頃、東京で抱えていた「縛られているような感覚」。
ここから逃げ出したい気持ちが多少なりともあったのは、否めないだろう。
ところがすでにnoteでも書いている通り、島暮らしは不自由のオンパレードだ。
モノやサービスは、都会のようには手に入らない。
狭い人間社会のなか、いろんな噂も立つ。
根強いジェンダーギャップに、絶望で頭がくらくらすることもある。
結局のところ、わたしは「譲れない自由」を獲得するために、二拠点生活を始めた。
そして、その他の自由については、いちど手放してみたり、何とか工夫したりして過ごしている。こうやって少しずつ、自由の領地を広げていくのだ。
本来であれば、まんべんなく自由であることが、いちばんの理想だ。
でも、その前にはかならず、不自由の歴史がある。
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不自由の歴史。
これを塗り替えるために、いろんな人がいろんな場所で、それぞれの活動を続けている。
ジェンダーギャップの解消のために発信を続けている、フェミニストのライターさんがいる。
田舎の閉塞的な人間関係に風穴を開けるために、街の集会所に新たな場作りをしている人もいる。
それらの活動は、本人たちのミッション実現に留まらず、不特定多数の人たちの自由をも、派生的に実現していく。
わたしには、そこまで大層なことはできないかもしれない。
けれども、自分のこれまで暮らした場所やコミュニティについて、二拠点生活を通して語ることはできる。
いいことも、悪いことも、全て。
そうした語り部的なやりかたは、誰かにとっての「不自由」たちを、少しずつ取り除くことに繋がるかもしれない。
まだまだ、どうにもならないことだらけだ。
でも、少しずつ世界は良くなってきている。
その流れを少しでも大きくするために、きっとわたしにも出来ることがある。
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