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「書かないという判断」は、自分を嫌いにならないためのもの

書きたいことがあるのに、手が動かない。そんなことが数か月に一度ある。

こんなときは焦って闇雲に書くことをやめて、大人しく「読む側」に徹する日を、丸一日作ってみる。読むものはなるべく実用書じゃなくて、エッセイとか短歌集とか小説とかだと良い。今回はひたすら『エクソフォニー』、『西の魔女が死んだ』、英語版の『夜と霧』を読んでいた。

凪のような語り口の文章に没頭するうちに「書けないけど、書かねば」という気持ちが少しずつ薄れてきて、言葉を扱うことの喜びとか、書いているときの自分の感覚が少しずつ起き上がってくる。それで、気づけばまた書けるようになっている。
今回も『西の魔女が死んだ』の終盤に差し掛かったあたりで、ふと「あ、今ならいけるかも」と思い、このnoteをぽちぽちと書き進めている。

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わたしは普段、書く話題に困ることがあまりない。その場でうずくまってしまうほど美味なケーキとの出会いとか、家路の途中の曲がり角でふいにさみしさが襲い掛かってくる瞬間だとか、見過ごせないようなことは毎日のように目の前に現れる。

「見過ごせないことが訪れたとき」と、「どうにも書けないとき」が重なってしまった瞬間は、悔しい。これは今のわたししか言葉にできないもので、1か月後では遅いのに!と、心のなかで地団太を踏みながら、過去のうすぼんやりとした記憶と同一化していく「見過ごしたくなかったこと」を恨めしく見つめることもある。

けれど自分にとってもっと悔しいのは、今の自分が書いても良い文章にならない(それどころか書かない方が良いケースが多い)と分かっているのに、人に認められたいだとか仕事に結びつけたいだとか、水たまりみたいに浅薄な勢いで形にした浅薄な文章が、誰かに読まれてしまうことなんだと思う。
万が一読んでもらえて、何か嬉しい好評をもらえたとしても、自分のなかの多数決で賛成が出ないままの文章を世に出してしまった、というしんどさが尾を引くばかりだ。

書かないことは、自分を嫌いにならないための戦略的撤退の一つかもしれない。そう考えるようになってから、書かないわたしのことを生産的でないとか言葉を持たぬ人間だとか、自分で責め立てるようなことはなくなった。

持続可能にものを書き続けるために「書かない」という判断をただしくできる自分であれば、おそらく今後書くことそのものを手放すようなことはせずに済むだろう。
もしもわたしが地位とか名声とかに気を取られて、思ってもないことを本当は書きたくもないのに書いているな、と思ったら、わたしの親しい友人はどうか首根っこ掴んで止めてほしい。

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